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その少女を見て、蛇と呼ばれた女の顔が、恐れのあまり血の気を失って震え始めた。
「ら……楽園の守護者ケルビム!」
少女が無表情のままに、女に手をかざすと鈍い音とともに、その手首に火の輪が現れた。
「蛇よ、『人ならざる者』のこの世への関与を、主さまは快く思っておられない」
少女の両手首に現れた火の輪が、女の首筋に迫る。
「あ…あ…命ばかりはお助けを!」
女はその場にペタンと尻餅をつき、ただ震えている。
「よかろう、だがこちらもお前の命を助ける代わりにその代償を貰い受けるとしよう」
瀕死の傷を負った女が、聖堂から逃げ出すと、少女はじっと赤い神珠を見つめた。
先ほどまでとは異なり、その表情には慈愛と悲しみの色があった。
「神珠エバよ。あなたは未だに創造主とあなたの夫を裏切り続けるのか……。そういえば、先に堕ちたのは、あのときもあなたのほうであったな」
◇ ◇ ◇
「離せ! 無礼者」
蓮姫は唇を噛み締め、気丈にサリエリの兵士を睨みつけた。
砂漠の要塞都市シバの王女蓮姫は、シバ陥落後に捉えられ、すぐにサリエリ国王の夏の離宮に移送された。上質な絹のサリーを身に纏い、その背には艶やかな黒髪が流れている。その髪と同じ、燃えるような黒い瞳をした、可憐な少女であった。
やがて彼女は日の当たらない地下牢に繋がれて、監禁された。
ひとりになると、さすがに気丈なこの姫の瞳からも涙が零れ落ちた。
「父さま……母さま……」
シバ本土の襲撃のとき、父王と母である妃は公務で宇宙にあるシバの衛星都市シオンに出向いていた。おそらくは戦火に巻き込まれずに、無事でいるはずだ。
遠くで物悲しいすすり泣きのような風の音がした。その音に混じってあれは足音だろうか……段々とこちらに近づいてくる。
蓮姫は神経を研ぎ澄まし、密かにペチコートの内側に隠し持っていた短剣に触れた。
現れたのはサリエリの黒い軍服を着た若い兵士、いや服装からしてかなり上位にある士官だと推測される。紫がかった漆黒の髪にエメラルドのような深い緑の瞳の少年だった。
彼は無言のまま、蓮姫の閉じ込められている牢の扉を開いた。
「おい、大丈夫か?」
訝し気に彼女の顔を覗き込み、その手首を戒める鎖から解き放った。
蓮姫は、はっと顔を上げた。
「あ……あの、あなたは?」
「ランクス・クリフォードだ」
蓮姫の瞳が、かっと見開かれ、隠し持った短剣が、ランクスを目掛けて勢い良く振り降ろされた。
地下牢の石畳に、甲高い金属音が響く。
蓮姫の振りかざした短剣は、いとも簡単にランクスによって取り上げられてしまった。
蓮姫の頬に涙が伝う。
悔しいのだ。適わない。
自国を踏みにじり、辱めた敵国の王子に一矢報いることもできず、唯一隠し持っていた武器さえも取り上げられ、これほどの屈辱があろうか。
「大人しくしていろ」
そういってランクスは、姫蓮を地下牢から連れ出した。
「お前の兄と連絡を取った。すぐに迎えが来るだろう」
何処かへと向かうリムジンの中で、ランクスは、ただぼんやりと移りゆく窓の景色を眺めていた。時々胸ポケットから金のロケットを取り出すと、大事そうに触れた。
蓮姫が口を開いた。
「素敵なロケットですね、恋人からの贈り物ですか?」
蓮姫の言葉にランクスの瞳が陰った。
「いや恋人ではなく、宿敵になってしまったよ」
ランクスは曖昧な笑みを蓮姫に向けた。
オルゴールが、悲しい音色を奏でていた。
純金のオーバル型のロケットペンダントには、向日葵色の髪の少女が、太陽のように明るく笑っていたのに。
やがて上空からヘリが現れ、蓮姫の前に梯子を下ろした。
