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第74話 老兵が脱出

前回までのあらすじ!


ばいばい。

 瞬間、空白が生まれた。

 騎士らは動かず、ロスティアまでもが言葉を失っていた。誰もが呼吸すら忘れ、呆然と立ち尽くしていた。


「……ッ」


 その隙をついて、ネハシムが空へと飛び立った。

 矢を警戒してのことか、金色のヴァルキリーは空高くで身を翻してから急降下し、水面すれすれを飛翔して遠ざかってゆく。


 だが、それでも――。

 誰もが呆然と立ち尽くしたままだった。戦線を離脱する彼女に視線を向けた者すら、ごくわずか。


「……」


 ユランはぼんやりとそれを見送る。

 傭兵が勝ち目のない戦から逃走するなど、珍しくもない光景だ。

 うねり、すべてを呑み込んだ濁流の音だけが絶えず響いていた。


 ミスリル騎士の犠牲はゆうに一〇〇を超え、カナイ砦を絶対堅固なものにしていたカナイ大橋は、王都へと続くその道を竜王の爪痕によって破壊された。それも、二カ所だ。

 魔軍の立つ中州と化した橋の残骸も、まもなく押し流されて消えるだろう。


 孤立させられたのだ。カナイ砦は。いいや、カナイ砦は孤立していない。北側の支配領域とは、未だ繋がったままなのだから。


 孤立したのは、王都カナン――。


 貿易の要であったカナイ大橋を崩された王都は、他の支配領地から孤立した。魔軍がニーズヘッグ側の手勢を呼べなくなったと同じく、王都もまた孤立したのだ。


 たった一体のトロールが命がけでもたらしたものは、あまりに大きい。


 怪物が愛した魔軍を救ったこと。

 ミスリル装備の騎士らを三桁以上も屠ったこと。

 武力に秀でる勇者と呼ばれる女から、意識を奪ったこと。

 そして、王都を孤立させたこと。


 魔軍と勇者エドヴァルドの立つ大橋残骸の橋脚が、ぎしぎしと不気味な音を立てた。もうあまり時間はない。

 ラミュと視線を交わしてから、裸エプロンが、未だ膝をついたままの幼女魔王の肩に手を置いた。


「イルクレア。あまり時間がない。やつのくれた機会をみすみす潰す気か? よもやここで芋を引くわけではあるまいな」


 ルビー・レッドの頭髪が、ゆっくりと振り返る。


「……………………問題ない……。……何も……問題はないぞ……」


 ユランは自らの膝に手をついて、ゆらりと立ち上がった。

 振り返ったその表情に、裸エプロンは目を見開いて絶句する。唇を開けかけていたラミュもまた、眉間に皺を寄せて口を閉ざした。


「……どうした、貴様ら……?」


 ユランは――己が今どのような顔をしているか、自覚がない。

 だが、かろうじて笑みを浮かべる。感情の絡まり合ったぐちゃぐちゃの、みっともない笑みを。


「ハッ、なんだその顔は。おれが腑抜けたとでも思ったか。冗談ではない。ああ、冗談ではないぞ」


 ユランは欄干の前に立ち、ドライグを叩きつける。

 金属の欄干が縦に溶けて裂けた。次に欄干を支える足を横に斬る。乱暴に、行く先のない怒りをぶつけるように。苛立たしげに、いくつも、順番に。


「身勝手にくたばった駄肉のことなど知ったことではない」


 橋脚の一つが砕けて、大橋の残骸が傾く。


「あの阿呆が。頭に浮かんだ作戦を全員が認識していれば、もっとやりようもあっただろうに。役立たずが勝手に先走りおって」


 それを認識する時間などなかったことは、己が一番理解していた。

 ユランは欄干の足を斬る。八つ当たりをするように、乱暴にドライグを叩きつけて。


「あのトロールは、救いようのない愚物だッ!」


 最初にユランの意図に気づいたのは、蛇の女王だった。すかさず指示を下す。


「レミフィリアは勇者エドヴァルドを警戒、裸エプロンとヨハンはわたくしとともにカナイ砦からの矢に備えなさい」

「もう必要ない。十分だ。裸エプロンとヨハンはおれが切り取った欄干を王都側の残骸にかけろ。それを渡って魔軍は王都へと抜ける」


 裸エプロンとヨハンが欄干に手をかけたとき、ようやくその意図に気づいたらしいカナイ砦の弓兵らが一斉に矢を放ち始めた。

 ユランは魔軍を襲う数十本の矢雨を、ドライグの一振りで跳ね飛ばす。ばらばらと、大橋の残骸に矢が散らばった。


「ハッ、足掻くな! そこで黙って見ていろ、ロスティア!」


 濁流の向こう。ロスティア将軍が歯がみしながら、右手を横に伸ばした。瞬間、雨のように降り注いでいた矢が止まる。


 無駄だと知っているのだろう、この老将は。

 老兵ユラン・シャンディラに、矢など刺さりはしない。それどころか、弓の名手たる魔軍のダークエルフに矢を与えてしまうだけだ、と。


 現に、すでに落とされた矢が不自然な動きを見せている。まるでそこに見えない小人でもいるかのように束ねられ、筋肉ダークエルフの足もとに引きつけられるように運ばれているのだ。


