第5話 老兵の末路
前回までのあらすじ!
老兵ロリコンやんけ……。
二つ、わかったことがある。
目の前で後ろ手を組み、こちらに敬愛の視線をにこにこと送ってきているこの魔族の痴女は、極めて頭が悪い。
バカだ。
もう一つは、己がここで真実をいくら言い張ろうとも、このバカは何も信じない。すべてに於いて自分にとって都合のよい虚偽へと置き換え、それを真実だと思い込む。
ユラン・シャンディラは短くなった両手で頭を抱え込み、玉座の足もとにぺたりと腰を落とした。
ど~~~~すればいい、これぇ……。
もう人間領域に帰りたい……。
「どうかいたしまして?」
「……少し黙ってろ」
「はぁいっ」
とりあえず頭で問題を整理しなければならない。まずは――。
「少しってどれくらいですか?」
思考の第一歩を無遠慮に破られ、びきっと、己のこめかみに血管が浮くのがわかった。
「………………おれがいいと言うまで黙ってろ」
「はぁ~い」
仕切り直させられた。
問題を整理する。
一つ、ここは魔王城ニーズヘッグである。
一つ、おれの姿はユラン・シャンディラではなく、過去のイルクレア・レギド・ニーズヘッグになっている。
一つ、姿がイルクレアでは、人類領域まで撤退できたところで捕らえられ処刑される恐れがある。
死ぬのは怖くない。死に場所を探していたくらいだ。だが散々己を利用してきた人間に、命までくれてやる気などない。それは実におもしろくない。不愉快なほどに。
「おい」
「……」
まるで毛先を弄って退屈をしのぐ女のように、己の角を指先で弄って待っていた魔族女が視線だけをこちらへと向けた。
肩で切り揃えられた黒髪を、首ごと傾ける。
「……」
ああ、そうかと気づく。
黙っているのだ、こいつは。愚かにも己の命令を遵守して。
「もういいぞ、喋れ」
「はいなっ」
「おれの肉体はどうした?」
「……?」
魔族女がしなやかな指先でおれを指さした。
「そこに」
ユランが膨らみの欠片もない胸に右手をあてて歯を剥く。
「これじゃない。これはイルクレアのものだろうが。おれが尋ねているのはユランだ。ユラン・シャンディラの肉体のことだ」
「ああ。勇者の肉体でしたら、死んでたんで魔物の餌にしましたけど?」
………………。
…………。
……え?
瞳を閉じて天井を見上げ、静かに、しかし震え声で問い返す。
「なんて?」
「魔物の餌にしました。ぽ~いって」
「なんで?」
魔族女が事も無げにこたえる。
「死んでたんで」
ユランは両手で顔を覆った。
「どこだっ!?」
「ニーズヘッグ城を出てすぐの澱みの森です。オークたちったら、すぐに齧りついてましたよ。あんな筋張った硬そうな肉体なのに、彼らの食欲ときたら困ったものですね、うふふン」
「……」
立ち上がり、すぐさま走り出そうとして足をもつれさせたユランを、魔族女が全身で受け止めた。
「わ、わ、そんな身体で無理に動いちゃだめですっ」
「どけ! そんなことより肉体、ユランの肉体を――っ」
無駄にでかい胸を乱暴に押しのけようとするも、幼き腕ではそれすら叶わない。ぽむ、ぽむ、跳ね返される。
ちくしょう、この身体め! ちくしょう、あのおっぱいめ!
「ええっと、それもう十年も前の話ですよ? 残ってませんってば」
「ああッ!? え……っ」
十年前だと……?
