第7話 老兵に幼女
前回までのあらすじ!
老兵幼女、とりあえずは魔王として生きることを決意したぞ!
膝を曲げて中腰となり、両手を前に突き出してしばらく。ゆっくりと膝を伸ばす。
「は~……」
呼吸を限界まで吐き出して止め、赤いプリンセスドレスの幼女は静かに目を開けた。
ユラン・シャンディラが魔族の潜むニーズヘッグ城で目を覚ましてから、三日が経過していた。
全身が汗ばんでいる。
萎えた足も細腕も力を取り戻してはいないが、ようやっと思い通りに動くようにまで戻ってきた。歩く、走る、持つ、運ぶに困ることはないだろう。
失われた筋力分は魔力で補えばいい。少々面倒な手順が増えはしたが、さほど問題にはならない。だが、見た目だけはどうしようもない。
ユラン・シャンディラは全身を映す鏡の前に立ち、ドレスの袖で額の汗を拭った。それからじっと己を見つめ、唐突に顔をしかめる。
「ちっ、なんともな……」
ナニこそ失いはしたが、己は男だ。せめてこのひらひらしたドレス以外の着衣を寄こせとラミュに命じはしたものの、あっさりと却下されてしまった。
曰く「魔王イルクレアは魔族の象徴的存在である」とのこと。
要するに、みっともない格好をするな、ということだ。幼女が男装をすることがみっともないかはさておき。まあ、幼さはともかくとして、たしかにイルクレアの容姿は他者を奮い立たせる類のものではある。
年齢にかかわらず、美しいと素直に思える。
「しかしドレスくらいはなんとかならんものか」
ユランはドレスの裾を指先でつまみ、幼く細い太ももまで持ち上げる。
これでは派手に動けば中まで見えてしまう。むろん、そのような些細なことはどうでもよいのだが、それは己の肉体、つまり老兵ユラン・シャンディラの肉体であればこそだ。
気に入らない。ユランは気に入らないのだ。
イルクレア・レギド・ニーズヘッグの肉体を、他の人間どもに見せてしまうことが。いくらこの肉体が、まだ子供の時分のものといえど。
「これも嫉妬か……」
笑える。齢四十にしてこの様とは。
ふと思い出す。そう言えば、己とイルクレアが戦ったときには、一度たりともスカートの中など見えなかったことを。
それほどの差があったのだ。ユランとイルクレアの力量には。
己の才のなさにはほとほと嫌になる。本当に。英雄崩れに、なり損ないの勇者といったところか。挙げ句、女装までとくれば。
重いため息をついた瞬間――。
「……何をなさっているので?」
「~~ッ!?」
たくし上げていたスカートをあわてて下げる。まるで乙女のように。
ラミュが蛇の瞳でドアの隙間から覗いていた。デバガメだ。油断も隙もない。
「ユラン。あなたまさか、イルクレア様の肉体で――」
「阿呆が! そのようなことをするわけがなかろう!」
ラミュがドアを開けて、ユランの承諾を得ることなく入室してきた。
あいかわらず、黒の包帯を全身に巻き付けただけの痴女服だ。他人の服装に口を出す前に、まずは貴様から身を正せと言いたい。
「他人の肉体を弄ぶだなどと、人の道にも外れる」
魔王イルクレアの部屋――。
ニーズヘッグ城の居館最上階に、それはあった。
簡素なベッドと不細工な手作りのぬいぐるみ、そして壁際には全身鏡とクローゼットがあり、そこに魔剣ドライグが無造作に立てかけられている。
かなりの広さがあるにもかかわらず、他には何もない。
ユランは考える。
どうやらイルクレアは、あまりこの部屋には居着いていなかったようだ。おそらく寝るために戻ってきている程度の場所だったのだろう。
ならばイルクレアはふだん、どこで何をしていたのだろうか。
ラミュが後ろ手にドアを閉めて、にやりと厭らしい笑みを浮かべた。
「……あらン、わたくし、まだそこまで申し上げてはいませんが?」
墓穴を掘った。
幼女、顔をしかめる。
まあ、いい。イルクレア以外の魔族にどう思われようが、大した問題ではない。それに、こういう輩は騒げば騒ぐほど喜ぶ。そんなことを考えて、気を取り直す。
「トレーニングの成果を見ていただけだ。この三日でだいぶ動けるようになってきた。特に関節だ。つい先日までは伸ばすことさえ困難だったが、今では可動域もかなり広がった。まあ、それも当然のことか。いくら幼いとはいえ、これは全人類を震撼させた魔王イルクレア・レギド・ニーズヘッグの肉体だ。もともとの性能からして悪いわけが――」
