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虚空の鑑  作者: 直江和葉
9/73

【薫香】

 

             ※


 「それでも地球は回っている」

              ガリレオ・ガリレイ


 この際、この地が地球であろうがなかろうがどっちでもいい。夜は明け、ちゃんと東から太陽が昇るのだから。

――そう、それがたとえ、人生において前代未聞の不可解現象に遭遇したとしても、夜は、きっちりと明けるのである。

すべての人の上に、平等に。


             ※



 本日も晴天なり。

仙界からの客人を迎えるにふさわしく、雲ひとつない青空が広がっている。

 前日の捕物は、捕らえられた賊の人数が人数だけにさすがに城の人々を動揺させた。結果、城に滞在する商人たちは予定より大幅に日程を変更させられ、早々に王城から追い出されることになった。

彼らが一人残らず城門を出るまでは、近衛隊は全部隊を総動員して城の内外を警備=監視しなくてはならない。かつまた、今回の件で城内へ手引きした王族・貴族がなかったかを調べなくてはならない。

どっちにしろ、宰相の仕事は増えることはあっても減ることはないのだった。

――まあ、あの秀麗な鉄仮面がそんなことくらいで変化しようはずもないが。




 「お師匠、そろそろ出立いたしましょう」

商人用の客間、玻璃の扉を閉めたカカリは座っている師を振り返った。

「うむ」

老人は一つ頷き、長椅子から立ち上がる。

他の商人と違って、もともと彼らは女王以外のひとと商売をする気はないのだから出発することに未練もない。だが、老人にとっては、もはやここへ来るのはこれで最後になるはずだ。

カカリは玻璃の外を眺めている師の邪魔をしないよう、戸口で待つ。

――と。

「ふっ! くっくっ……」

老人はいきなり吹き出し、肩を震わせて笑い始めた。

「し、師匠……?」

「いや、何でもない。くくく……」

怪訝な声の弟子に振り向くことなく手を振って、また笑う。

「昨日は、楽しかった……」

呟くように言った老人を不思議そうに見たが、彼はそれ以上話そうとはしなかった。


 楽しかった……。

何しろ、ものすごいものを目撃したのだから。

 昨日の夕刻、テラスから外を眺めていた彼は妙な音を聞き、ふと後ろを振り返った。

見間違えようもない、この国の宰相が屋根の上を走っていた。

緑色の不思議な生き物の後を追いながら、あの長身であるにもかかわらず風のように屋根を駆け抜け、高い楼を跳び越えて行ったその人を、老人は呆気にとられて見送った。

 城の西と東に賊が入り、大掛かりな捕物になったと、後から聞いた。

その賊を発見し、宰相に伝えたのが女王の客である異邦の女だったという。


あれは、きっと宰相の役に立ってくれるだろう。


老人は口元に笑みを浮かべたまま、踵を返した。

戸口に立っている弟子の腕をポンとたたく。

「行こう、カカリ」

「はい」

そして静かに客間の扉が閉められた。




 「ふう、あっつ…」

博士に問うべき質問事項を整理していたハナは椅子から立ち上がった。

初夏並みの暑さだ。辟易したような顔でロングコートを脱ぎ、隣の椅子の背に無造作に引っ掛けた。

とたん、

「きゃっ!」

「なんてはしたない…!」

後ろに控えていた女官が口元を抑えて叫び声をあげる。

「はあ?」

不思議そうに首を傾げつつ、かまわず外に出ようするハナに女官達は慌てて駆け寄ってきた。

「いけません、ハナ様! そんな格好でお部屋を出られては…!」

「どうか上着を着てくださいませ!」

「ちょ、ちょっと…。こんな暑いとこでコートなんか着てられないよ」

両手をあげて押し止めるように言ったハナは、不思議そうに女官達を見る。

 コートの下は伸縮性のある黒のメッシュを二枚重ねにしたチャイナカラーのカットソーで、全体に薔薇の刺繍が施されている。インナーは黒のキャミソール。腕や肩が透けて見えるといえばそうかもしれないが、こんなものは透けているうちには入らない。