ならば己はイルクレアと相討った日から、十年間も眠り続けていたというのか! いや、そのようなことより、ならばおれの肉体は――。
「当然消化済みでしょう。ユランめの肉体はオークのうんちになって、うんちは大地を肥やして植物を育み、植物は多くの草食獣たちの糧となり、草食獣は肉食獣や魔物たちの糧となって、またうんちとなって大地にぷりぷり還り――」
「ああもううるせえぇぇぇぇっ!! 偉大なる大地の一部に還ったとか、無理にいい話っぽくまとめようとすんなバカの分際で!」
「あらぁン、傷つきますぅ」
魔族女がくねくねと身体をくねらせて、にっこりと笑った。
ユランは額を押さえてうつむく。
「ぐ……く……っ、だめだ……頭がおかしくなりそうだ……」
……いや、もうなっているのかもしれん……。そもそもだ……おれは本当にユラン・シャンディラなのか……? 実はイルクレア・レギド・ニーズヘッグで、ユランの技にかかり、そう思い込まされてしまっただけなのか……? だとするならば、おれはイルクレア・レギド・ニーズヘッグではないのか……? いやしかしそんな技は使えんぞ……?
んん? んんんんんんん?
足もとがぐらつく。己が何者かすらわからなくなったら人間お終いだ。
「あらン、どうして泣いておられるのです?」
「やかましいっ、泣いてなどおらんわッ」
肉体を失い、力を失い、記憶を虫食いにされた。
そして新たにわかったことといえば、もとの肉体には二度と戻れず、同時に十年の歳月をも失ったということ。そしてもう、イルクレア・レギド・ニーズヘッグには逢えないという事実。
己が目を覚ましたときにイルクレアの肉体だったから、もしやイルクレアもまた己の肉体にいるのでは、などという甘い考えは潰えた。
「バカバカしい……」
「?」
もともと棄てた人生だ。調子にのって仲間を殺されたときに、すべてを棄てた。今さら失って困るものなど、最初からなかったではないか。
すぅっと、肩から力が抜けた。
帰る場所などない。人類領域にも、己の肉体にもだ。
ふと、前に立つ魔族女に視線を向けた。
なりこそ美人に類するが、黒い包帯のようなものを全身に巻きつけ、それを衣類のように着ている頭の悪そうな痴女だ。美魔女ならぬ、痴魔女だ。
「……貴様、名は?」
「え? お忘れですか?」
「ああ。忘れた。てめえ自身のことさえな」
魔族女はにっこり微笑み、ユランのルビー・レッドの頭髪を静かに撫でる。
「大丈夫。きっと思い出せます。わたくしはナーガ一族、ナーガラージャのラミュ。ラミュ・ナーガラージャです。イルクレア・レギド・ニーズヘッグ様」
ナーガは蛇の一族。それも王族だ。
王族、つまりは魔王に次ぐ実力者。魔将軍の生き残りということか。バカの分際で。
「魔将軍か。よく生き残っていたな」
ユランはなんの感慨もなく呟く。
あの日。イルクレアと相討ったあの日。己は魔将軍の全員を斬り捨てたつもりだった。男も女もだ。
やつらは一騎当千。二〇〇や三〇〇の雑兵が、一体の魔将軍に壊滅させられた話など珍しくもない。若き日の己がそうだったように。
「うふふン。ラミュとお呼びくださいませ。魔王イルクレア様」
「ラミュ。おれが眠っていた十年間のことを聞かせろ。人魔戦争はどうなった?」
ラミュがふいに表情を引き締めた。
それは先ほどまでの惚けた痴魔女の顔ではなく、己があの時代に知り得た魔将軍と呼ばれる、魔種族の王としての表情だ。
「魔王様を失った魔軍は、各戦場に於いて人間軍に手痛い敗北を喫し続けました。勢いに乗る人間軍は魔族領域を侵略。略奪に陵辱、虐殺を繰り返し、我らは全軍はおろか、非戦闘員である民の大半をも失いましてございます」
思考が止まった。女の口調が突如変化したからではない。内容、言葉の。
「今は非戦闘員を含め、魔王城ニーズヘッグにおよそ一〇〇体ほどの魔族が籠城しているに留まります」
「待て! 略奪? 陵辱に虐殺だと!? そんなことが行われたのか!?」
己の知る限りに於いて、人魔戦争でそのようなことが行われた記憶はない。人間軍も魔軍も、非戦闘員への対処は弁えていたはずだ。
異なる種族ではあれど、同程度の知能を有するということで、不文律となっていたはずだ。
「ええ。人間たちが草の根を分けて魔族を狩り続けた結果が、今のニーズヘッグ城の状況です」
「カナン王がそんなことはゆるさないはずだ!」
「ああ、よくは知りませんが、崩御なさって代替わりされたとか」
カナン王国の王が代替わり……!?
