お引越し
いつか見た、「銀色に光る両親」の夢をもとにイメージを膨らませて書いてみました。
私たちがそのアパートに引っ越してきたのは、梅雨の明けきらない蒸し暑い七月の夕暮れ時のことでした。
お父さんとお母さんと私、三人の暮らす新しい家は、広いリビングがあって、私は嬉しくてまだ荷物の入らないがらんどうの部屋の中をぴょんぴょん跳ね回りました。
引っ越しのあいさつに行くというので、私はお母さんと手をつないで二回の角部屋に住んでいるという大家さんを訪ねました。
大家さんは少し背の丸まったおばあさんで、ちょうど玄関の前をほうきで掃いていたので、私とお母さんはこんにちは、と丁寧におじぎをしました。
けれども、お母さんと私をちらりと見ると、おばあさんは黙ってばたりと扉を閉めてしまいました。
私はびっくりしてお母さんの顔を見上げました。
「仕方がないわね。手土産だけ、ドアにかけておきましょう」
お母さんは静かにそう言って、タオルだかハンカチの入った小さな手提げ袋を、大家さんの家のドアノブにかけました。
「ねえ、あのおばあさん、どうして何も言ってくれなかったのかな」
私は少し傷ついていました。お母さんはそういうこともあるわよ、と肩をすくめてつぶやきましたが、別段気を悪くした様子はありませんでした。大人って、どうして嫌なことをされてもこんなふうに傷つかないでいられるのかなあ、と私はなんとなく納得がいきませんでした。
次の日から私たち三人の新しい暮らしが始まりました。
「お母さん、学校はどうするの?」
引っ越しの疲れからか、朝から家でのんびりしているお父さんとお母さんでしたが、私は退屈してそう尋ねました。
「いいのよ、ここでは学校に行かなくても」
お母さんがさらっとそう言うので、私はびっくりしてしまいました。
「なんで?転校とか、しないの?」
「いいんだよ。お父さんももう仕事に行かなくてもいいし」
お父さんもにっこりしてうなづくばかりです。
いったい、どうなっているのかしら。私は訳が分かりませんでした。
「じゃあ、遊びに行ってきてもいい?」
「いいわよ。でも、道に迷わないでちゃんと帰って来なさいね」
お母さんはそう言って、快く私を外へ出してくれました。
アパートの階段を下りて道を歩いていると、後ろから小さな子供の声がしました。
振り返ると、同じアパートの一階の部屋から、小さい男の子と若いお母さんが出てきました。男の子は真新しい幼稚園のかばんを肩から下げています。この春、幼稚園に入園したばかりなのでしょうか。私はちょっと緊張しながら黙って軽く頭を下げました。
すると男の子がおっかなびっくり私を見つめて小さいてのひらをちょっと上げて、私に振ってくれました。かわいい子だな、と私は少しうれしくなりました。
アパートの前の道はまっすぐ駅に続いていました。歩いていくと、少しずつお店が増えてきて、やがて開店を待つ行列ができたパチンコ屋さんとか、お弁当屋さんやコンビニなどが軒を連ねるようになりました。
私はわくわくして一軒一軒のお店をのぞいてみました。私が前住んでいた家のそばにはこんなにぎやかな商店街はなくて、駅までは遠く、バスかお父さんやお母さんが運転する車で行くぐらいでした。
私は少し、前に住んでいた町が恋しくなりました。広い道路には街路樹が茂っていて、緩やかな坂道の両側には二階建てや三階建ての広々とした家が立ち並んでいました。あちこちに公園や遊歩道があって、お買い物に行く駅前には大きなショッピングモールがありました。
どうしてあの町を引っ越すことになったのか、それは悲しくて今は思い出す気持ちにはなれません。だって、せっかくこれから新しい街で新しい暮らしが始まるんですから。
ひと通り駅前の商店街をのぞくと、私は満足してスキップでアパートに戻りました。
するとアパートの入り口のごみ置き場に、昨日の大家さんがいました。ごみ収集車が来た後の掃除をしながら、大家さんはにこにこして誰かと話をしていました。
「今日はお仕事お休み?ああそう大変ねえ、夜勤もある仕事じゃねえ。梅雨時はあちこち体が痛むのよ。あなたはまだ若いもの、そんなことないわよねえ・・・」