ボトムはボディラインにフィットした黒いパンツだった。前のベルト位置から太腿の中ほどまで飾りの鎖がついており、歩くたびにちゃらちゃらと音がする。

「ちょっと、暑いからそんなに集まらないで」

ハナは群がる女官達に鬱陶しそうに手を振った。

格好がどうこう言っている場合ではないのだ。

「私のことは気にしなくていい。じきに貴女がたの目の前から消える。それより早いトコ…」

「ハナ、博士がお見えに……」

「さっ…宰相閣下! お待ちを…っ!」

入室の挨拶もそこそこに、つかつかと部屋へ入って来た宰相は、女官達の制止も虚しく、目前の光景に絶句してその場で固まってしまった。

「博士? 助かった!」

硬直した男の様子など目に入ってもいないらしく、喜色満面にガッツポーズをとったハナに、再び、空気がビリビリするほどの大喝が落ちた。

「ハナッッ! なんて格好をしているっ!」

女官達は凄まじい怒号に、文字通り飛び上がった。

「え――?」

大声に目をぱちくりさせているハナに駆け寄りながら、宰相は着ていた長衣を脱いだ。

「きゃっ!」

「宰相閣下…っ!」

「……っ!」

ハナのメッシュのカットソーなどいかほどのものだったろう。

女官達は、見事なまでに引き締まった鋼のような男の裸の上半身を目の当たりにして、熟れたトマトみたいに真っ赤になった。


 女王の懐刀と言われているこの国の宰相は、宮廷で一、二を争うほどの美男だ。冷静沈着で頭は切れる、腕も立つ。

これでモテないわけはなかったが、どんな美女の秋波にも眉一つ動かすことがなかったために、宰相閣下は花の香よりも樹の香の方がお好きなのだと揶揄されてもいた。――男性の着物には樹木の香を焚き染める習慣がある――

 この鉄面皮の男が、腹立ちまぎれに流された宮廷女の悪口をどう受け止めていたかは本人ばかりが知るところだが、その朴念仁が別世界の女と珍問答を繰り広げるようになるなど誰が想像しえただろう。


 「わあ!」

ハナは上着を頭から被されそうになり、咄嗟に男の両手首を掴んで踏ん張った。だが、相手はいかんせん頭一つ高く、横幅とてひと回り大きい筋肉の塊だ。

腕力でかなうわけもないが、このくそ暑いのに服など重ねられてはたまったものではない。

宰相の手首を掴んだまま汗だくになって抵抗した。

「や、やめろ、参謀長官どの! 暑いのにそんなものを被せるな!」

「だったら、はしたない格好はやめろ!」

「どこがはしたないんだっ! これは普通だっ…ていうか、はしたないのはアンタのほうだっ! 早く服を着ろ!」

「うるさい! つべこべ言わず被っていろ!」

「い・や・だ! どいつもこいつもイチイチ煩い! どんな服を着ようが私の勝手だっ! かまうな!」

「強情な…!」

火花を散らす男女をハラハラしながら見守っている女官たちの後ろから、のんびりした老人の声がした。

「―――。お二人さん。仲の良いのは結構じゃが、そろそろ始めんかね?」

はっとして同時に振り向いた先に、白い髭を長々と垂らした老人と、この国の女王、そして、数人の女官と近衛兵が立っていた。

老人以外の者はあっけにとられたように目を丸くしている。

ハナが戸口に気を取られた隙に、宰相は自分の長衣で彼女を包み込むと、ひょいと担ぎ上げた。宰相の衣から逃れたシュリーマデビイは男の肩にとまった。

「ちょ、ちょっと! 何すんだ!」

「…博士、今しばらくお待ち下さい。用意して参りますゆえ」

宰相はいつもの淡々とした声音で言うと、放せ下ろせと喚くハナをかついだまま隣室へと入って行く。

度肝を抜かれ、閉められた扉を呆気に取られたように見つめていた人々の沈黙を破ったのは白髭の老人だった。

「………。女王、わしは宰相のあんな姿は初めて見ましたぞ」

「博士、それはわたくしもです」

女王はおかしそうに口元に指をそえた。



 「何か薄手の羽織るものを。――ああ、ついでに私の執務机の上にある木箱を一緒に」

「か、かしこまりました!」

控えの間にいた若い女官は、いきなり上半身をさらけだした宰相が入ってきたので腰をぬかさんばかりに仰天していたが、彼の命に顔を赤くしながらも恭しく一礼して堂室を出て行った。

隣の部屋では女王と博士のために部屋が整えられているようだ。人々が動き回る気配と物音が聞こえてくる。だが、扉一枚隔てたここは、妙に静かだった。

こぢんまりとして、卓と椅子が一組、長椅子が一つ、茶箪笥が一つあるなかなか居心地のよさそうな部屋だ。

その部屋の真ん中で、ハナは宰相の肩から下ろされたものの上着からは解放してもらえず、くるまれたまま憮然として突っ立っていた。

着物に焚き染められている香が鼻孔をくすぐる。――昨晩と同じ香木のかおりだった。

とくん、と鼓動がひとつ大きく鳴った。

「………」

なるべく香を吸い込まないように息をする。だが、不自然な呼吸はかえって彼女に焦りをもたらした。

意識するまいと思えば思うほど、鼓動が早くなっていく。

(ま、まずい……!)

