【事件】
やばい。
非常に、やばい。
ハナはうろうろと部屋を歩き回った。
やばいというのは他でもない。変身して飛んでいった木彫りの鳥のことだ。
先刻、茫然自失から立ち直ったハナは、大慌てでテラスへ出ると、
「こらーっ、ツルーッ! 戻ってこーーいっ!」
声を限りに叫んだのである。
既に、空の高みへ飛んでいた鶴は、陽光にキラリと羽を煌めかせ、雲の合間に消えていった。
「…マジですか……」
ハナはがっくりと肩を落とした。
いつもなら、こんな大声を出せば誰かしら来るはずだったが、今日は珍しく誰も来なかった。
――城中の者が大広間で浮き足立っていることなど、ハナには知る由もなかったのだが――
こんな豪華な王宮に置いてあったのだ。ちょっとやそっとの金額ではないはずだ。
―― 一体。木彫りが変身して空の彼方へ飛んで行ったなんて、誰が信じるだろう?
(刺客のレッテルを貼られる前に、盗人のレッテルを貼られるのか? 情けなくて涙でそう……)
ハナは床に突っ伏した。
シュリーマデビイが心配そうにキュルルと鳴く。
しばらくそうしていたが、嘆いていても仕方がない。宰相に相談してみようと身体を起こした。
「――おっ!」
長椅子の上、ハナが着ていた洋服がきちんとたたんで置かれてあった。
「ありがたい」
ハナは紅い着物をばさばさ脱ぎ捨て、着慣れた洋服に袖を通す。パンツのベルトを締め、やっといつもの自分に落ち着いた。洗濯したての靴下を履き、ショートブーツに足をつっこむ。
「これこれ。こうでなくちゃね!」
脱ぎ捨てた着物をどうにかこうにか畳み、長椅子の上に置く。
コートを着込みながら、ふと窓の外を見ると、西の空が赤く輝き、日が沈んでいくのが見えた。
亮兵はどうしているだろう? 自分がこんな状況に陥ってしまったことを兄は知ってしまっただろうか?
「………」
ハナは、思いを振り切るように部屋を出た。
廊下はしんと静まり返り、人っ子ひとり見当たらない。おまけに薄暗い。
「珍しいこともあるもんだね、シュリー」
呟きに、肩から小さな鳴き声が返る。
「参謀長官殿はお忙しい時間かな……」
シュリーマデビイが小さく鳴いて、首を左方向に伸ばした。
「え、こっち?」
ドラゴンに促されるまま、ハナは左へ進路をとった。
階段をおり、また歩く。
そういえば城の中を歩いたことはなかった。歩き回って迷子になるかもしれないが、シュリーマデビイと一緒なら大丈夫だろう。
あまりに静かなので、なんとなく足音を立てないように歩いてしまう。
そうして装飾された柱が立ち並ぶ廊下を歩き、白い壁と壮麗な扉をいくつか過ぎた頃、曲がり角の向こうから密やかな話し声が聞こえた。
「………?」
ハナは姿勢を低くし、そっと廊下を覗いてみた。
黒装束の男が二人、扉の前でゴソゴソやっている。
一人は扉の前に跪き細いもので鍵をあけ、その傍らの一人は肩にロープの輪を担いで辺りを見回している。こちらに向きそうになったので、慌てて頭を引っ込めた。
(……どろぼうか?)
あの部屋は誰の部屋なのだろう?
