第84話 老兵は英雄
前回までのあらすじ!
ネハシム姐さんはまともな性癖だったぞ!
セフセフセーフ!
カナン城中段、礼拝堂に神の像はない。
ユランがまだ二十代だった頃に、前王ゼラ・ライギスフィールドが撤去したのだ。当時は神を崇める神官たちの数も多く、ゼラは彼らから狂王と蔑称を受けることとなった。
さらにその数年後、ゼラは神官らの反対を押し切って、カナン城の礼拝堂を封鎖した。窓にも、扉にも、鉄板を打ちつけて。
まるで何かに脅えるように。
自ら率先して礼拝堂を封鎖するその様は、当時の側近であっても乱心を疑ったという。
――ゼラ・ライギスフィールドはデーモンに取り憑かれた。
もっとも、宗教というものに対する弾圧を除けば、絶対的な政治手腕のおかげか、民からの指示は変わらずに高かった。
ユランが三十代になり、自らが指揮する遊撃隊を引き連れてニーズヘッグ城へと無謀な突撃をした頃には、神官たちの不満の声もほとんど聞かれなくなっていた。一部の狂信的な集団は、ところどころで反乱を起こしてはいたけれど、いずれも規模の小さなものだった。
そしてユランが四十になり、たった一人でニーズヘッグ城へと旅立った頃には、ゼラの凶行ともいえるその行動を口に出す者はほとんどいなくなっていた。
こうして王都カナンの人々は、神を忘却の彼方へと追いやった。
ユランは神像なき祭壇を見上げ、幼い唇を微かに開けた。
「今ならばゼラの行ったことの意味がわかる」
セアラは礼拝堂の長椅子に腰を下ろしているネハシムの傷に、自らのドレスを裂いて作った包帯を巻いている。幸いにして、深傷は負っていない。
他には見られぬ六翼を持ち、一介のヴァルキリーではないと思ってはいたが、山羊頭のデーモンと同等の力を持った主天使を相手に、たった一人で持ち堪えられるほどだったとは。
バレストラはユランが溶かした礼拝堂の窓に貼りつけられた封印用の鉄板の横で、見張りに立っている。ちなみに、覗き窓から礼拝堂へと続く短い廊下は崩してきた。
むろん、追っ手を防ぐためだ。
「ネハシム」
ユランが金色のヴァルキリーに視線を向けた。
幼い喉が緊張で貼りつき、ユランは喉を鳴らした。
「貴様は……」
言葉が続かない。
ネハシムは足に包帯を巻かれながら、両肘を膝に置いて両手で顔を覆っている。あきらかに言い間違えたか、言ってしまってから後悔しているご様子だ。
指の隙間から、ちらりとこちらを見て、目が合うとすぐに隙間を閉ざす。
「……」
「……はあ~………………」
「……いや、あのな……」
「黙って……」
「お、おう」
なぜ騙されていた己が謝らねばならんのか。
どこで知ったのだ。己の正体を。なぜ隠していたのだ、知っていることを。
ラミュはネハシムを心の底からは信用していない。ニーズヘッグにいた頃から比べれば信頼度は増してはいるだろうが、頭の片隅であろうとも、ネハシムが傭兵であることを完全に切り離して考えるほど、蛇の女王は愚かではない。
ならば、情報源はラミュではない……?
ユランがルビー・レッドの頭髪に手を入れて、がりがりと掻き毟る。
どうにもこのヴァルキリーが相手だと、調子が狂ってしまう。ラミュが相手ならば理詰めでやり込められることはあっても、理由もなく牙を抜かれるようなことはない。むしろこちらが不条理で押しきることも少なくない。
だが、どうにも。どうにも調子が出ないのだ。強く出られない。このヴァルキリーが相手では。
だというのに、この空気は嫌いではない。嫌いではない。青臭い少年のように、胸の奥がくすぐられてしまう。
これが色惚けというものか。
ふと気づく。
愛している。ネハシムは後悔ばかりを抱いて生きてきた死に体の己――つまり幼女魔王イルクレアではなく、老兵ユラン・シャンディラのことを、そう言ったのだ。そう言ってくれたのだ。
あれはなんだったのか……。
そのときはてっきり同性愛の幼女趣味かと思って警戒してしまったが、彼女が己の中身を老兵ユラン・シャンディラであると知っての言葉となれば、話はまったく変わってくる。
だが、己には老兵時代も含め、戦乙女の知り合いなど一人たりともいなかった。遊撃隊三〇〇にも当然含まれてはいない。なぜなら、己もまたラミュ同様に、傭兵というものを信用していなかったからだ。
傭兵という職業は、金と危険の釣り合い次第ではいつでも裏切るのだから、基本的には勝てる戦にしか出てこない。むろん彼らが加わることによって、負ける戦が勝てる戦になることもある。だが、その程度だ。ゆえに、隊には不要と判断した。
ならば貴様は何者だ……?
