第80話 老兵と百合
前回までのあらすじ!
煩わしかったぞ!
ここは……。
縦の抜け穴から顔を出し、左右を伺う。
「……地下牢……?」
こつ、こつ、こつ……。
足音が響き、慌てて首を引っ込めた。
幼い唇に指を立て、背後の二人を振り返る。ぼんやりとした聖剣グウィベルの光の中で、セアラが小さくうなずいた。
足音が通り過ぎ、十分に遠ざかってからユランは慎重に地下牢獄の、最奥の牢の一角から上半身を出した。
「む……」
厠だ。糞の穴から顔を出している。
「うぇぇ……」
「何してるんだ。早く上がってよ、魔王」
「おい、セアラ! 糞溜めではないか!」
セアラが幼女の尻を押し上げて、自分の顔を厠からひょっこり覗かせた。
「嫌なら排泄物ごっこなんてして遊んでないで、さっさと出て!」
「し、尻を押すな、莫迦者! スカートがめくれるだろうが!」
「うるさいバカ! 心配しなくても最奥の牢は使われてないよ! そう見えるように設計されてるだけに決まってるだろ! 抜け道だぞ? わかりやすくなどあるものか!」
「お、おお」
たしかに汚物臭はない。あえて言うなら、湿ってかび臭い程度か。
どうやら最奥の牢は囚人を閉じ込める部屋ではなく、抜け道だけのために作られた、牢獄に似せた空間だったようだ。
「なるほど。さすがに怪しむ輩も少ないというわけか」
「そうだよ。誰も捜したくないところ、誰も怪しまないところから繋がってないと意味がないじゃないか。王座の裏とか王の部屋とかだと、真っ先に疑われるからな」
もっともな話だ。
厠から逆流するように、幼女と王女、そしてヴァルキリーが牢内に這い上がった。
「鉄格子の鍵はあるのか?」
「アデルリアナ先生からもらった鍵は、魔導師協会の扉とこっち側の鉄格子の両方が開けられるようになってるんだ」
魔導師協会。腰が重く、騎士団とは連携の取れないいけ好かんやつらだとは思っていたが、このような秘密があったか。腰の重さも、王命が関与していたのかもしれないな。
そう言えば十数年前、協会併設の魔導師学校に任務で出向いた際も、抜け道の入口となっていた聖堂には近づくことさえゆるされず、苛立ったものだ。
あのときに救ってやった小娘が協会員になっていたとは思いもしなかったが。
ロスティアやオレスティス、リントヴルムやエドヴァルドもそうだったが、わずか十年離れていただけで、ずいぶんと人間模様は変わってしまった。その最たるものが、ゼラとガレンの王位交代劇なのだろう。
セアラが鍵をガチャガチャしている。
「……いつまでかかっている」
「錆びてるんだよ。固くてなかなか回らない。もうちょっと待って」
「断る。待てん」
ユランはドライグの切っ先で南京錠を弾く。ぱきん、と音がして南京錠が転がった。
「行くぞ。ついてこい」
幼い足で乱暴に鉄格子の扉を蹴り開けて、すたすた歩き出す。
セアラが複雑な表情で隣のヴァルキリーに視線を向けた。
「……鍵、いらなかったね」
「そうね」
素っ気なくこたえて、ネハシムは歩き出す。
「どうかした? ネハシムだっけ?」
「……何も」
「そ。ならいいけど」
そんな会話を背中越しに聞きながら、ふいにユランは立ち止まった。
視線をおもむろに牢へと向ける。薄闇の中の人影に。
何者だ……?