 むろん、黒妖精どもによって。

 ロスティアがリントヴルムのように魔軍の黒妖精という存在を知覚しているかはわからない。だが、見えぬ以上は対処のしようがないし、見えたとしても対処は難しい。


 そのような博打に矢を消費し、あまつさえダークエルフに与えてしまうくらいであるならば――。


 ゆえに老将は、ただ凄まじい形相で歯がみすることしかできない。

 ユランはその様を鼻で笑って、ロスティアに背中を向けた。


「さて、エドヴァルド。先ほどからどういうわけか様子見を決め込んでいるようだが、貴様はどうする?」


 足場である大橋の残骸が、竜王の爪痕の濁流に押されてさらに傾く。

 エドヴァルドはカタナを抜いたまま、レミフィリアと対峙している。だが、まだ一合たりとも打ち合ってはいない。

 穏やかな藍色の瞳を、ユランに向けたまま。

 エドヴァルドがカタナを一振りして、鞘へと滑り込ませた。


「……今日はやめておくよ。心の隙間に入り込むような卑怯な真似は嫌いだからね。貴女を口説くときは、正々堂々とじゃないと意味がない」

「貴様……。……この前は甘いお菓子でおれを釣ろうとしておきながら……」


 エドヴァルドは聞こえなかったふりをした。

 地鳴りのような音とともに大橋の残骸が、さらに傾斜を増す。


「……っ」

「――ッ」


 裸エプロンとヨハンが傾く残骸から王都へと繋がる南側の大橋へと、ユランが切り離した欄干を梯子のようにかける。

 エドヴァルドはそれを確認すると、傾斜に立って口早に言った。


「もう時間がない。早く行くんだ、天使ちゃん。近いうちにまた口説きに行ってあげるから」

「ふん、礼など言わんぞ。(ゴミ)虫」

「ごみむ……えぇぇ……」


 ユランは傾斜に立つレミフィリアの襟首をつかむと、彼女を引きずり下ろすように走って、残骸と王都側大橋を繋げた欄干を渡った。

 その後をラミュが、セアラを背負ったオレスティスが、そして最後に裸エプロンと、複合弓(コンポジットボウ)をかまえて後方を警戒しながらヨハンが続く。

 渡りきったとき、エドヴァルドが声を張って叫んだ。


「あのトロールは敵ながら立派だったよ。魔族にもいたんだな、ああいうやつが。……僕は人間で勇者だけれど、彼には敬意を表する。天使ちゃん、貴女はいい仲間を持ったんだね」