そうしてラミュは、決定的な言葉を吐いた。
「人魔戦争は魔族の敗北で、すでに幕を下ろしました。今は残党狩りが行われているところです」
瞬きを繰り返す。
ユランは眉をひそめながら尋ねる。
「人魔戦争が……終わった……だと? ……魔族は滅びかけているのか?」
「力及ばす。不徳の致すところです」
ラミュが片膝をつき、幼女姿のユランへと頭を垂れる。
また冗談の類ではないかと疑った。
なぜなら十年前に己がイルクレアと相討った時分の勢力図は、ほとんど互角に近い状態だったからだ。いや、勢いに乗る人類がわずかに圧してはいたが、とてもではないが魔族を駆逐することなどできようはずもない。ましてやユランを失った人間軍には。
だが同時に、この魔王城ニーズヘッグに魔族の影がほとんど見あたらなかったこともうなずける。
「何があった?」
「新たな勇者の台頭です。勇者ユラン・シャンディラ亡き後、新たに現れた二人の勇者が魔将軍を失った魔軍を凄まじい勢いで削り、現状に至りました」
二人の勇者だと? 少なくとも己のいた時代に心当たりはない。
ユランはルビー・レッドの頭髪を、幼い指先でそっと掻き上げる。
何度掻き上げても流れてくるさらさらの髪が、ひどく鬱陶しい。
「現状をもう少し詳しく話せ」
「今は澱みの森に巣くう魔物どもが人間軍の侵攻を阻んではいますが、近く、勇者を中心とした大規模な掃討作戦が開始されるとのことです。そうなれば如何に堅固なニーズヘッグ城とて丸裸にされたも同然。持久戦では勝ち目はありません」
混同する人間は多いが、魔族と魔物は違う。まるで別物だ。人間と森の動物ほども違っているのだ。少なくともその四種のうち、人間と魔族は知性や文化を備えている。ある意味では魔族と魔物よりも、魔族と人間のほうが近しいといえよう。
だからこそ領土を争い、資源を奪い合ったのだ。
すなわち、人魔戦争の始まりだ。
「そうか……」
魔族は、滅びるのか……。あれほど強大だった魔軍が……たったの一〇〇体……。
己が魔王イルクレアを討ったことで、情勢が大きく変化したのだ。勇者にはなれなかった。伝説に数えられる英雄でもない。ただの老兵の己が。
「はは……笑えるな……」
無鉄砲で、威勢だけで、実に愚かだった己が。死後に勇者と呼ばれた、か。生きている間は、ただただ王侯貴族どもに利用され続けた惨めな傀儡が。
ならばもういい。もとより未練などない。姿形を失ったのも、よい機会だった。このまま人生に幕を下ろそう。
「ですが!」
「ん?」
ラミュが黒の瞳をぎらつかせ、魔族らしいあくどい笑みを口もとに浮かべた。そうして両手を振り上げ、ユランの小さく細い肩をがっちりつかむ。
「魔王イルクレア様がこうしてお目覚めになられたのは、まさに天の采配!」
「あぁ?」
「さあ、お命じくださいませっ! 身の程知らずの人間どもに、目に物見せてやりましょう!」
ユラン・シャンディラはこの日、何度目かの白目を剥いた。
オークのうんち(震え声)