ラミュが悪戯顔でユランの言葉を遮った。
「――いますよね~。追い詰められるとぺらっぺら余計なことを喋り始める人。うふふン」
「んぐ……」
割りと本当のことだったのだが、二十代後半以降、ろくすっぽ人付き合いというものをしてこなかった老兵は黙り込む。
口では勝てない。特に女という生き物には。どうやらそれは魔族の雌でも同じようだ。
勝ち誇った顔でラミュが呟く。
「……この変態」
「ぐ……く……ッ」
舌打ちをしたユランが不機嫌そうにどっかりとベッドに腰を下ろした。
もっとも、他者から見ればお人形さんのごとく、ちょこんと可愛らしく腰掛けたようにしか見えないのだが、残念ながら本人には気づきようもない。
「で、なんの用だ? 馴れ合う気はない。食事ならば部屋の前に運んでおけと言ったはずだぞ」
ラミュが顔をしかめて呟く。
「……ヒキコモリですか」
「ふざけるな。誰がヒキコモリか。戦の際にはいつも先陣を切り、負け戦でも殿を務めた男だぞ。いいから、さっさと用件を言え」
蛇の女王が顔を歪めて肩をすくめる。
「他のものらが、イルクレア様がお目覚めになられたのに顔を見られないのはなぜだ~って不満を垂らしてますよ」
魔族の有象無象に見舞われるなど、冗談ではない。
「面倒だ。面会謝絶だとでも言っておけ」
「だからヒキコモリですかって」
「ふざけるな」
会話が堂々巡りとなり、一人と一体が同時に息を吐いた。
「どのみち人間軍の侵攻が開始される前には必要なことですよ。陣頭に立つのですから」
「わかっている」
わかってはいるが、己はこれまで散々斬り刻んできた魔族どもを相手に、どのように声をかければよいのか。面倒臭さに思いあまって、さっくり魔剣ドライグで斬り刻んでしまいそうだ。
とはいえ、いずれ慣れねばならぬこともまた事実。
「……まおーさま?」
幼い声にふと気づくと、わずかに開いていたドアから、もっさりした黒髪の小さな幼女が半身を出して覗いていた。
今の己とそう変わらぬ見かけの年齢だ。一見すると人間に見えなくもないが、長く異様に多い黒髪の隙間からは、一本の白い角が覗いている。
ユランにとっては見たことのない魔族だ。
「む……? 貴様は何者だ?」
「あらン、ラス。どうかしたの? 魔王様はまだ快復なさっていないから、この部屋には近づいてはいけないと言っておいたはずですよ」
ラス。どうやらこの幼女の名はラスらしい。
ラスはおどおどとした様子で、辿々しく言葉を紡ぐ。
「まおーさまが、目を覚ましたって……だから、ラス……」
ラミュが困ったような表情でユランに目配せをした。声をかけてやれ、と言っているようだ。だが、ユランは顔をしかめて首を左右に振る。
「……ラス……まおーさまにあいたくて……」
面倒なのだ。子供は好きではない。おそらくラスは、今のユラン――魔力を失って若返ってしまったイルクレアとは違い、本当に幼いのだろう。話し方や表情を見ていればわかる。むろん、人間年齢とは単純に比較できぬものではあるが。
「ま、まおーさま。これで、いろいろよくなる……? にーずへっぐ、たすかる……?」
しかしラミュに睨まれ、渋々口を開く。
「何が言いたいのかわからん。もっとはっきり喋れ。面倒なやつだ」
「へう!? う、うう……」
その大きな瞳が唐突に潤み始めて、ユランはぎょっとした。ラスの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「ラス……まおーさまも、にーずへっぐのみんなも……大好きで……だから……」
「お、おい。なぜ、泣く!? 鬱陶しいぞ、貴様!」
己が何をしたわけでもないのに、言いしれぬ罪悪感が湧き出てきた。
だから嫌いなのだ。子供というものは。
ラミュがため息交じりに助け船を出してくれた。
「ラス。魔王様は記憶を失われているの。あなたのことだけではなく、わたくしのことも他のみんなのことも忘れてしまっているのよ。だから頭の悪そうな発言はすべて聞き流してあげなさい」
「はい……」
「待て。聞き捨てなら――」