冷や汗がじんわりと背を伝いはじめたころ、ようやく戻って来た女官がごく薄い生地の羽織りと小さな木箱を宰相に手渡した。

宰相はハナに被せていた自分の長衣をとると、薄く白い羽織を彼女に突きつける。

内心ホッとしながらそれを受け取り、広げてみた。

(――――。コレだって結構な透けようじゃないか)

そうは思ったが口には出さず、しぶしぶ袖を通した。宰相の長衣を被るよりはましだろう。

しかし……。洋服の上に半被を着たような、みょうちくりんな格好である。

ハナは物悲しげに呟いた。

「うう、やっぱ暑い……。なんだかなあ……これじゃあご町内の祭りみたいじゃん」

その間に長衣を手早く纏い、すっかり身なりを整えた男は、

「わけのわからない文句を言うな。お前は……そんな肌の透けるようなものを着ておいて、そのくせ香の一つもつけぬとは、一体どんな世界なのだ」

眉根を寄せ、低い声でぶつくさ言いながら木箱を開けた宰相は、小さな陶器瓶を取り出した。

「これをやろう」

ハナの手に落とされた小瓶を見て、女官は思わず「まあ!」と小さく呟いた。

 小さな白い瓶の真ん中に楕円の紋章が描かれ、それを囲むように絢爛豪華な花鳥が踊る。取っ手部は繊細な蔓草に模され、蓋には非常に手の込んだ飾りが彫りこまれていた。

ハナはしばし手の中の小瓶を見つめ、首を傾げた。

「何ですかコレ…?」

聞いた途端、女官がとうとう声をあげた。

「まあ、ハナ様! 香水ですわ! しかも、隣国・サイカの由緒ある調香師がやっとつくりあげたといわれるものですのよ! 王族の女性にしか手に入れることができないような稀少な香水ですわ!」

それに――

女官はちら、と宰相に目を向けた。

(殿方が女性に香水を贈るのは……)

いかに彼が異国を出自とするとはいえ、この国の習慣を知らぬはずはない。

であれば。

宰相閣下は――。

かすかな苦味をともなった女官の思考は、だが、異邦の女のとんでもないセリフではるか彼方に吹き飛ばされてしまった。

「…ふうん…。そんなに高級なものなの…。じゃあ、せっかくだけどこれは返します」

一瞬、場の空気が凍結した。

「……なっ、何てことをおっしゃいますっ…!」

「――その香水は気に入らぬか?」

そのまま卒倒してしまいそうな悲鳴をあげた女官と、微苦笑を浮かべる宰相。

なんだか不可解な空気が漂いはじめているのを不思議に思いつつ、ハナはかぶりを振った。

「いや、気に入るとかいらないとかの問題じゃなくてさ。そのう…自分の体に人工の匂いをつけるってのは、ものすごく抵抗があるんだ……です。私はね。…それに、王族しか買えないような高級品ならなおさら、相応しい人にあげてほしい。――たとえば参謀長官殿の奥さんとか、恋人とかに」

屈託なく笑って「ほい」と小瓶を男に差し出す。

宰相が口を開こうとしたとき、ほとんど倒れかけていた女官はキリリと態勢をたてなおした。

「いいえ! 宰相閣下よりの賜りものをつき返すなど無礼千万ですわ! 仙界からのお客様に対しても失礼ですっ! 否が応でもハナ様にはこれをつけていただきますっ!」

――悔しさ半分、もう女官の意地だった。

びっくり仰天のハナの手から香水瓶をひったくると、その小さな蓋を抜いた。

たちまちにして、部屋は香りに満たされる。

まるでその小さな瓶からたくさんの花と果実が溢れたような、そんな錯覚をおこさせた。

途端、だった。

「―――っ!」

ハナはいきなり頭を強打されたような衝撃を受け、視界は一瞬にして真っ暗になった。

自分の身体が傾いだのを朧に知覚する。

遠のく意識の向こうでシュリーマデビイの甲高い悲鳴を聞いた。





 


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