大家さんと話しているのは、紺色のポロシャツを着たお父さんぐらいの年の男の人でした。お父さんよりちょっと太って、頭の毛も少し薄いようですが、割と感じのいい人みたいでした。
大家さんの目が泳ぎ、私の前を素通りしました。私はまた少し傷ついてしまいました。目の前の男の人にはあんなに愛想がいいのに、私のことはまた無視です。
男の人は大家さんに挨拶をして、一階の部屋に入っていきました。同じアパートに住んでいる人のようです。後ろを向いていたから、私のことは見えなかったようですが、今度会ったらちゃんと挨拶しよう、と思いました。
私はわざと黙って大家さんの前をずんずん歩いて家に帰りました。大家さんは相変わらずまるで私が見えないみたいに黙々と道を掃いていました。
「どうだった?」
ドアを開けるとお母さんが私に尋ねました。
「前に住んでいたところより、ごちゃごちゃしていて面白かった」
と私が言うと、お母さんはそう、とにっこり笑ってうなづきました。
お父さんはソファに横になってごろごろしながら新聞を読んでいました。
いつまで会社休みなのかな。どこかに連れて行ってくれたらいいのに。私は少し期待しました。でも、もう車はないし、前みたいに家族三人で遠くの遊園地や川や湖なんかに出かけることはできないかもしれません。そう思うと私はちょっと悲しくなりました。
私は、ベランダに出てみました。隣の部屋との間には薄い壁があって、わずかな隙間から隣の部屋のベランダが見えました。いくつも鉢植えがあって、いい感じに葉が茂っていました。きっと毎日きちんと水をあげたり、世話をしているんだろうなと思いました。どんな人が住んでいるんだろう、と思ってあとでお母さんに聞いたら、年を取ったご夫婦だということでした。
私たちは毎日、何もせずに暮らしていました。
こんなことは初めてです。お父さんは会社を辞めてしまったようでした。私が学校へ行かなくていいのは、お父さんに仕事がなくて学校へ行くお金がないからでしょうか。そんなことは怖くてとても聞けません。お母さんも相変わらず家でのんびりしています。
私は毎日外へふらふら遊びに出かけました。学校へ行かないということはお友達もいないということで、私はいつも一人でした。寂しいとか不安だとか、そんな気持ちはありましたが、前住んでいた家のことを思い出すととてもつらい気持ちになり、今の暮らしが一番いいんだ、と自分に言い聞かせていました。
隣の部屋からは時々人がいるような気配がしました。ベランダで歩き回るような、植木鉢をいじっているような音がするとき、私はそっとのぞいてみましたが、人の姿を見ることはありませんでした。それでも、植木はいつもきちんと手入れをされていて、くちなしとアジサイの花が咲いていました。
一階の男の子とは、時々会いました。恥ずかしがり屋さんなのか、話しかけてくることはありませんでしたが、だんだん慣れてくるとにっこり笑って手を振ってくれるようになりました。
でも、大家さんのおばあさんが近所の人と立ち話をしていて、変なことを言うのを聞いたことがありました。
「一階の男の子ねえ、かわいそうにまだ言葉が出ないんだって。お母さんは心配でしょうがないだろうね。なんでも施設だか病院みたいなところへ行っているみたいだよ・・・」
ああ、本当に嫌なおばあさん!私はすっかり大家さんが嫌いになりました。
初めのうちは無視されたら無視し返してやろうと躍起になっていましたが、そのうち私は大家さんを観察するようになりました。
何か、あの人を困らせてやれないだろうか。私をいつまでも無視出来ないようなことを。もちろん私はそれなりにいい子ですから、あんまり悪いことを思いつくことはできませんでした。
だから、ある日大家さんがカギをかけずに外へ出たすきにこっそり中に入った時も、決して何かを取ってやろうとか、そんなことは思いもしませんでした。
ただ、私は大家さんの家のドアを開けて、そっと中を覗き込んだだけです。