 全員が渡りきり、ユランはエドヴァルドに視線を向ける。


「そうか。ならば煉獄(アビス)への道連れとしては最適だな。せいぜい仲良くしてやれ。ではな」


 エドヴァルドが眉を顰めた。

 どうやら意味がわからないらしい。


 ユランがドライグを高らかと持ち上げ、足もとを払う。梯子にしていた欄干を。


「悪いな、エドヴァルド」


 刃で灼き斬られた欄干は、支えるものを失って濁流の中へと落ちて消える。

 エドヴァルドが一瞬で白目を剥いた。


「ええええぇぇぇぇ!? そこはあれ……残していってくれるものかと……」

「追いかけられたら面倒だ。やりたければ貴様自身で作ればいい。できるはずだ」

「や、もうどう考えても間に合わないんだけど……」


 ゴゴ、と音がして、さらに大橋残骸が傾く。

 もはや垂直に近い状態となっていて、エドヴァルドはかろうじて上側の欄干を手でつかんでぶら下がっている状況だ。顔だけは爽やかだが、必死さがわりと無様だ。


「天使ちゃん? ちょっと? 天使ちゃぁ~ん!?」


 ユランはルビー・レッドの頭髪を振って背中を向け、歩き出す。

 ラミュが小走りでついてきて尋ねた。


「いいんですか、あれ?」


 孤島と化した残骸は、傾斜が垂直を越えたあたりで止まることなく、派手な水飛沫を上げてひっくり返った。当然、勇者エドヴァルドの姿も濁流に呑まれて消えた。


「……どうせ死なん。戦場では、阿呆ほどよく生き残るものだ」


 鎧は着ておらず身軽、戦っていないから体力も温存してある。まあ、死んだら死んだで世の中から変態が一匹消えるだけの話だ。


「弓の射程範囲外まで走るぞ、貴様ら」


 ユランが走り出すと、魔軍は顔を見合わせてからそれに続いた。

 濃霧の中、南を目指してカナイ大橋を疾走する。視界に光が映った。松明だ。こちらに向かってきている。

 おそらく大橋に伝わった地響きで、カナイ砦の様子を見に来た伝令騎士たちだろう。


「――おれが斬り込む。援護しろ」


 赤い靴で石の地面を蹴って、身を低く疾走する。

 目の前に現れた騎士の足を斬り飛ばし、反す刀でその後方の騎士の首を刎ねた。


「な――ッ!? ま、魔王だ!」

「敵だと!?」

「あり得ない! ロスティア将軍と勇者二人の陣を抜けて――ぎぅ!?」


 言葉は最後まで続かない。唇だけは動いていたけれど、胴体を失っては。

 ユランは疾走速度のまま身を翻し、すれ違い様、力任せに騎士の腹をミスリルの鎧ごと真っ二つに斬り飛ばす。


「邪魔だ」


 抜刀しようとする腕を斬り飛ばし、三方向から同時に走り込んできた騎士らを身を回転させながら灼き払う。


「殺せぇぇ!」

「おおおっ!」

「ここで止めねば――ッぎゃっ!?」


 突き出された刃を首を倒して躱し、眉間にドライグの刃を突き立て、勢いのままにその後方にいた騎士の額をも貫く。

 腹を蹴って引き抜き、振り下ろされたミスリルの大剣を頭上で受けた瞬間、背後から飛んできた連接剣の切っ先が眼前の騎士の瞳を抉った。


「ぐぎゃあっ!」


 一瞬の後には首を刎ねる。

 隣では、レミフィリアが舞うように騎士の首筋を刃で撫でていた。


 斬って、斬って、斬って、走り続けた。

 ロスティアからでも勇者からでもない。優しき怪物の死から逃げるように、走り続けた。


 やがて濃霧は薄まり、向こう岸が見え始める。そこには人形のように転がる数十の騎士と血溜まり、そしてその中央で静かに立つ六翼のヴァルキリーの姿があった。


 通り抜け様にネハシムが走って合流する。

 足を止めぬままユランは短く尋ねた。


「……どうだ?」

「……ごめんなさい……。……流れが……あまりに速くて……どこにも姿は……。……ごめんなさい…………」


 ヴァルキリーの声は、か細く揺れていた。

 紺碧の瞳には、涙が浮いている。


 ユランはうつむき、ゆっくりとルビー・レッドの頭髪を左右に振った。

 しばらく走って街道からはずれ、カナイ大橋から十分に離れた位置で足を止める。

 ざわ、ざわ。林の葉擦れだけが聞こえていた。


「今のセアラに長距離移動は厳しい。今日はここで休む」


 ユランが見回しても誰も何も言わない。みな、瞬時にその場で膝を折り、疲れ切った表情で座り込んでいた。


「オレスティス、セアラの様子はどうだ?」

「うッス。さっきまで意識はあったんですが、眠ったみたいッス」

「そうか」


 ラミュに視線を向けると、蛇の女王は小さくうなずいた。

 問題はないらしい。


「……おれは少し席を外す。ネハシム、最初の見張りを頼めるか」

「わかったわ」


 ユランが長い息を吐いて背中を向けると、ネハシムが遠慮がちに尋ねてきた。


「イルクレア……?」

「なんだ?」


 ユランが振り返る。

 ヴァルキリーは少し頬を染めて視線を逸らし、誤魔化すように金色の髪を片手で流しながら呟いた。


「一人で行ってはだめよ。置いていくなんて、ゆるさないから」


 裸エプロンが革袋から食料を取り出す。


「腹が減ったら戻ってこい。レミフィリアの作った燻製がまだ残っている。熟成されてうまいぞ」


 レミフィリアがこくこくとうなずく。

 ラミュが口もとに悪戯な笑みを浮かべた。


「用足しでしたら、お付き合いいたしましょうか? わたくしも少々もよおしていまして」

「おお! マイスウィートプリンセス! それでしたら是非ともこの私めもっ!! なんでしたらお拭きいたしますぞ!?」


 食い気味にヨハンが鼻息を荒くする。

 少しぼんやりとした後、ユランは苦笑いで静かに返した。


「この糞莫迦どもが。誰に気を遣っている」


 そんな気はもう失せた。

 ユラン・シャンディラとして生きた三十代。ニーズヘッグへの無謀な突撃からずっと一人だったから。その選択の意味のなさは、己が一番身に染みてわかっている。



 それでも、消えたいと願うことはある。

 ある――けれど。



「おれはどこにも行かん。ただ少し、一人になりたかっただけだ。今日だけ、いや、今だけでいい。……少しだけ、時間をくれ」


 弱々しく笑って。みなを安心させるように、笑って。


 ユランは歩き出した。



感傷的な空気の中で輝くヨハンの連れション宣言!

早く、早く起きて叱って、セアラ王女!

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