人を呼びに行っていたのでは遅いかもしれない。空き巣なんてものは物色にかける時間は数分だと聞いた。
しかも、見たところロープで外に逃げる可能性もある。
歩いてきた廊下の左手は木々が密集する庭が広がっている。しかもここは二階だ。闇と光が交差するこの時間帯なら、逃げるのも容易いかもしれない。
決めた。
「シュリー、よく聞いて。急いで参謀長官殿をあの部屋の窓の下に呼んできて。泥棒を捕まえるんだ。今のところ二人だ。でも、仲間がいるかもしれない。……やってくれるね?」
シュリーマデビイは金色の目をキラキラさせて短く鳴くと、廊下から空へ飛び立った。
カチャリと鍵があいた。
『よし!』
『急げ!』
ハナの耳に届いた二人の会話は、既に意味不明の言葉になっていた。扉が静かに閉まる。
何か得物が欲しかったが、このさい仕方ない。
手が震えてきた。
「ふう……」
油断は禁物だ。五感を研ぎ澄ませて。
ハナは静かに立ち上がると、二人の男が入って行った部屋へと歩き始めた。
女王の間から退出した宰相の胸に、緑色のものが飛び込んで来た。
『――っ! シュリーマデビイ? 何故ここに……』
しばらく彼はドラゴンを見つめ、やがて、大きく目を見開いた。
『…一人でか? まったくあの娘は……! 斎兼、東の林に兵を配置し固めろ。東雲の間に賊が入った。商人らに気取られるな。騒ぎは最小限に抑えろ』
『かしこまりました!』
斎兼は敬礼を返すと、大慌てで駆けて行った。
『里応、怪しい動きをするものがないか、くまなく探せ。警護の手薄なところは部屋の中も確認しろ』
『かしこまりました! 宰相閣下はお一人で…?』
『一人で大丈夫だ。私はこのまま東雲の間に行く』
言うや、彼は宰相にあるまじきことに、欄干から長身を躍らせ飛び降りた。
里応が仰天している間に、数階下の屋根に身軽に着地し、先導する緑のドラゴンを追って屋根伝いに走る。衣の裾をひらめかせて楼の屋根を飛び越え、あっという間に見えなくなった。
『……わが国の宰相閣下も、何やら謎の多い方だな……』
苦笑とともに呟くと、里応は命令を遂行するため駆け出した。
コンコン!
扉が叩かれ、部屋を物色していた二人の男はギクリと身を竦ませた。
取っ手ががちゃがちゃ回されている。
『なんだ…?』
『………』
二人が顔を見合わせていると、再びコンコンコンと苛立ったように叩かれる。
賊は立ち上がった。一人は窓の外をうかがいながら、すぐに逃げ出せるようロープを箪笥の足に結ぶ。一人は油断なく身構えながら扉に近寄った。
『――イスギか?』
問いかけは無視され、再度、扉が叩かれた。
こんな大きな音をさせては、いかにこんな日でも見つかってしまうではないか。
『イスギ! 静かにし……』
咎めるように言いながら扉をそっと開ける。
「やあ、泥棒さん」
『………』
男の目が大円に開かれたとき、扉の外から女のパンチが襲い掛かった。
『ぎゃっ』
男は傍にあった置物を引っ掛けて派手な音をさせて倒れこむ。同時にハナは扉を蹴り飛ばして部屋に飛び込んだ。
『きさま!』
窓の脇に立っていた男が、短剣を引き抜いて襲いかかった。咄嗟に身を反らそうとしたハナの足を、転がっていた男がむんずと掴む。
「……っ!」
襲ってきた白刃を間一髪で交わしたが、態勢を崩して倒れこんだ。男の手はハナの足を掴んだまま放さず、むくりと起き上がった。
『このアマ……ッ』
鼻血を出しながら男の手がハナの首を掴む。
「ぐっ……」
息が詰まる。くい縛った奥歯がギリリと音を立てた。
(くそっ!)