羽根付きヘルムを失ったヴァルキリーは、顔を両手で覆ったまま深いため息をついた。そうして手をどけて、戸惑いがちに口を微かに開けた。
「えっと……ね、イルクレア……」
イルクレア。この期に及んでまだおれをそう呼ぶか。いや、セアラやバレストラがここにいるから……か。
しかしネハシムが何かを語りだそうとした瞬間。
「はい、治療は終わりだよ。弱いけど治癒魔法もかけておいたから、清潔に保っていれば傷はすぐに塞がると思う。一度塞がってしまえば、多少動いても簡単には開かないようにもしておいた」
セアラが立ち上がる。
「ありがとう、セアラ王女」
セアラは両手を腰にあて、いつになく機嫌良さげに笑った。
「どういたしまして。おまえには感謝してるからね。何度も護ってくれたし、それにユランが生きてるって教えてくれた」
王女の隣、長机に行儀悪く座っていたユランの背筋に、玉の汗が浮いた。
おそらくはネハシムも同様の理由で。
互いに視線を合わせて、苦笑いを浮かべる。
「わたしにとってユラン・シャンディラは特別なんだ。それこそゼラおじさんと同じくらいね。といってもさ、一度しか直接話したことはないんだけど」
セアラが少し照れ臭そうに続けた。
「ずっと、ゼラおじさんに言い聞かされて育ったからね。カナン騎士団には、二度も人類を絶滅の危機から救ったすごい男がいるんだって」
「二度……?」
ユランが首を傾げた。
そういえば、ロスティアもそのようなことを言っていたか。
「うん。一度目はおまえら魔族から。ユランが立った戦場では、敗戦であっても犠牲者が激減する。彼の騎士として生きた期間分の救えた人数や、救った回数を合計すれば、実に十万騎士の半数近くにまでのぼるんだ」
そう……か……。そんなことを……ゼラは考えていたのか……。
ただ一度邂逅しただけの王は、己をそれほどまでに評価してくれていたのか。己がゼラを王として評価していたように、ゼラもまた己を。
胸と、瞳の奥が熱い。
やはりやつとはもう少し語るべきだった。
「だからユランが遊撃隊を失ったとき、誰も彼を責めなかった。むしろ生きて戻ってくれたことを心から感謝した。だけどそれ以降、本人は他人を遠ざけて生きるようになったから、そのことを知らないのだろうけれど……。でも、カナン騎士団はみんな彼を偉大な英雄だと思ってるよ」
「だが、やつは無様に死んだ。身勝手な突撃でおれに挑み、豚の餌になってな。おれが殺した。仮に殺し損ねていたとしても、人類を棄てて姿を消した。それは揺るぎなき事実だ」
セアラが表情を怒りに歪めた。
「そんな言い方はよせ! ユランだって人間だ! 精神の限界なんて知れてる! 人類の未来を背負うにはもう限界だったんだよ!」
そうだ。そうだとも。己はもう限界だった。ただし、背負ったものは未来なんかじゃなかった。無数に取り憑いた亡霊を、背負えなくなったのだ。その重圧に圧し潰され始めていた。
だから、そんなことは言われずとも知っている……。嫌というほどに知っている……。
つらくて、苦しくて、魔王に終わらせてもらおうと身勝手なことを考えて、ニーズヘッグへと……逃げた……。
死に、逃げた。
最も恥ずべき行為を、己は行った。
何も成長していない。遊撃隊を失い、魔族から死に物狂いで逃走してきた頃と。
ネハシムは息を呑み、ユランとセアラの様子を見つめている。
魔王はやがて長いため息をつき、口を開けた。
「残りの一つは神軍との戦か?」
勇者と呼ばれた出来損ないの己は、どうやら神を討つために旅立ったらしい。
魔族の女王イルクレアとドワーフ族のディル、そして思い出せないけれど、エルフ族のルーシャという娘とともに。
だが、結果は敗北。失敗し、無様に記憶を奪われて戻ってきた。
「うん。生きて戻ったユランは記憶を失っていたけれど、きっと何かを成し遂げた。だから古竜族をも滅ぼしたはずの神軍が、たかが魔族や人間族を相手に小賢しく暗躍するしかなかった。本来なら真正面から潰せたはずなんだ。人間も魔族も」
「……ふん、くだらんこじつけだな」
セアラが片頬を吊り上げ、得意げに腕を組んで胸を張った。
「それでいいのさっ。祈る神を失った世界には、心の拠り所にする英雄が必要なんだからっ」
その様子がおかしくて、ユランは少し頬を弛める。
「……そうか」
「そうさっ」
バレストラが足音を立てて歩み寄ってきた。
「急いだ方がいい。上位種のデーモンどもまで駆逐され始めている。やつらが殲滅されたら、神軍の天使どもは一斉に城内に戻ってきてしまうだろう」
「ああ。ネハシム、休憩は終わりだ。動けるな?」
「ええ。セアラ王女のおかげで支障はなさそうよ」
少し見つめ合う。
何か言いたいことがあったとしても、セアラやバレストラの前では、このヴァルキリーは本音で語ることはないだろう。
「貴様、後で聞かせろよ?」
「ええ。いいわよ」
ネハシムは肩をすくめ、観念したように微笑んで。
バレストラが封印用の鉄板の隙間に大曲剣を差し込んで強引に引き剥がし、慎重に首を出して左右を見回した。
「よし、回廊を走って居館まで移動する。その先が王座の間だ」
うなずき合い、四人は走り出した。
人類の間では案外評判よかったらしい。