「蓮、無事か! 早く来い!!」
懐かしい兄の声がした。
「兄上!」
蓮姫が叫び、梯子に捕まると、ヘリは高度を上げて空に舞い上がった。
刹那、けたたましいサイレンの音が港に鳴り響き、あっという間にランクスは銃を構えた兵士たちに取り囲まれた。
ランクスは抵抗することなく、屠り場にひかれていく仔羊のように従順に従った。
「ランクスよ、お前は我が息子にあらず。我が奴隷なり」
それは物心ついた頃から、父であるサリエリ国王、オーリスによって言われ続けた言葉だった。ランクスは蓮を逃がした罪を父王の前で問われている。
鞭打ちという、水牛の皮でできた鞭を、罪人の背に振り降ろす拷問を、父であるサリエリ国王オーリスは、酒宴の席の余興として、実の息子に行おうとしていた。
ランクスは上半身の衣服を脱がされ、手に枷をはめられて、その場に這わされた。
合図とともに鞭が容赦なくその身に振り降ろされ、皮膚を抉った。
ランクスの苦しみに喘ぐ姿を見て、オーリスの酒で濁った瞳が、爛々と狂気に輝いた。
意識が朦朧とし、ランクスは死を覚悟した。
その時、薄暗い部屋に微かな鈴の音とともに少女が舞台の袖から姿を現した。
ツインテールの少女が身に着けているのは、シルク地の薄く透けた布だけであった。額に銀の鈴が結わえられ、官能的に舞ってみせる。
まだほんの十二、三歳の少女で、女として未成熟の、しかしそれゆえの禁断の魅力が彼女にはあった。
オーリスに呼ばれ、少女がその王座へと誘われると、薄い帳が下ろされた。やがて、微かに鈴が鳴る音とともに、彼女の喘ぎ声が聞こえ始めた。
王に倣って、広間に集う者たちには、次々に見目麗しい娼婦たちが宛がわれた。
シルビスはこの狂乱に便乗し、そっとランクスを助け出した。
ランクスの傷は思ったよりも深い。シルビスは手早くその傷口を洗い、薬を塗った。
ランクスは幼い頃から、この父王によって拷問を受け続けてきた。
愛妃であったランクスの母ラケルは、ランクスの誕生とともに息を引き取った。オーリスはその死の悲しみに耐えることができず、悲しみをランクスへの憎しみに変えた。ゆえにシルビスはその傷口を何度手当してきたかしれない。
シルビスが汗で張り付いたランクスの前髪をそっと指で払うと、ランクスの形のよい眉が微かに動いた。
鈴の音とともに、少女が部屋に入ってきた。
シルビスは少女に頭を下げた。
「王妃、先ほどは王子の命を救っていただきありがとうございました」
少女が無機質な声色でそれに応える。
「礼を言われる筋合いはない。こちらはこちらの思惑で動いているだけのことだ」
少女が何事かを呟くと、ランクスの背にあった無数の打ち傷が跡形もなく消え去った。
先ほどまで苦しそうに肩で息をしていたのが、嘘のようにランクスは穏やかな寝息を立てている。
「これはっ」
シルビスが驚いて顔を上げると、少女の唇に薄く笑みが浮かんだ。
オーリスの召しの合図である呼び鈴の音が聞こえ、少女は部屋を出た。
寝室の鏡の前で、少女は衣服を脱ぎ捨てると、そっと掌を鏡にあてた。すでに男を知っているとはいえ、その胸のふくらみはまだ小さく、成熟していない少女のそれであるのだが、その胸の中心からは、縦に一直線の古い大きな傷跡があった。
鏡に映る少女の顔がぐにゃりと曲がり、ツインテールの黒いビロードのドレスを着た少女が映し出された。
同じ顔。しかしその人格は異なる。
「来てくれたのね、嬉しいわ」
少女は鏡に映るもう一人の自分に、嬉しそうに微笑んだ。
「人間なんぞに転生したときには、私も随分と心配したが、意外に元気そうだな。アイ」
鏡のなかのツインテールの少女が口を開いた。
「でも、もうすぐ私もそちらに戻れると思うわ」
鏡の中の少女が目を細めて、その傷跡を見つめた。