ハナは自由だった片足を振り上げ、男の急所へブーツの踵を思い切り突き込んだ。
『げっ!』
男はカエルがつぶれたような声を発し、白目をむくとハナの上に落ちてきた。
「うわっ! くるなっ!」
気色悪さに怖気をふるって男の身体をどかそうともがく。
そのとき、戸口から飛び込んできたモノが短刀の男を突き飛ばし、吹っ飛んだ男は玻璃を突き破って外へと放り出された。
ドサリという音と、複数の足音。
「え……?」
何が起きたのか……ふいに、圧し掛かっていた男がひょいと持ち上げられ、上から不機嫌そうな宰相の顔が覗き込んだ。
シュリーマデビイが嬉しそうにハナの胸に飛び降りる。
「やあ、参謀長官殿! 早かったね。流石だ!」
ハナはにっこり笑ってみせた。
「この――大馬鹿者がっっ!」
空気がびりびりするような凄まじい大喝が降ってきた。
「ひっ!」
ビクリと身を縮めたのは、何もハナだけではなかった。
宰相の指示で密やかに行われた捕物は、しばらくして終幕を迎えた。
案の定、賊は二人ではなかったのである。
斎兼らは林の中で数人の賊を取り押さえ、里応の指揮する別働隊が、城の西側に入り込んでいた賊を取り押さえた。
商人に成りすまし、何年も城とやり取りを重ねて信用を勝ち取っていった傍ら、せっせと城の内部を調べていたらしい。
東側の東雲の間と、西側の夕影の間は、儀礼祭典などに用いられる備品などが納められている部屋だった。
第一級の宝物は城の奥深くに仕舞われており、高官たちでさえ、うかつには近づけない場所にある。今回の騒動の中心となった備品はそれらに比べれば何ほどのものでもなかったが、珍しい玉の盃や、貴重な原料で作られた薬品なども保管されていた。備品とはいえ町で売れば相当な額に値するものばかりだ。
あまりに高価なものではかえって足がつく。であるなら、祭儀用の備品程度が盗んで売るには丁度よい。
捕らえた賊がいうには、こういうことのようだった。
また、これらに続いて芋蔓式に吊り上げられた賊は数十人にものぼった。
一方。
ハナは宰相の向かいに座らされ、お小言を聞かされていた。しかし、言われてばかりもいられない。彼女は抗弁を試みた。
「――でも参謀長官殿。あの場を離れて呼んでくるうちに逃げられたら間抜けじゃないですか」
「だからといって、わざわざ部屋に入っていくことはないだろう」
「ですけど入らないと、あいつら絶対窓から逃げると思ってましたし。危機一髪で参謀長官殿が来て下さったんだし、賊の一味も捕らえたことですし、終わりよければすべて良しですよ!」
ね? と言って首を傾げてみせるハナをじろりと睨む。彼女は首をすくめて押し黙った。
「…………」
わかっている。
彼女の判断は間違っていない。おかげで賊を一掃できたし、これを機に、物欲に目が眩んでいた馬鹿者どもの鼻をちょいと抑えてやることもできるだろう。
わかってはいるが、苛立ちがおさまらないのだ。
宰相は向かいに座る女の顔を見つめた。
気まずそうに手元に目を落としているその顔は、つい数日前までここにはいなかったものだ。
それがどうしてか自分を苛立たせる。
彼女の頬にいくつか傷ができていた。かすり傷だが、それさえもが彼を苛立たせるのだ。
彼は我知らず、手を伸ばしてハナの頬に触れた。
「……っ?」
びっくりして瞬きする彼女の顔をじっと見つめた。指が、なめらかな頬をすべっていく。
自分は――。
「参謀長官殿……?」
どう反応していいのかわからない様子の女に、ふと笑みを向ける。
そして、彼は腕を伸ばした。
「………無事でよかった……」
ふわりと、自分の頭を包んでいた腕が解かれ、香木の香りが離れていった。
扉が静かに閉められ、しばらくたっても彼女はそこから動くこともできず、やがて、体中の血を顔面に集結させたハナは、声にならない絶叫を放ち長椅子の上に突っ伏した。
び、びっくりした……っ
びっくりしたー! びっくりしたーー! びっくりしたーーーっ!
そんなハナに、逃げた鶴のことなど思い出す余裕があっただろうか?
いや、ない。