血と迷いの夜
ザザッと、全身を黒一色で武装した何者かが夜の森を駆け抜ける。
ふいに強い風が巻き起こり、頭まですっぽりと被っていたその者のフードがパサリと落ち、隠れていた長い茶色の髪が露わになって足の動きに合わせるように波打つ。
足音は、山奥にひっそりと建つ教会に向かっている。
深夜の為か、闇の為か、それともその者がプロな為なのかは分からないけれども、誰もその足音には気付かない。
黒マントの女性は走りこみで、教会の裏へ滑り込んだ。
カビ臭さが鼻を掠め、視界の隅には蔦が見える。そこは何年も掃除がされていなかったのか、雑草がぼうぼうに生えている。
様子を確認するために首を伸ばして窓から中をひょいと覗くと、まだ明りが点いている教会の中で、一人の神父が机に置かれた玉虫色に光り輝く石に向かって必死に祈りを捧げている所であった。
「あれが、ロワ王のおっしゃっていた願い石というものか。」
女性はおもむろにシュッと腰から短剣を抜きとり、キイと裏口の扉を慎重に開ける。
チャンスは、たったの一度きり。
開けた扉から洩れる一筋の光を見つめ、女性は深呼吸をしてから決意を新たにした。
今だ______
「お姉ちゃん、何してるの?」
「わぁっ!」
突如、四か五歳ぐらいの男の子に後ろから声をかけられて緊張の糸がプツンと切れてしまった女性は、かなり大きめの声を上げてしまった。その衝動で、腰もストンとぬけてしまう。
一方で男の子は不思議そうににペールオレンジ色の髪を揺らしながら首を傾げている。澄んだブルーの瞳が月光に照らされており、とても美しい。
しかし、神父に子供がいるなど渡された資料には書かれていなかったはずだ。
それとも、そんな大事な情報を見落としたというのか……
……この、私が?
まるで自分の欠点をまだ半生も生きていない子供に思い知らされたようで悔しくなる。
ギリギリと下唇を噛んでいると、
「そこにいるのは誰だっ!」
という太い声が聞こえてきた。
女性は神父の低い声で我に返り、王直々に頼まれた任務を思いだしてもう一度短剣を正しく構える。
「お姉、ちゃん……?」
心配そうな声と連動するように、澄んだブルーの瞳を不安そうに揺らす男の子。
少し可哀そうだとは思うが、過去の自分といちいち重ねていたら仕事にならない。
もう一度深呼吸をしてから薄笑いを浮かべる。
「よく見てなっ、小僧!!」
たじろぐ老神父に短剣を向けて一気に女性が走ると、男の子がめいいっぱいの声量で叫ぶ。
「おじいちゃん!!」
女性は一瞬耳を疑ったが、すぐに納得した。なるほど隠し子か。
自分が情報を見落としたわけではないと分かり、さらに短剣を握る手に力がこもる。
______グチャリ。
いい塩梅に短剣が神父の心臓に食い込み、神父は一つの呻き声も漏らさずにゆっくりと膝から倒れていった。
汚れるのが好きではない女性は短剣を心臓から抜く事をせずにそのまま短剣から手を離し、安堵のため息を漏らす。
「暗殺、完了だな」
ポケットから煙草を取り出して火を点けながら、これからの生活に思いを馳せる。
王から直々の任務による報酬だ。きっと城ぐらいゆうに買える程の大金が手に入るだろう。そうすれば、こんな溝鼠のような仕事とはおさらばできる。
「小僧、悲しいか」
女性が煙草の煙を吐きながら裏口に立ったままでいる男の子に問いかけると、その男の子は「絶望」という言葉しか似合わない顔のまま何も答えなかった。
その姿を眺めたままふぅと女性がもう一度苦い煙を口から吐き出すと、男の子はいきなり獣のように泣きだして神父の死体に駆け寄る。
「たまには人をバラにする趣向の奴もいるんだが、私はしない方だよ。せめてもの神の救いに感謝しな」
そう言って女性が指の先を男の子の顎の下にやると、男の子はその女性の指を思い切り噛み、短剣を神父の左胸から抜いてしまう。
プシュウと勢いよく神父の心臓から血が噴き出し、男の子が小さく悲鳴をあげた。
「あぁもう、服が汚れてしまったじゃない」
これだから子供は嫌いなんだ、と言いながら黒マントに付いた血を神父の服の裾で軽く拭く女性。
「お前っ……」
憎しみで溢れた涙を沢山に溜めたブルーの瞳が女性を濁った光で見つめる。
と突如、男の子が握った短剣が風を切り、女性の右頬を掠めた。
その男の子行為に女性は好奇心の眼をみせる。
「ほう、神父の子よ。お前は私という人を殺せるのか」
「もちろん殺せっ……、俺はお前を殺せっ、な、る……」
___即答が、できない。
先ほどとはまた違う動き方で揺れる瞳は、だんだんと伏せがちになってくる。
が、何かを思い出したかのように男の子の口からするすると用意されたような言葉が伸びて出てきた。
「神は、人と人の殺し合いを望みません」
そう言って、ゆっくりと床に凶器である短剣を置く男の子。
「ははっ、なんだそれ」
だが、女性はお腹を押さえながらケラケラと高笑いを始める。ヒーヒッヒと魔女の様な不気味な笑い方をする女性。一通り笑い終わった後、女性は男の子の頭に右手を置き、ポンポンと優しく撫でながら
「純粋で馬鹿なお前に人は殺せないよ」
と言った。
男の子は、訳が分からないという顔で女性を見上げる。
「さて、私はそろそろこの願い石を王に献上しようかね」
カツカツとブーツの音を響かせながら石が置かれた机に歩み寄る女性。
「さすが、苦労をかけることだけあって綺麗だねぇ」
じっくりと舐めまわすように石を眺めてから、その石を手に取ろうとした……
______その、瞬間だった。
どくんと女性の心臓が何かに掴まれるように圧迫され、鼓動が速くなる。
「カハッ……ゴホ、ケホッ……」
バタンと床に倒れ、苦しみ悶える女性。
「……助けっ……」
必死に男の子の方へ手を伸ばそうとするが、床にうずくまって泣いている男の子は気付かない。
「苦、しっ……」
次の瞬間、教会の中に女性の姿はなくなり、言葉にできない感情をただただひたすら床にぶつける男の子の姿だけがあった。