10 「暗室の賞玩=光乙女」
さて丑三つ時になってまいりました。
今回はT県在住、差出人不明のお便りをお送りします。
暗い部屋の中に燃える一本のろうそく、それはやがて……。
お楽しみに。
大学に入ってから再開した旧友は変わり果てておりまして、想像を絶するなどという凡百の表現では表せないような、すさまじい奇人でした。たしか、苗字はWと言ったと思います。便宜上、これより先は彼のことを「W」と表現することにしましょう。
そのWの奇人ぶりは、学部のみならず講師や教授にも知られるほどでした。というのも、賢明であり大人しく、人間的にはそこいらの学生よりもずっと「できて」いたからです。一度など成績を見せてもらったこともありますが、信じがたい、超人的な成績でした。
いえ、それはいいのです。彼がいない今、そのようなことを述べても仕方がないことでしょう。現世利益を信じていなかった彼なら、成績は神から付けていただかなくちゃいかんよと無茶を言うに違いありません。
「T、あれは綺麗だろう。」
ちょうどその年の中秋の名月の日で、Wが言うことには間違いはありませんでした。冴え冴えと輝く月は、T――私のことです――にも綺麗に思われるだろうと、Wは考えたのでしょう。そのときはそう思っていたのですが、違いました。
「T、見給え、いい月だ。」
私は「どこだい」と尋ねました。月齢を考えればちょうど新月の日、見えるはずのない月を見ていることになります。彼は「まったく、見ようとするから見えないんだ」とめちゃくちゃなことを言いました。目で見えないものがどうして見えましょうか。
「月は、もっとも美しいんだ。何十億人が恋をしただろう? 何億人の詩人が恋文を送ったのだ? 一通の返事もない。これぞ永遠の美というべきものじゃないか。」
故郷は遠くにありて思うもの、などと言います。手が届かないような実在しないものこそがもっとも良いと考えていたように思われるのですが、Wの考えはよく分かりません。彼は月が出るたびに立ち止まってじっと眺めるものですから、人々は口々に脅しましたし、おかしなことを言って笑ったりしました。教養がないと分からないようなことを言ってバカにする人もいましたが、Wはすべてを知っていたようです。私が尋ねると、これこれこういう意味で、この言葉はこういう意味だ。だが彼らは私が月を眺める理由を知らない。と皮肉たっぷり、頬をつり上げながら笑っていました。
それからひと月ほど経ったある日のこと、また満月でした。彼の奇行は有名でしたので、みんなが月を見上げて、満月を観賞しています。ところが何か気に障ることがあったのか、彼はさっさと帰ってしまいました。もともと満月に関心のない私は、慌てて彼を追いかけ、満月を見なくなった理由を聞きました。
「あれはとても美しい。しかし何か足りないんだ。とても微妙なところで……」
彼はしばらく考え、その理由に思い至ったのか、目を見開きました。
「永遠に届かないのは確かだが――月ってやつは、私だけのものにならない。」
「そりゃそうさ、土地でも買い取るつもりかい。」
そんなことはいいんだ、と怒鳴られ、私は失言を恥じました。Wはそういう現世的なことが大嫌いだったのです。月の土地にいくらの価値が付くかは知りませんが、金で買い取るような無粋な真似など、できたとしてやらなかったでしょう。
彼が考える「月を自分のものにする」とは、私が考える現実的な提案とはまったく違うもので、真逆どころかそのうえ次元を移動するほどに違うものでした。
「光ってやつは着物なんだ。」
「すると、昼間はカーテンで覆われているのかい。」
「すべて緞帳の内。考えると目も眩むようだね、それに光こそ光と信じる馬鹿どもにはちょうどいい薬さ。反対に、闇は裸身なのかもしれない。」
「服を着る必要がないから?」
「まったく下品だな、しかしそうだね、光があるから、光と着物に包まれる。」
