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第1話 老兵と魔王

 ぽたり、ぽたり。


 白刃を伝って生命の雫が冷たい石の床へと落ちる。最初はゆっくりと、数秒後には一筋の流れとなって。滴る。赤い水溜まりへと、波紋を残して。

 握る柄から伝わる鼓動は、徐々に小さくなっている。もはや数秒と保つまい。


 左胸。心臓を刺し貫かれた少女の赤に染まった唇が、微かに震えた。声は、ない。

 少女が手にしている剣もまた、男の厚い左胸を正確に貫いていた。声は、ない。


 少女は、美しかった。ルビー・レッドの頭髪と、同じ色の瞳。

 男は、くたびれた老兵だった。アッシュ・グレーの頭髪と、無精髭。


 先ほどまでの激しい剣戟が、嘘のように静まりかえっていた。互いの呼吸が、聞き取れるほどに。


 そうして、見つめ合う――。


 鼓動の消えかけた少女の血液が、柄を越えて男の手に達する。鼓動の消えかけた男は、少女の血の熱さを感じていた。それは男にとって、とても心地のよい熱だった。

 いつからか、熱を失った自らの手。冷たくなった手。人のぬくもりを失った手。


 視界、歪んで。


 ……寒くて、仕方がないんだ……。……もう……何年も前から……ずっと……。


 死の間際、男は静かに思い出す。



     *



 その男には、英雄や勇者の資質などなかった。

 男は誰よりもそのことを自覚していたし、自覚に至るだけの確固たる理由もあった。もちろん剣を手にし始めた頃は、そうではなかった。


 およそ一〇〇〇年前、魔王を討った伝説の勇者のように。


 いつかは己も、魔王レギドを討つものだと信じて疑わなかった。希望に満ちていた。己の持つ力と可能性を無邪気に信じていた。世界など、己の手で自由に形を変えられる粘土のようなものだと思っていた。


 事実、十代の頃。少年の剣に敵うものは王国中の騎士を集めても、ただの一人もいなかった。当時、神童と持て囃された少年は周囲の大人たちに担がれるままに人魔戦争へと赴き、名のある魔族を次々と屠った。


 二十代。青年期を迎える頃には、王国一の強者である青年の周囲には多くの仲間ができていた。楽しかった。戦地に赴き、魔族の将を討ち取るだけで、金も女も思いのままだった。毎晩のように酒を喰らい、女を抱いた。夜通し仲間と飲み明かすことも多かった。

 そのあまりの強さから、青年は騎士団指揮系統からの独立行動を認められ、王国唯一の遊撃隊を新たに編成し、率いることをゆるされた。


 せいせいした。青年にとって古くさい騎士のしきたりなど、足を縛るくだらぬ儀礼にしか過ぎなかったのだから。

 だが、転機は唐突に訪れる。


 それは二十代も後半に差し掛かった頃のことだ。

 青年が剣を握るまで、魔族の戦力に押し込まれていた人類は、ついにその領土の半分を魔族から奪還するに至った。言うまでもなく青年の率いる遊撃隊の、獅子奮迅ともいえる戦果によるものが大きい。


 ゆえに青年は、一つ、大きな勘違いをした。

 そろそろ己の刃は、魔王レギドに届くのではないか。長きにわたった人魔戦争にこの手で決着をつけ、英雄だの勇者だのを名乗れる日が近いのではないか。

 勘違いを、したのだ。

 あるいは経験豊富な騎士団長指揮のもとでなら、こうはならなかったかもしれない。たとえ青年よりも、力で劣ろうともだ。


 その日――。

 独立部隊であった遊撃隊三〇〇は、魔族の包囲で手薄な箇所を狙って突破し、単独で戦場を駆け抜けた。彼らは魔族領域を何日もかけて走り抜け、魔王レギドのいる古城ニーズヘッグへと辿り着いたのだ。


 高揚していた。確信していた。必ずこの手で栄光をつかめるものだと。

 結論から言えば、青年の刃は魔王はおろか、その配下に過ぎない魔将軍にすら届かなかった。三〇〇名からなる遊撃隊はたった一体の魔将軍に蹂躙され、青年は恐怖に駆られて逃走した。剣を手放し、鎧を脱ぎ捨て、身を軽くして、戦場から逃げ出した。