「お前にはつらい思いをさせてしまうことになるな。アイ」
アイと呼ばれた少女は静かに首を横に振った。
「いいえ、これもまた主さまの大いなるご意思ですから。私は楽園の守護者ケルビムとして、青き神珠を解き放たねばなりません」
その言葉に、鏡の中の少女は静かに頷いた。
「その後、我とお前はひとつになる。我らは楽園の守護者、双頭の鷲ケルビムなのだから」
「なにをしておる、アイ、早くこちらへ!」
アイは無邪気に笑い、オーリスの求めに応じた。
白磁のような肌に蜂蜜色の豊かな髪が流れる。
アイの裸体を抱き、オーリスはそっとその小さな胸の谷間に走る傷口に唇を追わせた。
くすぐったくて、アイは笑いながらオーリスから逃れようとするが、オーリスのがっしりとした腕がそれを許さない。オーリスはアイの胸に耳を宛がい、その鼓動を確認する。
「おお、そうじゃ、これじゃ。これこそまぎれもなく、青き神珠の息づく鼓動」
母親を求める赤子のように、オーリスはアイを求めた。
アイは狂気の中を生きるこの初老の男にとって、唯一つの光であったのかもしれない。
アイは瞳を閉じ、自嘲する。
(人間とは厄介な生き物だ。自分は、この男を愛してしまったのかも知れない)
アイはオーリスの髪を撫でた。
◇ ◇ ◇
マリア・クラビスは溜息を吐いた。
まったく、この男ときたら。
衣服は昨日のままだし、顔には無精髭が生えっぱなしだ。
なのだが、一心不乱に古文書を読み解いているトーマの様子に、マリアはお小言を飲み込んだ。
マリアは黙って執務室に設えられた小さなキッチンで、手早くスープを作ると、この上司の前に、ドンと音を立てて置いた。
「とりあえず、食べろ!」
照れをかくし、ぶっきら棒な口調でそう言うと、マリアは少し悲しくなった。
どうして、自分はいつもこうなのだろうか。
学術も、武術も、魔法も、マリアはたいていのことには、他者に引けを取らない自信があった。しかしこの上司を前にした途端、すべての自信は無に帰す。
キライだ。
彼が?
いや、彼と一緒にいる自分が。
トーマの前では、自分が自分でなくなってしまうのだ。
「うまい……」
ほら、まただ。
無精髭を生やしたこの男の一言に、不覚にも泣きそうになっている自分がいる。
トーマの視線がマリアの左手に注がれた。
「指輪、してくれないんだ?」
「あっと……」
マリアが口ごもる。
トーマはマリアの腰を引き寄せると、彼女の軍服のポケットの中を探った。
「あ……ちょっと。やめ……」
「みっけ」
そのポケットの中にプラチナの指輪をみつけると、彼女の華奢な指にそれを滑らせ、トーマは、マリアの指に口付けた。
頭脳明晰、容姿端麗、無敵の美女騎士の垣間見せる赤裸々な無防備さがそこにあった。
惚れた弱みに流されそうになる自分をマリアは叱咤し、大きくひとつ息を吐いた。
「だめだ、応じられない」
指輪を外して、そっとトーマの掌にそれを返した。
「どうして」
子供のように唇を尖らせたトーマの頬に、マリアが口づけた。
「将軍家の娘を預かることにした」
マリアの言葉にトーマが顔を上げる。
「了解」
◇ ◇ ◇
エアリスの亜麻色のふんわりとした髪が、風に靡いていた。つんと前を向き、エアリスはなんでもないような顔をする。
ハヤトはそんなエアリスの横に並び、その顔を覗き込んだ。
「もう、なんですの? ハヤト様」
エアリスは少し怒ったようにハヤトを見た。
これが自分とエアリスとの距離なのだとハヤトは思う。
手を伸ばせば届きそうで、でも届かない。というかエアリスが届かせないのだ。自分やルリアのことは死ぬほど心配するくせに、エアリス自身の心配はさせてもくれない。
(僕はそんなに頼りないか?)