擬人法と言いましょうか、擬物法と言えばいいのでしょうか、彼は意味不明な比喩を異常に好みました。自分以外が理解できそうにない会話をするのがたまらなく得意ででもあるのか、しばしば私を置いて眼前の空想へと飛翔していくのです。
「よく分かったよ、私は月に飽きたんだ。」
「えっ? あれほど美しいと褒めそやしていたのに。」
「一色しかないじゃないか。赤い月があるというし、青いときも、黄色いときもあるというが私はもうそういう誤差みたいな違いを知り尽くしてしまったんだ。」
男でありながら私という一人称を使うのも彼が奇人扱いされた大きな一因でしょう。しかし、こうやって方針転換を続けたり、昨日とはまったく違うことを言い出すのも当然そうです。
「光という衣を、どうにか違う色にしなきゃつまらない。」
「いや、人工の光はダメだろう? さんざんに貶してたじゃないか。」
彼が夜の街灯に対して「この色気のない光め!」と言ったのを思い出しながら、私は言いました。ところが、あれは月の光を邪魔しているから嫌だったんだ、とWは言います。
「下がった薄絹の向こう、歌姫の影が見えるだけで美しいだろう? もう一枚追加されてみろ、歌も満足に聞こえやしない。」
多少の邪魔はいいが、月の影を見えなくしてしまうほどの強い光はやはりいけないようでした。彼をどうしようもなく苛立たせているのは、もっぱらその独占欲と、それに従わない光源だったのです。
そして彼は、彼だけの光源を作り出すことにしたのでした。
あれからしばらく、ひと月からふた月というもの、彼は「忙しいんだ、先に帰っていてくれ。」と最低限の交流の時間さえ惜しむほど忙しそうにしていました。何かしらやることがあったのでしょうが、さすがに過剰です。
三か月ほど、つまりもう真冬になろうかという時期に、Wは「ようやくできた、成果を見てくれ。」と言って私を家に招きました。行程がどうだったかはよく覚えていませんが、彼の研究とは何の関係もなさそうな、普通の家だったことをよく覚えています。
そして私は、彼という人間を大幅に勘違いしていたことを述べなければなりません。怪しい研究をしていそうだとか、恐ろしいものを持っているだとか、そんなことは一切ありません。そして彼の研究成果とは、ごくありふれた糸ひもとパラフィンの合成物、つまりはただの蝋燭なのでした。
「これはいったい、何なのだい。」
「色付きの蝋燭さ。」
色のついたものは確かにありましたが、ごく地味で取るに足らない、彼の感性とは合致しそうにないものが含まれています。熱中しすぎて感情が衰えてしまったのかと思ったのですが、どうやらそうではなく、彼は私が事実を察するのを待ってニヤニヤ笑っていました。
「君ならすぐに分かると思ったがね。研究の動機を思い出してみたまえよ。」
「そうか、これに火を点けると……」
色の付く光が欲しいと言ったのが研究の始まりでした。すると、これは色のついた炎が燃える蝋燭なのでしょう。
「特別だ、『舞踏会』を見せてあげよう。」
「いいのか? 自分のために作ったんだろう。」
価値の分かる君ならいいだろう、とWは言いました。実のところ見せて自慢できるような友達がほかにいなかったのではないかと解釈しています。
「――美しいだろう?」
「すばらしいな。」
それは、炎色反応を利用した色付きの炎でした。ナトリウムの橙、銅の緑青、知っているのはこれだけですが、青いものや赤いものもありました。
「これがみんな、自分のために踊ってくれると考えてみろ。月なぞもう必要ない。これを無限に作り続ければ、自分だけの空間すら手に入るだろう。」
「それはすごいな。」
「言っておくが一本もやらないぞ。これは私の作った私だけの美人だ。」
Wは、しばしば理想の何かのことを「美人」と表現しました。単に美しい人という意味なのか、それとももう少し深い意味があったのかは分かりません。しかし、いくら美しいとはいえ、蝋燭が「美人」と呼ばれるのは彼らしい気がしました。
「ところで、君は何色が好きだったかな。」
