プロローグ 悲しみの晴れ間
しとしとと降り続ける雨の音。
その音は絶え間なく続き、止む気配はまるでない。
梅雨の時期を迎えたからか、連日雨が続いている。
街路樹の紫陽花は色鮮やかな花を咲かせており、葉にはカタツムリが這う。
なんとも梅雨らしい風景の中で、一人憂鬱そうに歩く少年の姿。
雨の日が続くと人の心は憂鬱になるもの。しかし憂鬱の理由はそれだけではなかった。
――彼は、この雨の中傘を差していない。
雨の日に似つかわしくない、晴れた日の空のような髪。
白いワイシャツに包まれた小柄な体を雨は容赦なく濡らしていく。
「……家に、帰りたくないな……」
少年は溜め息混じりにそう呟くと、心細そうな足取りで家へと続く道を歩いていった。
「ただいま……」
帰宅した少年は恐る恐る覗き込むように、扉から顔を出し挨拶をする。
「おかえりなさい。爽」
まだ少し色素の残っている白髪と、少し厳格そうな顔立ちが印象的な老婆が出迎える。
彼女は少年の祖母である。
爽と呼ばれた少年は祖母の顔を申し訳なさそうに見上げる。
「まぁ、ずぶ濡れじゃない……傘はどうしたの? 」
「橋で転んじゃって、その拍子に川に落としちゃったんだ……」
「全く、何をやっているの。ようやく体調が良くなって学校に行けるようになったというのに……また風邪を引いて休んでしまっては他の子に遅れをとってしまうわ」
それは心配というより、呆れの眼差し。
「……ごめんなさい」
とにかく体を拭きなさい、と祖母はタオルを渡し、自室に戻っていった。
しん、と静寂が玄関を包み込む。
本当は、転んで傘を川に落としたんじゃない。
本当は、今まで体調が悪くて学校を休んでいたんじゃない。
ぼくは、 ぼくは…………。
頭の中でこんがらがるような思いをかき消すように、爽はタオルで頭を乱雑に拭いた。
その淀んだ空のような瞳には、涙が滲んでいた。
翌朝、爽は相変わらず憂鬱そうな顔で学校への道をとぼとぼと歩いていた。
今日の天気も、雨。
しばらく進むと、その足はぴたりと止まった。
学校の正門。
爽は、中学一年生。そしてこの中学校の生徒である。
学校の正門という普通の学生なら何も感じないこの門に、彼は思い留まっていた。
そして深呼吸をすると、意を決したかのような足取りで向かっていった。
教室に入ると、いきなり丸めた雑巾のような物が飛んでくる。
それを間一髪のところで避けると、雑巾は廊下の壁に当たって落ちる。
「なーに避けてんだよ爽! 」
「どんくせーと思ってたけど意外と素早いんだな、避けんのだけは! 」
太っていてそばかすのある少年と、痩せ型で目付きの悪い少年がからかうように笑いながら寄ってくる。
「ご、ごめんなさい……」
「ま、掃除の時間はまだだからな。その時にまたゴミと一緒にお前のことも掃除してやるよ! 」
「ギャハハハハ!! 」
二人の少年は耳障りな声で笑いながら席についていった。
爽も自分の席につく。
朝のHRを終え授業が始まった。
一時間目は社会。
世界の至る所で起こった戦争について男性教師が低い声で淡々と解説している。
退屈になって寝る生徒が多い中、爽は休んでいて遅れている分を取り戻すように必死に板書をしていた。
そんな小さな背中に、先程の少年二人組が消しゴムの欠片を定規などを使い何度も飛ばしてきた。クスクスと笑いを堪えるような声が背後から聞こえる。
彼はいつものことだ、と背中に当たる物を無視してそのまま板書を続けた。
嫌がらせはそれから幾度となく続いたが、諦めたように我慢を続けた。
そして放課後、爽は逃げるように帰ろうとしていた。
しかし――
「おい爽! 」
「逃げんのかよ~」
爽の瞳は恐怖で見開かれる。
先程の少年達に呼び止められてしまった。
「ぼ、ぼく今日は忙しいから帰らないと……! 」
「んなこと言って、ほんとはヒマなんだろ? 」
「オレ達もヒマだからよ~一緒に遊ぼうぜ~! 」
強引に腕を引かれ、雨の降る外に傘も差せぬまま連れ出される。
抵抗できない爽は、学校近くの公園まで連れていかれた。
「今日のお前、やけに生意気だったよな」
「雑巾顔面にぶち当ててやろうかと思ったのに避けやがるし、消しゴム弾当てても無視してノート書いてるしよ~」
拳を握り、俯いて口を結ぶ。
それは恐怖か、はたまた悔しさや怒りからか。
「……ぼくは」
「あぁ? 」
「聞こえねーよ」
当たり前のように毎日嫌がらせをしてくる二人。
怖くて怖くて堪らない二人。
でももう、こんな毎日耐えられない。
「ぼくは君達のおもちゃじゃないんだよ!! もうこんなことやめてよッ!! 」
精一杯の、振り絞るような声で爽は叫ぶ。
雨は徐々に激しさを増していく。
「やっぱ今日はやけに生意気だな」
「だってお前、ウジウジしてるしちょっかい出すとおもしれーんだもん! 」
面白い?自分はこんなに苦しんでいるのに。
それにちょっかいなんかで済まされるものではない、これはただのいじめだ。
「これ以上いじめるつもりなら……! 」
「先生にチクれるもんならチクってみろよ!もっとひどいことしてやるからな」
「ていうか先生にチクっても自分のクラスでいじめが起きてるとか認めたくないだろ、あの先生は」