玄関の靴箱の上には、ガラスケースに入った古そうな人形、束になった新聞やダイレクトメール、そして小さな電話機が置いてあります。電話機の横にはメモ帳とボールペン、その横には小さな額に入った写真が一つ飾ってありました。
私はその写真を覗き込みました。私より少し小さいぐらいの男の子が一人で写っているその写真は、何だかずいぶん色あせていました。男の子は恥ずかしいぐらい短いパンツと男の子なのにハイソックスをはき、青い細かいチェックのシャツにVネックのベストを着ています。絶対今どきの子じゃない、と私は直感しました。お父さんぐらい、いいえ、それよりもっと昔の写真に決まってます。
私はそっと写真を持って大家さんの家の玄関を出て、走って家に戻りました。お父さんとお母さんに見せたかったのです。
「よその家のものを勝手に取って来ちゃだめよ」
お母さんは怖い顔で私をにらみましたが、お父さんは意外とのんびりしていて、写真をしげしげと眺めると、
「これはかなり古いなあ。お父さんだってこんな短い半ズボンはいたことないぞ」
と言いました。ズボン、なんて言葉、お父さんぐらいしか使っているのを聞いたことがありません。
「とにかく、大家さんが帰ってくる前に写真を返してきなさい」
お母さんはそう言って私を急き立てました。それで私はすぐに写真を大家さんの家に返しに行きました。
大家さんの家のドアを開けて、私はびっくりしました。玄関の向こうのリビングに、と言ってもうちと違って板の間ではなく、畳の部屋だったのですが、そこにおばあさんが座ってテレビを見ていたのです。
叱られる!と私は覚悟して目をつぶりました。
でも、おばあさんはテレビに夢中で私に気が付きませんでした。
私は心臓が飛び出そうなほどドキドキしながら、電話機の横に写真を戻すと、そっと後ずさりして音を立てないように玄関を出ました。
ドアを閉める寸前、私は思わず息を止めました。
おばあさんの背中に、誰かがもたれかかっていました。
さっきの写真の男の子でした。甘えるようにおばあさんの首に腕を回して一緒にテレビを見ています。
そして、男の子はゆっくり頭を巡らして私を見、にやっと笑いました。
私は一目散に逃げだしました。今にも男の子が「おばあちゃん、知らない女の子が入ってきたよ」と大家さんに知らせるのではないかと、そうしたらおばあさんはうちに来て、お父さんとお母さんに文句を言うのではないかと心配で胸が張り裂けそうでした。
けれども、大家さんがうちを訪ねてくることはありませんでした。
夜になって私たちが寝ていると、隣の家からかすかに話し声が聞こえてきました。お母さんが言ったとおり、お年寄りの夫婦が住んでいるようで、静かなゆっくりした声で、時々「あなたが・・・」とか「おまえは・・・」と言うのが聞こえてきました。
「何話してるのかなあ」
私はつい気になって起きて壁に耳を当てました。
「やあねえ、よその家の話なんか、聞き耳立てるものじゃないわ」
お母さんが顔をしかめました。
私たちは、いつも何もしないでごろごろしているので、すっかり夜更かしが癖になってしまいました。ずっと前、昼夜逆転の生活をしているヒキコモリの人のことをテレビでやっていましたが、今の私たちはまさにそんな感じでした。
「サヤカ、眠れないのか」
お父さんが大きなあくびをしながらそう言いました。お父さんは家から出ることもなくいつもごろんと寝てばかりいるのに、夜は夜で眠くなるみたいでした。きっと、寝ることが何よりも大好きなんでしょう。
「だって、つまんないんだもん」
そう言ってしまうと、私は急に本当は自分がとても退屈していることに気が付きました。
「ねえ、どこか連れてってよ。遊園地とか、海や山でもいいよ。みんなで行こうよ」
「今は梅雨時でお天気が不安定だからなあ」
「お買い物でもいいよ。前に行った大きなショッピングモールに行きたい」
「だって買わなきゃいけないものもないし、買うものがないのにお店に行ってもつまらないわ」
お父さんもお母さんも乗り気じゃないみたいです。私はため息をつきました。
「ねえ、いつまでこうしているの?」
そう言ったとたん、私はぎょっとしました。
目の前のお父さんとお母さんが突然銀色になってしまったのです。