「うん? そうだな、これかな。」
蝋燭の色の中でも、私が最も美しいと思うものを指差します。すると、彼は自慢げにほくそ笑むのです。やらないぞ、という意味でしょうが、そもそも数があるものだとも考えておらず、所有していても燃やす場所に雰囲気がなければ台無しでしょう。そのときは欲しいとは思いませんでした。
「どうしてこんなに美しいのだか、分かるかい。」
「いいや。」
科学を信じる私は、それを炎色反応だと考えています。まさか、彼のような意地悪な答えをするものがいようとは思いませんでした。
「人間が、一本にひとり入っているのさ。」
「え、ええっ?」
冗談に決まっているだろう。蝋燭が何本あると思ってる。とWは言いました。考えてみればそのとおり、部屋中を埋め尽くすとは言いませんが、炎色反応ごとに数本、数え上げると30以上はあります。そんなにたくさんの――。
「ばかげたことはさておき、まったくいいものを作ったよ。」
「そうだな。」
光の舞踊は、蝋燭が燃え尽きると同時に終わります。冷めやらぬ夢心地のなかに、この蝋燭が欲しいという気持ちもありました。ですが、暗闇で物が燃えるのを見てただ時間を過ごすという行為が急に無駄に思われて、彼が晩ご飯を食べていかないかと誘ってくれるのも断り、家に帰ることにしました。
ところが、帰ったら帰ったでまた惜しくなるのです。あの光の舞踏会は、まったく色気のない光の退屈をひと息に吹き飛ばす、すばらしい発明でした。家に帰ってからそのことに思い至り、どうにかもう一度見せてはもらえないかと一晩じゅう煩悶し、翌朝大学へ行ってすぐさま彼を探しました。
彼は消失していました。彼がいたという証拠はどこにもありませんし、彼の家への道は、暗かったせいかおぼろげにしか覚えていません。どうにかこうにか同じような場所へたどり着いて「W」という姓の家を探してみましたが、どうも見当違いの場所を探しているようで、ちっとも見つかりませんでした。
真冬に蒸発するというのは、いえ、季節にかかわらずですが、おかしな話です。彼がいなくならなければならない理由が分かりません。もしや蝋燭に封じ込める人間に困った彼が自分を使ったのだろうか、などと不気味な考えも湧いてきましたが、作り手自身が死んでどうやってものづくりができましょうか。
ごく常識的に考えるなら彼は何らかの事件に巻き込まれ、住む土地を離れて遠くへ行き、そのまま帰ってくることができなかったのだと思われます。しかし、彼の奇行はそのようにまともな考えを許しません。とうとう月に行ってしまったのだとか、空を独力で飛ぶ方法を開発したのだとか、めちゃくちゃな流言飛語が飛び交っていました。
何が起きているのかもわからないままに帰宅し、私は自宅に届いている私宛の贈り物を見つけました。父が受け取ってくれていたのですが、差出人は不明、大きくも小さくもない箱で、似たような大きさのものを見つけるのが難しいような、微妙な大きさのものです。きょろきょろと辺りを見回してそれに近い大きさだと見つけたのは、神棚に供えるための蝋燭の箱でした。
よく見れば、こちらの住所を書く文字の癖には見覚えがあります。同封された手紙の文体も、私が知るWのものと非常に似ていました。つまり、これは彼からの手紙であり贈り物なのです。確信した私は、つい何も考えずにその箱を開けました。
「(前略)
そうそう、君は私の作品をいたく気に入ってくれたね。私の感性を理解するばかりか、作品を評価してくれたことは素直に嬉しかった。お礼として、君の好きな色の美人を同封しておいたよ。喜んでくれただろうか?
これに人が入っているなどというのは真っ赤な嘘だが、私はそう思うことでつらい夜やつまらない夜を慰めてもらった。イメージしてみるといい、美人というのはどんな姿でもあるのだよ。荒々しい夜は怪物に化けてくれる、静かな夜は女性よりもやわらかで美しい姿になるのだ。人が入っていると、どうして言えないだろうか? ねえ?