「……? ……貴様、まさかバレストラか?」
ぼんやりと、牢で膝を折っていた男の瞳が上がった。
闇の中ですら光を失わぬ、鋭い視線。
「子供? 娘、おまえは何者だ……? なぜこのような場所にいる?」
「おれは――」
追いついて来たセアラが目を見開いた。
「バレストラ将軍!?」
「……セアラ王女……? セアラ王女か!? よくぞご無事で!」
男が立ち上がり、鉄格子に張りついた。
立ち上がれば身の丈はロスティアにも匹敵し、鍛え抜かれた肉体は武器や鎧をまとわずとも目前の敵を圧倒し、その身を竦ませる。
にもかかわらず、悪童と称される老将軍ロスティアとは違い、短く刈り込まれた髪はどこか清潔感を匂わせた。
「バレストラ、どうしておまえが投獄されているんだ!? 待ってて、牢番から鍵を奪ってすぐに出してやる!」
「そのようなことより、お聞きください! 王女!」
バレストラが走り出そうとするセアラのドレスを鉄格子越しに片手でつかんだ。
「え、な、何?」
「お父上、ガレン王はもうだめです。もはや完全に操られている」
「操られている? 誰に!?」
バレストラがセアラの背後に立つ存在に気づき、敵意を向けた。両手で鉄格子をつかみ、鋼鉄をも軋ませる握力で鉄格子をつかみ睨む。
ヴァルキリー・ネハシムを。
「神軍……ッ! 貴様らァ……!」
「……」
ネハシムは冷たい視線を向けるだけで、何もこたえない。
「セアラ王女、すぐにそこの女から離れなさいッ。ヴァルキリーという種族は、神軍の尖兵なのですッ。ライギスフィールド家のあなたなら、この言葉の意味がわかるはずだ」
セアラがぽかんと口を開けた。
ユランも同じくして。
バレストラが神軍の存在を知っていたこともさることながら、ヴァルキリーという種族が神の兵であるだなどと。
「な、何言ってんの、バレストラ。おかしくなっちゃったの? ヴァルキリーなんて、昔から人間族にも魔族にも一定数は傭兵として存在したじゃない」
「間者です! やつらはそうやって、いつの時代も我らを監視していた! 人間族も魔族も! そうだろうッ、ヴァルキリー!」
ネハシムは少しだけ困ったように呟く。
「そうね」
ユランが目を見開く。
ざわり、と背筋が粟立った。
「ネハシム、貴様もやつらの存在を知っていたのか?」
「ええ。一応は」
バレストラが叫ぶ。
「あたりまえだ、娘! 言っただろう、ヴァルキリーは神軍の尖兵であると!」
「少し黙っていろ、バレストラ。今はおれが話している」
幼女の睥睨と恫喝に、歴戦の将軍バレストラが息を呑んで口をつぐむ。
ユランがネハシムを睨んだ。
「なぜ黙っていた」
「都合が悪かったから。それに、迂闊に話すべきではないのはあなたたちも知っているでしょう。バレストラ将軍は明日にもこの瞬間の記憶を失うことになるわ。口に出してしまったのだから」
「く……ッ」
バレストラが悔しげに歯がみする。
「……ならばヴァルキリーよ、神に伝えろッ。すべてを思い通りにできるなどと思うなよ……ッ」
「ええ。できればね。……けれど、あなた大したものだわ、バレストラ将軍。記憶を保持したまま口をつぐみ、誰に何を伝えるべきかを考えていたのね。彼らに対抗するには、それはとても正しい判断よ」
ライギスフィールド家ならば記憶を失わない。王族ならば記憶のない民を誘導することもできる。けれども、洗脳されているガレン王では意味がない。
ゆえに、セアラ・ライギスフィールドだった。
ユランはドライグの柄を強く握りしめる。
赤色の刀身から陽炎が揺らいだ。
ああ……。だからこそ、わかってしまう。バレストラ・ネイリスは、真実を語っているのだと。それでは、ネハシムはどうか。
「……ッ」
火を見るよりも明らかだ。
落胆よりも、失望よりも、哀しみが勝った。
いつか空いていた胸の穴が、再び開く。そこに冷たい風が吹き込み、凍えさせるのだ。老兵の魂を。あの頃のように。
幼い手足に重い鎖が絡まったように感じた。
一時であれ、イルクレア・レギド・ニーズヘッグの他にも心を惹かれた女だ。
だが、もう――。
幼女は――いや、老兵の魂は薄暗い天井を見上げて、息を吐いた。
そんな様子を尻目に、ネハシムは口を開く。
「それで、わたしからも聞きたいのだけれど。こたえていただけるかしら、バレストラ・ネイリス」
「言ってみろ……ッ、神の狗め!」