まるで、アルミホイルで包んだみたいでした。銀色なのに光っているというよりどんよりくすんでいる。濁った水たまりの上に浮いた油のように、沈んだ、ぎとぎとした鈍い色に、お父さんもお母さんも塗りつぶされたみたいでした。
私が声を失ってじっと二人を見ていると、お父さんとお母さんは顔を見合わせました。
「ねえ、本当はサヤカもわかっているんでしょう?」
そう言うお母さんの声は変にくぐもっていました。底なしの深いどこかから響いてくるような・・・。
「よせよ。無理に思い出させることはない」
そう言って首を振るお父さんの声も、マイクを通して声色を変えているような、変な声。
「わかってる。わかってるから、お父さんもお母さんも変になるのやめて、元に戻って」
私は半分泣きながらお願いしました。
ぱちぱち、何かが燃える音が耳の奥に響き渡りました。
お父さんとお母さんと私と、珍しく三人で手をつないで眠った夜。
夜中にどうしてだか私だけ目を覚ました時、家の中はぼうぼう燃えていました。熱くて息ができなくて苦しかったのを覚えています。
私は、二人を起こそうとしました。でも、二人とも決して目を覚ましませんでした。それでつながれた手を放そうともがきましたが、まるで、お父さんとお母さんが私だけ逃げるのを絶対に許さないと思っているように、二人の手はまるで鎖のようにしっかり私の手をつないだまま、放しませんでした。
息を吸うと、鼻とのどが炎を吸い込んで焼けました。髪の毛にも火が付き、着ていた服もやがて炎に包まれました。
『お父さん!お母さん!起きて!熱い!苦しい!』
どこまで声に出して言ったか、覚えていません。
「サヤカにはおじさんもおばさんもいないしなあ。お父さんたちがいなくなると、一人ぼっちで困るだろう?」
「幼稚園からずっと、私立の学園育ちだもの。施設に行って公立の学校に通って、なんて無理でしょう?」
銀色のお父さんとお母さんが優しい声で言いました。
「こうするのが、いちばん良かったんだよ」
コウスルノガ、イチバンヨカッタンダヨ。
こだまのように響く声。お父さんとお母さんは今でもやっぱり決して私を放してくれないのです。
(あの子も、そうなんだ)
大家さんの家にいた男の子。
おばあさんがいつまでも放してくれないから、いつまでも小さいままでずっとそばにいなくちゃいけないのです。退屈そうに家の中でテレビを見ながら、待っているのでしょう。
何を?自分の母親の死を。
でも私は、いつまで待ったらいいのでしょう。何を待ったらいいのでしょう。私が自由になる日は、いつ来るのでしょうか。
「もういや!お父さん、お母さん、お願いだから、私を放して!」
私は叫びました。でも、それは言っても無駄なのだと、自分でもわかっていました。
お父さんとお母さんは銀色のまま、私に歩み寄りました。お母さんの腕が私を後ろから抱きすくめ、お父さんの手がゆっくりと私ののどに回され、太い両方の親指が私ののどのくぼみにぐうっと差し込まれます・・・。
「困った子ねえ」
「これでまた、一からやり直しだな」
夫婦はぐったりした娘を前に、ため息をついた。
どうしてこう、いつまでもこの子は抵抗するのだろう。せっかく親子三人で永遠に幸せに暮らしていこうとしているのに。
「あの時、目を覚ましたのがいけなかったのかしらね」
「ちゃんと薬を飲ませたはずだがなあ」
野良猫のようにもがきながら抵抗し続けた娘のやわらかいのどの感触を思い出して、父親はふっとため息をついた。愛してやるのに。可愛がってやるのに。これで何度目だろう。もう、娘を手にかけるのもすっかり慣れてしまった。
数日後、とあるアパートの空き室に、ふと人の気配が現れた。「見える」能力を持つ人なら、夫婦と小学生ぐらいの女の子の三人家族が引っ越してきたのが見えただろう。
一見幸せそうに見える家族の、娘の表情をよく見ると、両親よりもなお深い絶望に沈んでいることに気づくだろう。
少女は知っている。自分は囚われ続ける。命を奪われてなお、自分の命を奪った人々から逃れられないことを。永遠に、いつまでも、永遠に。