夢中になって火をつけ続けていたら数が少なくなってしまって、まったく申し訳ない。それでも君が少し、人生の重要な瞬間に楽しむ分くらいは残っているはずだ。君は私のようにイメージ力が発達してはいないが、ただ楽しむという(私からすると非常にうらやましい)性質を備えている。私の作ったものが君の人生を豊かにするとよいと思っている。
そ(後略)」
人間という人間を嫌い、ようやく同類を見つけて安心していた私が、どうして心の安定など取り戻せるでしょう。ただ楽しんでなどいなかったのです、最初の一回だからイメージすることなどできなかっただけでした。
箱の中には、美人がたくさん入っていました。なるほど、美人です。イメージ力というものは何でも変容させてしまいます。私にとってその蝋燭は、理想の女性であるように見えました。そして、その女性は私が命じた瞬間に踊りだし、命尽きるまで私に踊りをささげてくれるのです。狂ってしまいそうな喜びがこみ上げ、衝動を必死にこらえながら、私はその箱を机の引き出しにしまうことにしました。
それからしばらくというもの、私は引き出しを開けませんでした。Wのことを思い出すたびに火をつけたい衝動に駆られましたが、絶対に駄目です。眠る美人を封じ込めた棺、開けるにはまだ早い。そう思われて仕方がなかったのです。
だんだん、自分が狂っているように思われてきました。この狂気をどうにかするための手段というものが思いつきません。まず現実の人間というものでは慰めようがないのです。あんなものにどんな価値があるでしょうか。どのような手段を使えばいいのか、さまざまに実行しながら私は答えを探しました。
一本だけ、火をつけたことがあります。燃えている間というもの、私は完全なる陶酔の中に過ごすことができました。理想の女性が、もっとも好きな色を纏って、ふわふわと揺れ動いているその様子をどう表現すればよいでしょう! 部屋から出てこない私を心配して、弟が「ハンバーグなくなっちゃうぞー」と脅しに来たくらいです。しかし私には、そのような肉体の快楽についてはどうでもいいという感じしか覚えません。
何かに中毒しているのではないかと思った両親が、私を病院に連れて行ったこともあります。そのような心配など無用でした。ただ、この世界から心が離れていっているだけのことなのです。物質的な欲求、肉体的な快楽、そんなものがすべてどうでもよくなって、金銭や食事どころか、水すらも必要なくなるほどに私は希薄になっていました。美しいものとは、ただそれだけで人を死に至らしめるものなのです。
ご家族がわかりますか。いったいどうしたっていうの、何も食べないなんて、あなたらしくもない。おい聞こえないか。もう深夜だ、だいじょうぶ、あの蝋燭を点けてやるから。
あらゆるものがぼやける中で、確かに存在し、私を呼ぶものがありました。
声が言うには、私はもうすぐ声を発する人物と等しくなるということです。私は声に向かって、もう美人を楽しむことはできないのですか、と尋ねました。
声はとても残念そうに、まだ分からないの、と私を詰ります。つまり私は、自明のことを聞いているのです。このように馬鹿げた質問をこれ以上続けるくらいならあっちへ行ってしまうよと声は脅しますが、声に聞き覚えがなかった私は「あなたはいったい誰ですか」と聞いてしまいました。
――だったら見せてあげる。ほら、あなたがいつも撫でてる場所。
――どうしてそんなに他人行儀なの。いつもみたいにお話ししないの?
つい私は起き上がって、声の方へと一歩踏み出しました。ひどくうるさい声を放ってドアを開け、白い廊下を見渡します。
すると、そこには私の愛するものがいました。
――あんなにうるさいのは放っておいて、ね?
部屋の扉には、無機質な数字が書かれていました。今まで気にも留めたことがないようなものです。部屋の中から聞こえる泣き声や怒声に近いような声は、今やただの騒音でしかありません。それに、透けて見える彼らは美人と比べるまでもなく醜く、何ら未練を呼び起こさぬ物体でした。
――どこか遠くへ行きましょう。うるさい人がいないところへ。
――寂しくないよ、お友達も待ってるから。
美を追求し続けた甲斐はありました。すべてを断ってそれに魂を注いだおかげで、私はこうして理想郷への途上にいるのです。
――ありがとう、僕を連れてきてくれて。
――お礼を言うのはこっちだよ。魂が宿るまで愛してくれて、嬉しい。
私は美人の導きのままに、暗黒の廊下を歩き出しました。美人が廊下を滑るように歩いていきます。見惚れていたかったのですが、おいてくよ、とわずかにとげのある声で言われてしまうと、従わぬことはできません。
草木も眠る静かな時間すべてが、私たちを祝福しているようでした。
――ここから先は、永遠だよ。
美人があまりに美しい笑顔を向けるので、私はまぶしく感じてしまいます。しかし、どうしてか顔を逸らすことはできません。
――すぐに会えるから、……おやすみなさい。
――ひざまくらで起こしてあげるからね。
美人は優しく微笑み、ふわりと消えました。
確認してみたらT県ヤバすぎィ! これは更新が止まりすぎていたので、急遽適当に入れた本編とはほぼ関係ないお話です。これだけ出せばよかったのかもしれぬ。
ちなみにWとかいう変人のモデルは私本人ですが、炎色反応のもとになるものぜんぶを入手できる自信はありません。緑は簡単そうだけど、赤とか紫はちょっと……。ろうそくを作るのは簡単ですが、色付きは材料に凝らないと難しそう。あと成績は微妙なんで、ここもフェイク。