ラミュの責めるような視線を受けて黙り込む。
じわり、と背筋に汗が浮いた。
「あと、イルクレア様? ラスはニーズヘッグ城で唯一の子供なのです。もう少し話し方というものに、お気をつけあそばせ!」
お、おおう……。
「わ、わかった。で、こやつの種族はなんだ?」
「わかりません。ラスは十一年前に澱みの森で魔物に追いかけ回されていたところを巨人族が保護したもので。最初は人間かとも思ったのですが――」
ラスの頭部には角がある。
「違うな」
「ええ。おそらくですが、東方に存在する鬼という魔族ではないかと言われています」
「鬼……。噂程度にしか知らんが、実在していたのか……」
その怪力は巨人にも匹敵し、駆ける足は疾風をも追い抜く。咆吼は生命を凍てつかせ、性質は極めて残酷。中には人喰らいの個体もいるという。
たった一体の鬼が、数千もの人々を苦しめる伝承も少なくない。
ユランとラミュの視線が、幼いラスへと注がれる。
ぼへーっとしている。伝説や伝承は、あまりあてにはならない。
「おい、ラス。貴様自身は何もおぼえておらんのか?」
「ラ、ラスは……ラセツってことだけ……」
ラミュが補足する。
「ラセツが呼びにくくって、ニーズヘッグ城ではいつの間にかラスで定着しました」
「ふん……」
ラスはドアの陰から入室しようとはせず、もじもじしている。洗ってはいるようだが、ほつれたぼろ布のような惨めな服装だ。
物資不足なのだろうと、ユランは考える。
それにしても、鬼とはまた奇妙な存在だ。あるいは角がなければ魔王種と呼ばれるイルクレアと同族か、もしくは人間にも見えるのだが。
ラミュが、ぽん、と手を叩いた。
「ああ、ちょうどいいですね。ラス、あなた今日からイルクレア様のお世話係をしなさいな」
「え?」
「あぁ!?」
ユランとラスの声が重なった。
「ちょっと待て、ラミュ! 世話係などいらん! おれはなんでも自分でできる!」
「はあ? トイレの場所もわからなくて、わたくしが教えるまで城の中庭で済ませていたのはどなたですか? まったく、はしたない!」
幼女、か~っと赤くなる。
そもそも、なぜそのようなところまで覗いてくるのか、この蛇女は。
「く……。し、しかし戦場ではままあること――!」
ラミュが嘲るような冷笑を浮かべた。
「はぁん? ここはニーズヘッグ城ですが?」
「むぐぅ……」
その件に関しては忘れて欲しい。というか、こんな子供の前で言わないで欲しい。死にたくなる。
ラミュが爬虫類の瞳を歪めて、さらにたたみかける。
「この際ですから言わせていただきます。イルクレア様、わたくしだってそうそう暇ではないのですよ? 食料貯蔵量の計算から、ニーズヘッグ城の修繕、武器調達のためのドワーフ族との外交に、間者からの報告まとめ。他にも――」
「ああ、わかった! もうわかった! 糞!」
たしかに目を覚まして三日、ラミュは己に付きっきりで世話をしてくれている。給仕はもちろんのこと、ニーズヘッグ城の案内から厠の場所、関節の曲がらぬうちは――一応断りはしたものの――風呂で背中まで流させた。
それに関しては、すまないと思いつつ、多少なり感謝している。もっとも、ラミュにしてみれば仕えているのは己ではなく、この肉体にのみなのだろうけれど。
ラミュが続ける。
「幸い、ラスはイルクレア様に懐いていましたし、日常生活の世話係は子供には相応の役割かと。むろん軍事にかかわることは、わたくしが随時対応いたしますので」
ユランが心底嫌そうな顔でラスを見つめる。ラスはおどおどと挙動不審だ。
ガキの肉体でガキの世話など、焼くも焼かれるも冗談ではない。だが、どうにも断りづらく感じるのは、否定の言葉を出すたびにこのラスとかいう小鬼が泣きそうな表情になるからだ。
「ちっ。おい、小鬼。おれの邪魔だけはするんじゃあないぞ」
「は、はいっ」
嬉しそうに、小鬼の幼女が顔を上げる。
「あ、ありがと……ございます……イルクレアさま」
ユランは視線を背けてもう一度舌打ちをした。
ああ、カナン王国騎士団の遊撃隊を去ってなお、ガキのお守りをせねばならないとは。
人生ってのはどうにも面倒臭いことばかりだ。
お外で用を足すのは犯罪です。(私有地だからセーフ)