杉田桃美の穏やかな昼下がり
「学さん起きてる?具合は大丈夫?着替え持ってきたよ」
8人部屋の病室の窓際に杉田学のベッドはあった。他の患者はおらず、病室はがらんとしていた。
「ああ、桃美か。ありがとう、荷物はそこの棚にでも置いておいてくれ」
桃美の声を聞いて学は上半身をゆっくりと起き上がらせた。
「1週間分の下着と歯磨きと髭剃りのセット入れてるからね。他に何か欲しい物とかはない?」
「とりあえず今はそれだけで良いかな。また何かあったらメールでも入れるよ」
学はぼんやりと窓の外を眺めている。
「わかったわ。で、体の具合は大丈夫?」
「あー、まだ手術したばかりだから切ったところが疼くな。完全に塞がれば帰っていいみたいだけど、少し時間かかるって」
先日、夫の職場から夫が急病で病院に搬送されたという電話を受けたときは桃美は血の気が引く思いだった。その時は夕飯の支度をほったらかして搬送先の星宮中央病院へすっ飛んでいったほどだ。
その後、医者からただの盲腸であること、手術も問題なく終了したことを聞かされようやく人心地つけたが、今まで特に大病や怪我などをしたことがなかった夫にもしものことがあったらと考えた時の恐怖はまだ胸の奥に残響している。
「あんまり無理しないでね。今までお仕事頑張ってきたんだからこういうときぐらいゆっくり休まなきゃ」
「心配かけてごめんね。隆と夢にも俺は全然元気だって伝えておいてくれよ」
「うん、それじゃあまた来るね。欲しい物あったらすぐ連絡頂戴ね」
桃美はまだ本調子じゃない夫の体に配慮して長居せず病室を後にするのだった。
星宮中央病院は星宮駅から北に位置する大学や専門学校、私立高校などが集まっている学園街と呼ばれる地域に立地している。学園街は駅からのアクセスが良く、若者文化が根付く地域として駅前やベイサイド地区とも違う独自の形で栄えていた。
バス停でバスを待つ桃美の前を何人もの若者が楽しげに行き交っていく。
「(旦那さん元気そうで良かったな。それに君も大分落ち着いたようだし。電話を聞いたときは血相変えて飛び出してたぐらいだし夫婦仲が良くて関心だよ)」
桃美の頭の中にトライガーの声が響く。ショルダーバッグの中に詰め込んだトライガーからの念話だ。
「(そりゃ私の大事な家族だし、大切な夫だからね。それに急にあんな電話来たら誰だってビックリするわよ)」
桃美は頭の中でトライガーに向けて答える。念話には最初は困惑したが、慣れると便利だし今ではすっかり使いこなせるようになった。
「(最近学さんお仕事忙しかったみたいだし、丁度良い休暇になったんじゃない。公務員だってのに働きすぎなのよ)」
学は星宮駅近くにある市役所に勤めており、今は企画総務課で係長をやっている。最近は大掛かりな夏祭りの企画が動いているようでてんてこ舞いだったらしい。
ちなみに学と桃美の馴れ初めは、20年前に市運営の小学校のバレーボール地区大会にボランティアとして参加していた桃美を当時市役所の新人として雑用をやっていた学が一目惚れしたことがきっかけであった。
「(若い頃の私達は燃えるような恋に落ちて、短大卒業後に結婚、すぐに隆が生まれたって流れね)」
トライガー相手に昔話と惚気話を脳内で繰り広げているとバスが道路の向こう側に見えた。
「(そういえば、話が変わるけど。もう一人魔法少女の仲間が加わるってのはどうなったの?なんか私が知ってる子っていう話だったじゃない?)」
駅前行きのバスに乗り込みながら念話を続ける桃美。
「(その件か。ちょっと難航していてね。その子は魔法少女として復帰できないかもしれないんだ)」
「(復帰できない?魔力をなくして変身できなくなったとか、変身アイテムをなくしたとか?)」
「(うーん、そうだな。桃美、君はどうやって再び魔法少女になったんだっけ?)」
桃美の質問にトライガーは質問で返してきた。
「(私?あの時はたまたまプリティーコアを見つけて懐かしいなーって思ってたら変身しちゃって、その後すぐにトラちゃんが来たからじゃない)」
車窓の風景から駅前はもうすぐだ。バスも客が増えて少し混雑してきた。
「(そうだね、たまたまプリティーコアを見つけて変身してしまっただけなのに僕がすぐ来たことに疑問は感じなかったか?)」
「えっ?それってどういう」
ドキっとしてつい桃美は口から声に出してしまった。幸い乗客でこちらを気にする者はいなかったが、桃美は赤面しつつ下を向いて念話に集中した。