 魔族の執拗な追撃で、仲間は次々と倒れていった。

 怖かった。敗北がではない。名誉を失うことよりも、命を失うことが怖かった。

 助けを叫んだ仲間を置き去りに走った。怪我を負った友を置いて走った。背中を斬られた相棒を見捨てて走った。寝食をともにした女剣士でさえも、置いて走った。

 逃げて、逃げて、逃げた。みっともなく悲鳴を上げ、転がるように逃走した。

 無我夢中で逃げる青年がようやく人類領域に辿り着いた頃、振り返った青年の目には、誰も映らなかった。仲間はもう残ってなどいなかったのだ。


 ……ただの、一人も……。


 みんな死んだ。己の無謀さが殺した。臆病さが殺した。


 夜。青年は独りだった。

 叫び、突っ伏し、恥じ、泣いた。剣を捨てたいと願った。処罰を受ける決意をした。


 だが、王国は彼を裁かなかった。無謀な単独行動も、仲間を見捨てたことも。

 誰もが青年をゆるした。なぜならば青年の力は、それでもまだ必要だったからだ。人類はまだ、その力を失うわけにはいかなかったからだ。


 心ではない。規律でもない。ただの利用に過ぎない。

 力に溺れていた愚かな己は、利用されていたのだ。同じ人間に。


「仕方がなかったんだよ」「逃げるしかないさ」「おまえはよくやっている」「勇者になってくれ」「おかえり、英雄」「生還できただけでもすごいことさ」


 かけられる言葉は心の表層を滑り、まるで響かなかった。

 ただの八つ当たりであることを理解しながらも人類を憎んだ。だが、それ以上に己を憎んだ。この頃から、人類の未来などもうどうでもよくなっていた。


 それでも剣を捨てさせてはもらえなかった青年は、相も変わらず独立部隊として戦い続けた。部隊などと名乗っても、実質ただ一人だ。部下も仲間も、もう誰も近づかせなかった。男はどのような戦場からも、逃げることをやめてしまった。


 三十代になった。心が凍えるような寒さを感じ始めたのは、この頃からだ。

 たった独りで戦い続けた男の身体は、消えない傷だらけとなっていた。だが、生きていた。ずっと独りで戦い続けた結果、皮肉にも彼は青年期よりもさらなる力を身につけていた。


 逃げずに戦い続けた。負け戦でも、生きている味方が全員撤退するまでは最前線に立っていた。味方を庇って斬られたことも、何度かあった。


 剣を握り続けた。肉体を酷使し続けた。贖罪のように。いいや、違う。実際に贖罪だった。

 死に場所を探していたのだ。己が生き残るためにすべての部下を死なせた男に、戦場以外の選択肢などあろうはずもない。


 ――誰かおれを殺してくれ。


 かつての仲間を壊滅に追い込んだ魔将軍を、男はついに討った。あの日と同じく単身で戦地を駆け抜け、たった独りで敵を討ち、そして生還した。


 王国が沸いた。その日は祭となった。

 だが、彼には喜びも何もなかった。心にのしかかる罪悪感が消えることもなかった。

 心の寒さは増す一方だった。全身がかじかむほどに。


 やがて、再び男の周囲に人が集まり始めた。男はいつものように、にべもなく追い払った。邪魔だ。足手まといなどいらない、と。


 それでも、たった二人。若い二人だけが勝手についてくる。

 足枷だった。足手まといだった。けれども、二人は何度追い払ってもついてきた。戦場に出ると、いつも近くにいるのだ。尊敬と憧憬、絶対の信頼を瞳に宿して。


 ――やめろ。そんな目で見るな。


 敵を利用して戦場に対する恐怖を植えつけようとしたこともあるが、試みはことごとく失敗に終わった。何をしようとも、ついてくるのだ。その少年と少女の二人だけは。


 二人……? 二人だったか……? 本当に……?


