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“あの塔のてっぺんには、天使様が住んでいるんだよ”


そんな御伽噺を子供達が聞くようになった頃、赤ん坊は美しい少女へと成長していました。

長くまっすぐに伸びた髪は雪のように白く、瞳は生まれた頃より少し色が落ちて暗い赤に。

まだ名前のない“姫”は、朝起きてしばらくは大きなベッドに横たわったまま、ぼんやりと空を見つめます。


部屋の中、柱時計が8時を打とうかという時、部屋のドアがノックされました。姫がそちらを見ると、ガチャガチャと鍵を開ける音。そして知っている顔が現れました。


「おはよう、姫」

「・・・おはようございます、お母様」


王妃は毎日、姫のもとを訪れていました。いつも決まった2人のメイドを連れて。

朝食から始まり、昼食・夕食、時には贈り物を持って高い塔を上るのです。

それもこれも、泣いたり笑ったり、あまり感情を顔に出さない姫を喜ばせたい一心でした。


メイド達が朝食を並べている間、王妃は姫の頭を撫でて“よく眠れましたか?”と聞きます。

姫が“はい”と答えると、嬉しそうに微笑むのです。


「・・・昨日の夜、お父様がいらっしゃいました」

「まぁ、ここに?」

「はい。じっと私を見て、“お前は、誰の子か”と」


そして不思議そうな顔で首をかしげるのです。


「お母様、私は悪魔の子なのですか?」


王妃の顔が悲しそうに歪み、ぎゅっと姫を抱きしめました。メイド達も一瞬手を止めて、姫を見ました。

姫が成長するにつれ、王の姫を疑う気持ちは強くなっていました。王妃が気づかないふりをできなくなるほどに。

しかし姫は、なぜ王妃がそんな顔をするのかもわかりません。


「いいえ。あなたは私と王様の子ですよ」

「でも、お父様が・・・」

「お父様はお忙しくて、色々と混乱していらっしゃるの。あなたは気にしなくてよろしいのよ」


一呼吸置いて姫がうなずくと、王妃はホッとした様子で姫の体を離しました。


「さぁ、朝食をいただきましょう」

「・・・はい」


こうして姫の一日は始まるのです。


朝食と昼食・夕食のために王妃と2人のメイドがやってきます。

朝食が終わってしばらくすると、神父様がやってきて少しお話をします。

昼食が終わると、家庭教師がやってきて文字の読み書きなど勉強をします。

夜になり、暗く静まり返った頃に、ごくごくたまに王がやってきて姫を見ていきます。


姫はこれだけの人としか会ったことがありませんでした。

扉の向こうにどれだけの人がいるのかも知りませんし、考えたこともありませんでした。

生まれてからずっとそうだったので、外に出たいとも思いませんでした。

“外の空気は毒で満ちていて、子供のあなたが出たら死んでしまう”という王妃の言葉を疑ったこともありません。

部屋と頭上の丸い空しか知らない姫でしたが、眠っている間に夢をみることはできました。


それは機械ばかりの夢であったり、花畑の夢であったり。

姫は他の誰かの夢に入ることができたのです。しかし姫はそれに気づいていません。

“遠い遠い昔の世界にあったものよ。”と王妃に囁かれながら見た本の夢を見ているのだと思っていました。


広い部屋と丸い空。夢の世界。それが姫のすべてでした。



「おやすみなさい、姫」

「おやすみなさい、お母様」


夜、いつものように王妃が扉の向こうに消え、ガチャリと鍵をかけました。

コツコツコツ、とゆっくり階段を降りていく音が遠ざかると、姫はベッドに横たわり静かに瞼を閉じました。

長い睫をゆっくりと落として、姫は夢の世界へ旅立つのでした。



次に目を開けたとき、姫は暗闇の中に座っていました。自分の姿は髪の先までハッキリと見えましたが、どれだけ周りを見渡しても何もありません。こんな夢は初めてでした。

座ったままで目をパチパチさせていると、何か聞こえたような気がしました。無意識に前を見ると、やはり何か聞こえます。

コ、コ、コ・・・王妃のものより少し重い音ですが、それは足音のようです。

正面からまっすぐ、だんだんと音は近づいてきますが、まったく姿は見えません。姫は怖がることもなく、音が向かってくるほうをじっと見つめていました。

やがてその音は、姫の目の前で止まりました。思わず地面を見つめますが、靴などありません。


「こんばんは」


上から女性の声がして、姫はそれを見上げました。しかし、やはりそこには何もありません。

不思議そうに瞬きをする姫に、声だけがどんどん降ってきました。


「ここ、どこかな?私、寝たはずだから・・・たぶん夢だと思うんだけど、ここは私の夢?あなたの夢?」


たっぷりと間を置いて、姫は首を横にふりました。姫にもそんなことはわかりません。

“そっかぁ”と呟いてしばらく声がしなくなりました。かと思うと、今度は姫と同じくらいの高さで声がします。しゃがんだのでしょう。


「私はレイラ。あなたは誰?」


上を見ていた顔を正面に戻し、少し目を伏せてもう一度首を振りました。


「名前、ないの?」

「・・・うん」

「そっか。それはちょっと不便だね。じゃあ、なんて呼ばれているの?」

「・・・姫」

「姫?そっか。私もそう呼んでいい?」


姫が頷くと、“ありがとう”と声が返ってきました。

夢の中で、声だけとはいえ誰かと話すのは初めてです。不思議だとは思いましたが、怖くはありませんでした。

こんなにも親しげに話しかけられるのも初めてでしたが、嫌だとは思いませんでした。


「姫の目、凄く綺麗だね。生まれつき?」


その言葉に姫は戸惑いました。


「私のこと、見えるの?」

「そりゃ見えるよ。目の前にいるんだから。まさか、姫には見えてないの?」


少し悲しそうな声に姫は頷くしかありません。姫の前には何も見えないままなのですから。


「真っ暗で、何も見えないの」

「どうしてかな。私には姫のこと、ちゃんと見えるのに」

「…わからない」

「あ、そうだ。手を出して?」


姫は自分の右手をしばらく見つめて、そっと前に差し出しました。その瞬間、その手を何かが捕まえたのです。姫は驚いて、思わず“あっ”と小さく声をあげてしまいました。


「ほら、ちゃんとここにいるでしょ?」


レイラがくすくすと笑います。目には見えませんが、姫の手には確かに握手をしている感覚がありました。

夢だというのに、温かい体温が姫に伝わります。

じっと見ていれば、そのうち彼女の手が浮かんでくるような気がして姫は自分の手を見つめます。すると突然、その手がゆらゆらと揺らめき始めました。


「あれ?なにこれ」


それはレイラも同じようで、声が少し焦っています。


「たぶん、目が覚めるんだと思う」

「あ、なるほど。夢だもんね。姫、また会えるかな?」


そんなことは姫にもわかりませんでしたが、気がつけば黙って頷いていました。


「よかった。じゃあまたね。おはよう、お姫様」


目を開けると、丸い空がありました。雲ひとつ無い青空をぼんやりと見上げながら姫の唇が小さく動きます。


「…おはよう…レイラ」


また1日が始まりました。


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