ハヤトはしょんぼりと項垂れた。
先ほどエアリスが明かした出自は、自分にとっても、エアリスにとっても決して軽いものではない。しかしそんな秘密をずっと一人で抱えてきた、エアリスの心の内を思う。ハヤトは自分の不甲斐なさを責めた。
(でも、いつの日にか)
ハヤトは道の脇に積み上げられた煉瓦の上に飛び乗った。するとちょうどエアリスを見下ろす高さになる。
「エアリスさま、僕、かならずいい男になります」
「いい、男ですか?」
エアリスがきょとんとした表情になる。
「ええ、あなたを守れるだけの甲斐性のある男になります」
ハヤトはぴょんとエアリスの前に飛び降りて、胸を張ってみせた。
「まあ、いったい何年かかることやら」
エアリスはそういってふんわりと笑ってみせた。
「そんなぁ~」
ハヤトが情けない声を出した。そんなハヤトを置いて、エアリスはスタスタと歩みを速めた。
「ほら、きっとあれが謙信さまのお屋敷ですわ」
エアリスが指さす方向に、純和風の屋敷が見え、門を見張る男が、エアリスとハヤトに敬礼した。
ハヤトがマサムネの花押を見せると、謙信との謁見が許された。
通された広間には、初老の男が居住まいを正して座っていた。穏やかで、しかしそこには犯しがたい静謐さが漂っていた。本当の強者とはこういう男のことをいうのかもしれないとハヤトは思った。
「戦禍のなかを、よくご無事で。長旅でお疲れでしょう」
謙信は穏やかな笑みを浮かべ、エアリスとハヤトを労った。謙信は差し出された書状に目を通すと、じっとエアリスを見つめた。
「四神玄武の、封印を解く方法ついて、書かれてあります」
エアリスが頷く。
「サリエリは四神を有するシバ、そしてわが国のオリビエへと進軍いたしました。すでに四神のうちの朱雀と青龍の封印を解く事に成功しています。わが国有する白虎はなんとか死守したようですが、必ず遠からぬ日に、この北斗の国に進軍し、玄武を欲することと思います」
「それほどまでのものなのかね? 四神とは」
「無敵の軍事要塞と謳われたシバを、三日で陥落させたところをみると、やはり侮れるものではないかと思われます」
「うむ」
謙信はしばし考え込む風情である。
「謙信様!」
慌しく側近の者が、部屋に入ってきた。
「なんだ、騒々しい。客人の前で」
「サリエリ軍が進軍を開始しました!」
その言葉に謙信は秀麗な眉目をわずかに顰めた。
「紫龍! 客人を祠にご案内しろ。有事に備えて玄武を復活させよ」
「御意」
謙信の傍らに控えていた青年が少し緊張した面持ちで頷いた。
「祠はお屋敷からそんなに遠くはないんですよ」
エアリスとハヤトを案内する道すがら、紫龍はぽつりぽつりと自国の北斗について話はじめた。
「オリビエやサリエリに予言があるように、この国にも、玄武にまつわる言い伝えがあるのですよ。『災厄訪れしとき、異国より玄武の巫女現れし』ってね」
祠は洞窟の奥にあった。地に深く突き刺さった剣にエアリスがそっと触れると、それはエアリスの魔動力に呼応するかのように鈍く光り出した。
「玄武神よ、どうか私たちに力をお貸しください」
その呼びかけに応えるかのように、剣はその輝きを増していく。一筋の青い閃光が地面を走り、やがてそれを中心に魔法陣が形成された。
「ハヤト、剣に呼ばれていますよ」
そういってエアリスがハヤトを振り返った。
ハヤトが剣に歩みよると、天地を震わす雷鳴のような声がその場に響き渡った。
「汝、玄武に選ばれし者よ。その宿命たる剣を引き抜け」
ハヤトは静かにその剣を引き抜いた。
永き眠りから目覚めた魔神がその姿を現す。
「ハヤト君、これを」