そうだった。
先生はふざけて遊んでいるだけだろうと話を聞いてもくれない。
他のクラスメイトは見て見ぬふりをして誰も助けてくれない。
「だからチクろうとしても無駄だぜ、残念だったな」
「オレ達に口答えしたからな、コイツをくれてやる! 」
ゴツ、という鈍い音と同時に右頬に走る強い痛み。
思いきり殴られた。
「ッ……! 」
「殴られて痕ができても、お前どんくせーから転んだだけと思われるかもな! 」
「ついでに砂場で泥団子も作ったから投げようぜ! 」
投げつけられた泥の塊がべしゃりと体に当たる。
ずぶ濡れのシャツは泥によって醜く汚れていく。
「雨も強くなってきたしそろそろ帰ろうぜ」
「また明日な~ギャハハハハ!! 」
少年達は無残な姿の爽を残して去っていった。
雨は容赦なくその体を打つ。
「……勇気出して言ったのに……っ、なんでやめてくれないんだよ……っう、……もうこんなの嫌だよ……」
少年の嘆きと嗚咽は、嘲笑うかのような激しい雨の音によってかき消された。
「た、ただいま……」
「……おかえりなさい。どうしたの、その姿は」
いつにも増して険しい表情の祖母。
「……帰り道で友達とふざけてて……。また転んじゃって……」
「泥んこ遊びでもしていたの? もうすぐ中間試験でしょう? 遊んでいる暇はないんだから。早くお風呂に入って勉強しなさい」
「……ごめんなさい」
去っていく祖母の背中を玄関に立ち尽くしたまま見つめる。
曇り空のような瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。
傘をなくしてずぶ濡れなのはあの二人に壊されたから。
泥だらけなのはあの二人にいじめられたから。
風邪を引いた、熱が出たと嘘をついて学校を何度も休んでいるのはあの二人に会いたくないから。
あの二人だけじゃない、他のクラスメイトや先生にも会いたくない……。
どうして、どうしてわかってくれないんだよ。
こんな無理矢理な嘘までついているのに。
でも本当のことを言ったところで、きっと心配してくれたりはしないのだろう。
いじめられるような、弱くて情けない方が悪いとか言って。
学校にも家にも自分の居場所はない。
優しかった両親は、八年前事故で亡くなった。
……ぼくを庇うようにして。
家に残っているのは渋々自分を引き取った冷たい祖母と、滅多に帰らないろくでもない祖父だけ。
学校に行けばいじめられ、家に帰れば冷たい言葉を浴びせられる。
もうこんな毎日嫌だ。
もうこんな人生嫌だ。
死にたい。
死んでしまいたい。
……死にたい?
そうだ……死ねばこの苦しみから解放される。
こんな人生に終わりを迎えることができる。
これ以上生きていたって良いことなんかないし、自分が死んでも心から悲しむ人なんていないだろう。
もうぼくは疲れたんだ。
翌朝、爽はある場所へと向かい無我夢中で走っていた。
学校の最上階まで息を切らしながら階段をかけ上がり、勢いよく扉を開ける。
「ここが屋上……今まで来たことなかったな」
屋上へ足を踏み入れる彼の頭上には、今にも雨が降り出しそうな曇り空。
屋上はフェンスで周囲を覆われてはいるが、一部壊れていてフェンスのない箇所があった。
ここからなら楽に飛び降りることができそう、そう思い半ば無意識に近付く。
ハッ、と我に返る頃にはフェンスのない箇所に立っており、真下には校庭が見えた。
「……ここから、飛び降りれば……」
ギリギリのところまで足を踏み進める、だがそれ以上足を動かすことが出来なかった。
もし死にきれなかったら?
大怪我をして、死ぬよりも辛い激痛を味わうことになるだろう。
本当に死んだらどうなるのだろう?
天国とか地獄とか、本当にあるのだろうか。
頭の中がごちゃごちゃする。
恐怖で足が震える。
「どうしよう……やっぱりやめ――」
「おい爽!! 」
もう二度と聞きたくない不快なダミ声。
急に背後から呼び掛けられ、ビクッと飛び上がる。
――その拍子に。
「授業サボってどこに行くのかと跡つけてたんだけど屋上で何して……って、えぇっ!? 」
「……ぁ」
足を踏み外してしまった。
重力のままに落ちていく爽。
やべぇぞ、先生呼ぼうぜ、と動揺している二人の声が徐々に遠くなる。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。
本当はもっと生きたかったし、やりたいこともたくさんあった。
自分がもっと強かったら、こんな弱虫じゃなかったらこんなことにはならなかった。
ぼく、本当にこのまま死ぬのかな?
ぼくは、ぼくは………
「――まだ死にたくない!! 」
生きたいと願った少年の、必死の叫び。
だがそれを決断するにはあまりにも遅すぎた。
――しかし。
一瞬、時が止まったかのような感覚に襲われる。
眩い光に包まれ、爽の目の前に七色に光る扉が現れた。
「あなたが異界の英雄……そして、ダイヤモンドの守護石に導かれし者――」
見知らぬ少女の声。
少女は扉から手を差し伸べているが、光で顔は確認できない。
そして爽は、突如現れた七色の扉に吸い込まれるように消えていった。