 けれども、やはり男は誰にも背中を預けなかった。彼らを身を挺して護っても、決して護られようとはしなかった。それどころか作戦すら与えなかった。

 男の強さと反比例するように、凍えるような心の寒さだけが増していった。


 そして四十になった。

 生きていた。疲れていた。ただ、疲れていた。


 男は、くたびれた中年の剣士となっていた。かつて憧れを抱いた英雄でもなく、勇者でもない。なれの果ては、ただの、くたびれた老兵だった。


 ある日――。

 眠る少年と少女を王国に置き去りにして、男は単身で再び魔王レギドのもとへと赴く。


 もういい加減終わりにしたかった。死に場所を探すことにも飽き飽きだった。誰も己を罰してくれないのであれば、こちらから向かうまでのこと。


 魔族領域を単身で戦いながら突き進み、多くの魔将軍を屠り、傷だらけのくたびれた老兵は、ようやく魔王の棲む古城ニーズヘッグへと辿り着いた。

 戻ってきたのだ。ここへ。始まりの地を、終わりの地とするために。


 ――魔王レギド、おまえはおれを、殺してくれるだろうか。


 数千の魔物を薙ぎ払い、数百の魔族を屠り、ようやく古城の王座へと辿り着く。

 初めて逢う魔王レギドは、少女の姿をしていた。むろん、魔族のこと。外見と年齢など人間の尺度で推し測れるものではないけれど。


 傷だらけの老兵は呟く。濁った仄昏い瞳で。「ずっと貴女に逢いたかった」と。

 少女は名乗る。輝き透ける可憐な瞳で。「魔王イルクレア・レギド・ニーズヘッグ」と。

 男は名乗った。「剣士ユラン・シャンディラ」と。


 男は魔王を美しいと思った。

 流れるような髪は人類の赤毛とはまるで違う、輝く赤色(ルビー・レッド)をしていた。静かで穏やかな瞳は、苛烈な他の魔族のものとはかけ離れて穏やかだった。身体は緩やかな曲線を描き、服装は一国の姫のような赤い色をしたプリンセスドレスだった。


 血と鉄の臭い漂う殺伐とした古城内で、魔王イルクレアの周囲にだけは、優しい空間が広がっていたのだ。


 ああ……。ほんの少し、寒さが収まった気がした……。


 愚かにも、身の程知らずにも、剣士ユラン・シャンディラは四十にして惹かれたのだ。人類の敵である魔王に。そのぬくもりを欲したのだ。


 剣を抜かぬまま、多くを語った。

 これまでの人生を包み隠さずに話した。教会でする懺悔のように話した。魔族を屠った過去も、仲間を置いて逃げた過去も。堰を切ったように言葉は止まらなかった。


 イルクレアもまた、黙ったままにユランの話に耳を傾け、代わりに様々な話をしてくれた。それは魔族の話だった。

 とても優しく、日差しのように暖かな時間だった。


 だが、やがて――。

 やがて、くたびれた老兵ユラン・シャンディラと、魔王イルクレア・レギド・ニーズヘッグはどちらからともなく剣を抜いた。互いに優しい笑みを向け合いながら、切っ先をも向け合った。

 相容れぬ存在である、ただ、それだけのために。



     *



 己の胸を叩く鼓動が、消えた。

 剣を伝う鼓動もまた、消えた。


 くたびれた老兵ユランの鼓動と、少女の姿を象る魔王レギドの、否、魔王イルクレアの鼓動だ。


 ユラン・シャンディラは考える。

 彼女の姿を、彼女の声を、彼女の血のぬくもりを記憶の底に焼きつけて、咎人の向かう煉獄(アビス)へ旅立つことができるだろうか。

 この安らぎを持って、煉獄(アビス)へ――。


 気づけばユランは、己の頬が弛むのを自覚していた。

 イルクレアもまた、穏やかに微笑んでいた。

 滴る互いの血が、両者の中央で静かに交わる。力を失った足が崩れて、同時に膝をついたユランとイルクレアの顔が近づいた。


「…………………………」


 唇の端から血を流しながら、イルクレアが静かに囁く。

 その言葉は、ユランにたしかな希望を与えた……はずだった。

 なぜなら勇者でも英雄でもなんでもない、ただのくたびれた老兵ユラン・シャンディラは、己の視界が消え去ってなお、微笑んでいられたのだから。


 こうして彼の意識は、消滅した。

 そうして彼女の命は、消滅した。




シリアス崩壊までカウントダウン開始:2!



21時に2話目、0時に3話目をUPします。

お時間よろしければお付き合いください。

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