紫龍がハヤトにパイロットスーツを渡した。
「申し上げます! ただ今国境沿いの空域にて、サリエリ軍が砲撃を開始しました。紫龍様にはすぐに館に戻って、戦闘の指揮をとるように、とのことです」
「わかった、すぐに行く! 我が愛機『毘沙門天』の用意を!」
「はっ、すでに調整の上待機させてあります」
手早く着替えたハヤトの前にエアリスが歩みよる。そのパイロットスーツの左腕に施されている刺繍は百合の紋章であった。
エアリスは感慨深げにそれを見つめた。
(私は今、その影としての役割を終えたのだ、自身の出自を知ったときから、私はずっと彼らを守りたいと思っていた。けれどその優しい眼差しにずっと守られてきたのは、本当は私のほうだったのかもしれない。
その眼差しはかわらないままに、あなたはいつの間にか私の背を超えていった。
幼馴染のあなたに身長を抜かされたときに感じた少しの悔しさと、頼もしさを思う)
エアリスはじっと魔神をみつめた。
(でもその運命の封印をといたのは私。そのことを私はいつか後悔しないだろうか)
「エアリス?」
ハヤトがきょとんとした顔をする。
「どうしたの? エアリス泣きそうな顔をしてる」
気がつけば抱きついていた。
「ハヤト! 目を閉じてください」
「は、はいっ」
そういってぎこちなく目を閉じたハヤトの唇に触れる。
気がつけば、キスしてた。
「無事に帰って来られるように……その、おまじない……ですから」
エアリスは蚊の泣くように呟いた。
(仕方ないじゃありませんか。
気がつけば、あなたのことが好きだったのですから)
黄昏の空に魔神が飛び立った。
それを見届けると、エアリスは愛機を調整中の紫龍に向き直った。
「紫龍さま、私にも機体をお貸し下さい。訓練は一通り受けておりますので」
◇ ◇ ◇
一体何年振りであろうか。
ランクスは暖かく、優しい微睡のなかに意識を委ね、ふとそう思った。
夢の中で彼女が自分に笑いかけている。
(ああリサ、あなたはここにいたのか)
やわらかい蜂蜜色の髪が優しく風にそよいだ。
「ランクスさま」
夢の中でリサが自分の名前を呼んだ時、ランクスは、凍てついた心が溶かされていくのを感じた。
もともと母ラケルの乳姉妹であったリサは、母亡き後、後宮でその息子であるランクスの母親代わりとして献身的に仕えたのだが、リサはやがて父オーリスの目に留まった。
リサはランクスを自身の子として、手元に置き育てることを条件に、オーリスの妃妾となることを承諾した。
「ランクスさま、ラケル様の忘れ形見であるあなた様は、私が命に代えましてもお守りいたします」
そういってリサは華奢な身体で、精一杯ランクスを抱きしめた。
やがてリサはオーリスによって身ごもった。
「私などが、ランクスさまのご兄妹を懐妊などと、もったいない話でございます」
少し顔を赤らめて恐縮するリサにランクスは抱きついた。
「ありがとう、リサ。僕すごくうれしい」
そういってランクスはリサの腹を擦った。
それはリサにとっても、ランクスにとっても至極幸せな時間であった。
「ねえ、シルビス。もうすぐリサに赤ちゃんが産まれるんだ」
息を弾ませ、守役のシルビスのもとにランクスが駈けてくる。
「ああ王子! そんなに走るとまた転びますよ」
刹那、ランクスは木の根に足を取られて、豪快に転んだ。
「大丈夫ですか?」
そういって差し伸べられたシルビスの手をランクスは振り払い、自力で立ち上がる。
「大丈夫だ、このぐらい。ぼくはお兄ちゃんになるんだから。強くなってリサと生まれてくる赤ちゃんを守るんだ」
そういってランクスは微笑んだ。
