Ⅲ
コンコン、扉がノックされてガチャリと鍵が開けられます。
「おはようございます、お姫様」
入ってきたのはいつものメイドのうちの1人でした。ところが、なぜか他には誰もいません。
「…お母様は?」
「陛下が急に隣国へ招待されたとか。ですので、王妃様もご一緒に」
「…もう1人は?」
「お世話をするためについていきました」
そう話しながら、姫の朝食を並べていきます。いつもは王妃と二人分ですが、姫の分だけとなればメイド1人で十分のようです。
“そう、”と呟いた時、レイラの問いかけが頭をよぎりました。
『名前、ないの?』
そして生まれて初めて、目の前のメイドには名前があるのだろうかと考えたのです。
「…あなたの、お名前は?」
「マリーと申します」
メイドはにっこりと笑って答えました。
すぐ答えが返ってきたことに姫は驚きました。そしてふつふつと、今まで考えたこともなかったことが浮かび上がってきたのです。
「名前は、誰がつけるの?」
「えっと、私の名前は母がつけました。ですが、父親がつけることもあるかと」
マリーは明るい声で返事をします。“母がつけました”と言われたとたん、姫の胸に細い針が刺さったような気がして思わず胸に手をあてました。
「どうして、私には名前がないの?」
「姫様は特別ですから、その時がくれば神様が素敵なお名前をくださいますよ」
決められた台詞のように、マリーは言います。実際、決められているのでしょう。
次に姫は、マリーの見た目に気づきました。王妃に“子ども”と言われる自分とそう変わらないような気がしたのです。
「・・・マリーは何歳?」
「14歳です。姫様と同じですね」
「子どもなのに、あなたは外に出て大丈夫なの?」
とたんに、マリーの顔色が変わりました。“しまった”と言わんばかりに目が泳ぎ、焦っているというのは姫にもわかりました。
「わ、私は慣れていますから!大丈夫なんです!」
「死んでしまわないの?」
「はい!ですが姫様は、特別ですから!特別大切なお体ですから、何かあっては大変ですもの!」
“特別”と言われるたびに心が軋むような気がしました。なぜかはわかりませんが、その言葉が嫌いになりました。
その日、姫は自分がおかしくなってしまったのかと思いました。夢でレイラと話すまでこんなことはなかったのに、違う世界へきてしまったようでした。
いつもと同じ、ただそこにあるだけだった世界に色がついたような、急に意味のある存在として現れたような不思議な感覚です。突然のことに姫は疲れてしまい、その日はいつもよりずっと早く眠りにつきました。
目をあけると、真っ暗な空間の中でした。姫は白く豪華な椅子に座っており、目の前には丸いテーブル。
テーブルには真っ白なテーブルクロスがかけられ、その上には紅茶が入ったカップと、ケーキやお菓子の乗った三段トレイが綺麗に並べられています。
そして姫の正面にはお揃いの椅子が一つと、同じティーセットがもう一組並べられていました。
椅子の前にぽっかりと空いた空間からは、何の音もしません。
姫はゆっくりと口を開きました。
「・・・・・・レイラ?」
しかし、何の返事もありません。がっかりした姫がうつむいたそのときでした。
「やっぱり見えないんだね」
向かいのカップが浮き上がり、少し傾きました。そしてまたテーブルにおろされたカップの中身は少し減っています。
「いるの?」
「いるよ。どうして姫には見えないんだろうね」
今度はクッキーが一つ浮いて、端が無くなりました。レイラがそこにいるとわかると、姫はなぜか安心したのでした。
「こんばんは、姫」
「・・・こんばんは、レイラ」
「本当にまた会えたね。姫には見えていないけど」
なんだか申し訳なくて、姫は黙って紅茶を一口飲みました。
“まぁいいや”とレイラの声がして、彼女の椅子が少しテーブルに近づきました。テーブルクロスにも少し皺ができて、レイラが身を乗り出したのがわかります。
「せっかく会えたんだから、今日は姫のこと教えて?」
姫が頷くと、レイラは“ありがとう”と言いました。
「姫は何歳?」
「14歳」
「どこに住んでいるの?」
姫には、質問の意味がよくわかりませんでした。
「部屋の・・・中」
「部屋の中?言葉は一緒だから、国は同じだよね。町の名前は?」
もうわけがわかりません。姫は自分の部屋しか知らないのですから。
国や町と言われても、何のことだかわからず言葉に詰まってしまいました。困った様子で俯くと、レイラもそれに気づいたのでしょう。
「わからない?」
「・・・うん」
「姫は、その部屋の中から出たことがないの?」
「だって外は毒でいっぱいなんでしょう?子どもは死んでしまうってお母様が・・・」
「姫は・・・何か病気なの?」
姫が小さく首を振ると、“そっか”と呟いて、レイラは黙ってしまいました。
自分とレイラはどうやら違うらしい、と感じた姫はどうしたらいいのかわかりません。自分がとてもおかしな存在のような気がしました。
それでも、黙っていたら彼女がいつの間にかどこかへ行ってしまう気がして、それは嫌でした。
「レイラは・・・何歳?」
「15歳。姫より1つだけ上だね」
明るい声が返ってきてホッとしました。そして、マリーの時と同じ疑問を抱きました。
「15歳は・・・大人?」
「どうだろう?私は大人のつもりだけど・・・まだまだ子ども扱いもされるよ。歳だけ見たら、子どもなのかもね」
「子どもなのに、外に出ても大丈夫なの?」
「・・・たぶん、姫の言う“外”で私はずっと暮らしているんだよ」
レイラはごまかしたりしませんでした。
声だけを聞けば、レイラは元気なようです。王妃の言うように毒の空気でいっぱいなら、死んでしまうはずなのに。
レイラならなんでも答えてくれると思った姫は、また質問を投げかけます。
「レイラの名前は、誰がつけたの?」
「母親だと思うよ。でも、私にはもう両親がいないから確かめられないな」
「どうして、いないの?」
「死んじゃったから」
「・・・やっぱり、外の毒で死んでしまったの?」
「違うよ。事故みたいなもの。姫にはお母さんがいるんだね。お父さんもいる?」
「・・・うん。マリーも・・・名前はお母様がつけたって言ってた」
「マリーは友達?」
「メイドさん。・・・どうして、私には名前をくれないのかな」
「お母さんに聞いてみたことはある?」
少し考えて首を振ります。すると“じゃあ、簡単だね”とレイラが笑いました。
「聞いてみよう。お母さんに」
「・・・聞いたら、名前・・・くれるかな」
「それはわからないけど・・・理由くらいはわかるかも」
また少し考えて、頷きます。
「さぁ、今日もそろそろ時間だね」
そう言われてテーブルを見ると、昨日と同じように揺らめき始めていました。
まだ聞きたいことはたくさんあるのに。そう思っても、姫はまた朝を迎えてしまうのでした。