「どうやってヴァルキリーが神軍の尖兵であることを知ったの?」
――聞くに堪えん。
瞬間、ユランが動いた。
肩にのせていたドライグをネハシムの首筋へと振るう。橙色の軌跡を残しながら白い首筋へと迫った刃は、しかし寸前のところで制止していた。
「……ッ」
ぐじゅぐじゅと固まらない傷のように、胸が痛い。
唇を震わせ、ユランは掠れた声を出した。
「おれを騙していたのか、ネハシム……ッ」
ネハシムはユランを一瞥すると、白銀の手甲で無造作にドライグの刀身を押し下げる。
「やめて。あなたの敵には回らない」
「おれの記憶を奪い、仲間ごっこを続けるからか? ああ、そいつは敵とは呼ぶまいよ! 貴様にとってはな! ……あまり巫山戯るなよ……っ」
ネハシムが再びユランに視線を向けた。
ユランがドライグを持ち上げる。
己でなくては、このヴァルキリーは誰にも仕留めることはできない。おそらく、魔軍が総掛かりであったとしてもだ。
いや、己ですら危うい。
認めよう。このヴァルキリーは、彼の魔王イルクレア・レギド・ニーズヘッグにも近しいほどの力を秘めているのだ、と。
「身を挺して仲間を救い、犠牲となったトロールのために流した涙は、偽りだったのだな」
「いいえ」
ネハシムがユランを苛立たしげに見下ろし、ユランはネハシムを怒りで睨み上げる。
セアラが大あわてで二人の間に割り込んだ。
「ちょ、ちょっと待って! ここまで来て、どうしてこんなことになるの!」
「……どいていろ、セアラ。裏切り者を野放しにはしておけん」
聖剣グウィベルが、ネハシムに背負われた鞘からその白き刀身を現す。
ちり、ちり、空間が焦げつく。
歴戦の将であるバレストラですら、大きく喉を動かして嚥下するのがわかった。
「邪魔よ、王女様。怪我をするわ。わからずやを少し黙らせるだけだから」
「いい加減にしてよ! 状況を考えてって言っているのが――あっ!?」
ユランがセアラのドレスの袖を引っ張って、バレストラの牢へと押しつけた。バレストラが意を得たようにセアラの身体をつかむ。
「放せ、バレストラ!」
「なりません!」
「このバカ! あいつらは仲間なんだぞっ!?」
「神軍に仲間などいない!」
ユランとネハシムの殺気が同時に膨張した。
最初に赤い靴が地を蹴った。幼い身をさらに縮め、地面すれすれで疾走する。ドライグの刃が地下牢の地面を削り、火花を散らしながら斬り上がった。
「ぐぅるああぁぁぁ!」
「――っ!?」
ヴァルキリーは一瞬早く牢獄の天井近くまで跳躍で逃れ、六翼を器用に操りながら天井を勢いよく蹴る。
「はあっ!」
空ぶったユランの背中を目掛けて――!
回避は間に合わない。
ユランはドライグを振り切った体勢のまま、その刀身を自らの背中にあてて両足を踏ん張った。ネハシムの振り下ろしを受けるためだ。
だが――。
ネハシムはユランの予想を裏切ってドライグの刀身を足甲の裏で蹴り、幼女の体勢を崩させたところで、その背後の虚空へと、グウィベルを真横に薙いでいた。
「ぎゃ――っ!?」
ユランの背後、薄闇の虚空から真っ赤な鮮血が噴出する。
一瞬の後には、上半身と下半身を真っ二つに分断された二翼のヴァルキリーが、薄暗い廊下に臓腑をぶちまけながら転がっていた。
「あ……が……か……っ…………く……」
二翼のヴァルキリーは上半身だけを痙攣させると、力を失って肉塊と化した。
いや、違う。
ユランは目を見開く。
戦乙女ではない。翼を持った男性体だ。なんだ、これは。ヴァルキリー種に男性がいるだなどと、聞いたこともない。鳥人族にしては翼だけではなく腕もあるし、下半身も完全に人間だ。
ネハシムがグウィベルの血を払って、背中の鞘へと滑らせる。
「神軍、天使九位階の八位大天使よ。今後は足音ではなく、気配や羽ばたきが生み出す空気の対流にも気を払って。わかった?」
ユランがぽかんと口を開けて、眉をひそめた。
「なんて顔をしているの……。さっき言ったわ? 敵にはならないって」
「なぜ……」
「なぜって、そんなの――」
ネハシムが少し恥ずかしそうに視線を逸らせ、唇を尖らせて小さな声で呟いた。
「……あ、あなたを……愛しているからよ……」
ヒイイイィィィィィ~~~~~~~~~~~~~っ!?
一気に具現化したヴァルキリーの百合疑惑!
老兵の悩みの種がまた一つ増えたぞ!(でもちょっと喜んでると思うぞ!)