リサが臨月に入ったころ、剣の稽古を終えて後宮に戻ったランクスは、その惨劇を目の当たりにする。
「ああ、なんと惨いことか」
噎せ返るような血の臭いがした。
「一体なにがあったんだ! リサは無事か?」
部屋中に飛び散った鮮血に、ランクスは言い知れぬ恐怖を覚えた。
「オーリス様がリサ様を切り殺し、その胎を持っていかれたのでございます」
この一年後、心を失った少年は、敵国であったオリビエに人質として送られることになる。
「王子、大丈夫ですか?」
少し霞んだ視界の先に、シルビスの顔が見えた。ランクスの額に浮かんだ玉のような汗を布で拭いながら、シルビスが心配そうにランクスの顔を覗き込んだ。
「夢をみていた。俺のみる夢など、ろくなことがない」
自嘲するランクスのエメラルド色の瞳から涙が溢れ落ちた。
「北斗へ進軍を開始せよ、とのことです」
ランクスの意識が回復して間もなく、オーリスの使者が告げた。
不思議と身体に痛みはなく、体調が良いのにランクスは驚いた。
「王子、本当に良かった。アイ姫殿のお陰ですよ」
そういってにこやかにシルビスが微笑んでいる。
「アイが助けてくれたのか」
ランクスは複雑な表情を浮かべた。
ランクスの出兵の準備に城内が慌しくなるころ、アイがランクスの部屋を訪れた。
濃い緑のビロード地のドレスに身を包み、緩くウェーブのかかった蜜色の髪が日に透けて、それはひどく儚げに見えた。
「具合は、もう良いのか? 兄上」
「ああ、アイのお陰でこの通り回復した」
その様子を見て、アイが心底ほっとしたように微笑んだ。
「そうか、良かった」
ランクスは顔を赤らめて、横を向いた。
「ありがとう」
なぜだか今、その言葉をアイに伝えなくてはならないと思った。
アイは一瞬きょとんとした顔をし、プッと噴出した。
「どうした、急に。兄上は本来そういうキャラではないだろう?」
「キャ…キャラじゃなくても、言っていいだろ? 本当にそう思っているんだから」
(自分を助けるために、異母妹は実の父と寝た)
その事実が、ランクスの心を苛んだ。それを見透かしたように、アイはじっとランクスの瞳を見つめた。
「私が、父であるオーリスの妃となったのはあくまで私の事情だ。兄上には関係ない」
リサの忘れ形見。
オーリスは生まれて間もない、リサの赤子の心臓を抉り出して、そこに青き神珠を埋め込んだ。しかし血にまみれ、痙攣していたこの赤子は奇跡的に回復し、アイと名付けられた。
以後オーリスはアイを溺愛し、幼児の頃から寝室でその相手をさせた
「だがお前にはもっと違う人生があったはずだ」
「その台詞、そっくりそのまま兄上にお返しする」
ランクスは返答に困る。
「運命には抗えない」
アイは寂しそうに微笑んだ。
「違う! 俺は必ずお前を助け出す」
北斗への出兵を前に、ランクスはオーリスへの謁見を願い出た。
ランクスはサリエリの黒い軍服に身を包み、その戦の最高司令官として、青龍の刺繍が施された白いマントを羽織っている。
ランクスはオーリスの前に進み出ると、恭しく臣下の礼をとった。
「ランクスよ、此度の戦には、その命を賭けよ」
ランクスは、オーリスの差し出した剣に口づけた。
「御意」
ランクスにとって、もはや自分の命など、惜しくはない。しかし……。
ランクスの脳裏にアイの顔が浮かんだ。
それを見透かしたかのように、オーリスは少し目を細めた。
「いや、そなたの命だけでは足りぬな」
オーリスは玉座の脇に控えていたアイをその前に立たせた。
「此度の戦で、玄武の奪取成らざるときは、そなたの異母妹、アイの命を奪う」
(運命とは、なにをもってしても抗えないものなのだろうか)