「(それってまさか、トラちゃんあの時ずっと私を監視してたの?)」
「(監視というほどではないが、君を魔法少女に復帰できるか一つのテストだったんだよ)」
桃美はトライガーの言葉を待つ。
「(あれは魔力感受性と魔法少女としての素質がまだ残されているか確かめるためだったんだ。あの時君が魔法少女になるように、たまたま君がプリティーコアを見つけるように魔法で仕向けたんだ。これで君が魔法の効果をちゃんと受けずにプリティーコアを見つけられなかった場合やその後変身できなかった場合には魔法少女として復帰することはなかっただろうね。ちなみに君たちが30年前に実家の倉庫でプリティーコアを見つけたのも偶然ではなく我々の手引きによるものだったんだよ)」
「(……ってことは、例の子はそのテストに合格できてないってことなの?)」
「(そんなところだ。その子は魔法少女引退後のアフターケアが上手く行かなくて荒れてしまったようでね。魔力自体は十分なんだけど記憶や素質に問題が生じてしまってなかなか復帰できないようだ)」
バスは駅前ターミナルへと到着した。
桃美は乗客の列に並びながらバスを降り、そのままターミナル内の東部行きバスの時刻表を調べる。
「次のバスまでちょっとあるし、隆たちにケーキでも買っていくか」
桃美は独り言を呟きながら駅ビルへと足を向けた。そしてトライガーへの念話を再開する。
「(さっきの話の続きなんだけど、アフターケアってどういうこと?)」
「(うん?ああ、アフターケアか。魔法少女っていうのは基本的に10代の少女が選ばれる。これは多感な時期ほど魔力を生み出す力が強いからだ。そして君たちを含めて魔法少女っていうのは大体他の普通の少年少女たちが一生しないような大冒険をして、その中でかけがえのない体験を多く積む。そして役目を果たした魔法少女達は引退して普通の生活に戻るわけなんだけど、一応制約として魔法に関わる知識だったり魔法少女として活動してた時の記憶が改竄されたり封印されたりする。大半の少女は記憶の齟齬を自分の中で上手に消化して大人になっていくんだけど、生活環境によっては魔法少女だった時の体験と現実の落差が大きすぎて荒れてしまったり塞ぎ込んでしまったりすることがあるんだ。そうならないように我々スターランドの方で魔法少女達が正しく大人になれるようにアフターケアを影ながら行っているんだ)」
「(私が魔法が使えなくなったと思い込んでたのもそうなの?)」
桃美は記憶の引き出しからあの日の自分を振りかえる。最後の戦いの後の魔法がなぜか使えなくなって心に大きな喪失感を抱えた。でもいつしかその穴も、その後の人生の歩みの中でゆっくりとだが塞がれていったような気がした。
「(でも私、魔法少女だったことはずっと覚えていたんだけど?)」
「(君の場合は最終決戦で魔力を一時的に使い切って魔力が生み出されてなかったっていう状況を上手く利用したんだ。それに、君本来の魔力が強くなりすぎてて記憶の改竄や封印は魔力の暴走も引き起こしかねなかったからね)」
桃美は駅ビル1階にある洋菓子店の自動ドアを潜った。ひんやりとした店内にはゆったりとしたクラシックのBGMと甘い香が漂っていてなんだか幸せな気分になる。
桃美がショーケースを眺めて子供達へのお土産を考えているとふいに頭の中にトライガーの念話が響いた。
「(これはできれば伏せておきたかったがこの機会だし正直に白状しておくよ。……アフターケアのことだが、あの時ベリーとミントにも君と同じく記憶の改竄や封印をせず魔法が使えなくなったという風に思い込ませる処置を行った。その結果、ベリーのアフターケアは失敗してしまったんだ)」
「(……!?)」
桃美の脳裏にかつて共に苦楽を共にした活発な親友の顔が浮かんだ。そしてその親友の心が遠く離れてしまった暗い記憶も。
「(……そうなの、それじゃあ中学に上がってから焔ちゃんがなんだか荒れちゃったのはそういうことなのね)」
「(すまない。我々も手は尽くしたんだ)」
トライガーの声のトーンは低かった。それを感じて桃美は少し明るめの声音で返した。
「(それは人生なんだからしょうがないことよ、私も焔ちゃんの家庭の事情が少し複雑だった事は知ってたわけだし。私も私で自分の事で一杯一杯だったからトラちゃんを責められないわ)」
遠い日の苦い記憶。魔法少女だろうがなんだろうが、いくつもの傷痕を抱えて人生を進むしかないのだ。
桃美はふと遠くを見つめて呟いた。
「例の子、無事に魔法少女に復帰できるといいわね」




