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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【降臨〔壱〕】

 天空は蒼く星々をちりばめ、銀盤はゆるゆるとすすむ。草庵を包む闇は、生きとし生けるものの息吹を伝えてくる。玻璃もはまっていない仙・禾陽(かよう)の庵の窓は開け放たれており、清々しい風が流れ込む。

 仙薬のおかげか、スオウの怪我はみるまに治癒していき、明朝にはサイカの家へ帰ることになった。最後の夜、ゆったりと談笑していた禾陽とスオウは、突然はしった稲妻のような光に外を振り返った。

「今のは……?」

「……! 博士、あれを……!」

スオウは、夜の闇に沈んでいた遥か彼方の山脈を指した。天を突く霊峰の向こうの空が、五色、六色に輝いている。

二人はしばし、凝然としてそれを眺めていたのであった。



 「も、申し上げます! 北の空に、巨大な竜が昇りました!」

物見の兵が駆け込み、奏上する。――いわれるまでもない。人々は、先の稲妻によって外へ飛び出していた。

「陛下、危のうございます!」

女官達の声も振り切って、きらびやかな純白の着物の裾を風に遊ばせながら、水華蓮国国主・玉蓮はテラスの端まで駆けより、北の空をじっと見つめた。

闇に沈む海の向こう……晴れたときでさえ、北の大陸の影など見えはせぬ。だが、いま……その北の方角から様々な光を纏う【竜】が天空へと駆け上っていったのである。

女王の紅唇が微かに動いた。

「陛下!」

「騒ぐのではありませぬ! すぐ神祇長官のもとへ使いを出しなさい!」


 神祇庁では、北の空に昇った光輝く竜もさることながら、奥神殿においては長官である青慧が胸の痛みを訴え、私室に篭ってしまったために、少なからず動揺に浮き足だっていた。そんなところへ女王からの使いである。神官は常になく取り乱して、香芯のもとへ走ってきた。

そして不安そうな面持ちで神祇長官の執務室の扉を開けると、いつもと変わりない青慧が座っていた。

「……陛下が? わかりました。すぐ向かいます。香芯、あとを宜しくお願いしますね」

神祇長官はそう言うと、立ち上がる。扉の向こうに消える青慧の背へ、香芯は深々と頭を下げた。



 「アイオリア・ガナ! あれを……!」

少女が声をあげ、空を指差した。傍らにいた銀髪の男は、声をあげ、おそろしく巨大な火柱を見上げる。

「うわあ! いったい何だい、ありゃ?!」

マサキが素っ頓狂な声をあげ、手をかざした。

彼らは言うにおよばず、村の人々はみな外に飛び出し、北の森のほうから噴き上げた輝く火柱を見上げていた。

「……ハナ様……」

藍華は小さく呟き、そっと指を組みあわせたのだった。




          ※




 目を覚ましたとき、あたりは真っ白だった。――正確には、白い光の中、といったほうがいいだろうか。

黒髪の美貌の青年、大中小の老人三人――彼らは不思議な光球のなかに転がっていたのである。

「……一体、どうなったんじゃ……?」

「王は……?」

ムラトが呟き、ゲオルゲはきょろきょろとあたりを見まわす。

目が慣れてくれば、何か見えてくるかと思ったが、あいかわらずあたりは真っ白で何も無い。すると、突然、轟きのような声が降ってきた。

『目が覚めたか』

一斉に振り仰いだ彼らの上空で、白銀に輝く竜がとぐろを巻いて睥睨していた。

「ひゃあ、白竜!」

「白竜がわしらを助けてくれたのか?」

老人達の言葉には応えず、

『我はこの地を去る。そなたらは元の場所に戻してやろう。迎えをやった故、帰るがよい』

白竜が言うや、光球がゆっくりと流れ始める。

「待ってくれ、白竜! 俺も連れて行ってくれ! ハナはそこに居るんだろう?」

光麟は立ち上がり、上空の竜に向かって叫んだ。

青年をじっくりと観察しているのか、しばしの沈黙のあと、白竜は面白そうな声音で呟く。

『……ほう。眷属がまだ生き残っておったのか。……なるほど、それであの剣を持っておったのだな。よかろう、参れ』

途端、光麟の体は光球から切り離され、あっという間に上空に引き上げられる。彼が思ったとおり、ハナは白竜のそばに居た。ただし、彼女の意識はなく、一糸纏わぬ姿で、煌めく光の繭に大切に寝かされていた。彼女の心臓の傷も、一緒に刺されたシュリーマデビイの姿も、光の中に埋もれて見えなかった。

『では、さらばだ。翁ども』

白竜はそうして、真白き光の、さらに高みへと駆け上がって行った。



 白から一転、闇の中に放り出された老人達は、もしや暗黒世界かと危ぶんだのだが、何度か瞬いて天空に月を発見して大喜びした。

月と星が輝く、美しい夜ではあったのだが。

「……ここは何処じゃいな?」

あたりに光はなく、なんの影も見えはしない。ただ、ちゃぷちゃぷという水音のみで――。

「水音っ!?」

三人は叫んで、一斉に下を見た。

自分たちを乗せている光球の下は、深く黒い水面が延々と広がり果てがなかった。――彼らは、大海のど真ん中に浮かんでいたのである。

「……元の場所……というても、海の真ん中ではのう……」

「あの御仁は体が大きい分、微妙な調節は苦手とみゆる」

ゲオルゲとサンダーの言にムラトは苦笑した。確かに、白竜からみれば、自分たちが居た元の場所とは、こちらの世界のことだ。

「まあ、その分、迎えをよこしてくれたのだから……見落さないよう、周りをよく見ておこう」

「迎えと言ったって……灯りもないが……」

「むっ? おい、見ろ! 何か近づいてくるぞ」

サンダーが声をあげ、二人はそちらへ目を向ける。

遠くからうすぼんやりとした光がこちらへ近づいてくる。それはまた巨大な帯のようで、外海を走る大船よりもひとまわり、ふたまわりも大きかった。

「ヒカリダコかいの……? えらい群れじゃが……?」

「あほな! ヒカリダコの大群なんぞ聞いたこともないぞ!」

会話を交わす間にも光の帯は彼らに近づき、その真下にもぐりこんで光球を持ち上げた。途端、彼ら三人を包んでいた光がはじけ、冷たくぬめる鱗の上に、老人三人はぼたぼたと転がり落ちた。

「ひええ……」

「さむっ!」

「これは、ひょっとして、海竜王かの……?」

びっしりと鱗に覆われた巨大な生きものは、色とりどりの光を体から発しながら、ゆっくりと進む。やがて、彼らの前方に黒くうずくまるような影――ホウライヌが見えてきた。

「おお……!」

延々と続く森が見え始めた頃、いくつもの光が見えた。こちらへ合図を送るように、左右に振られたそれは、時おり銀色の光をはじけさせたのだった。




          ※

 



 完全に霧が払われたその国では、長く日にあたらなかったために、皮膚疾患にかかるものや、小さな子供が重度の火傷を負うというようなことがいくつかおきたが、事前に出されていたターガナーダ王からの厳重な触れによって最小限に止められていた。

 大地には一斉に草花が芽吹き、森林の木々も徐々に新芽を出すほどに回復してきている。人々の生活が豊かになるまでには、まだかなりの年数を要するだろう。だが、先の見えなかった彼らの心の霧が消えかかっている今、復興の速さは目を見張るものがあった。

 その日も太陽は光を降り注ぎ、子供達は厚手の布で体を覆うようにして、あたたかな光の中へと飛び出していく。

噴水広場で遊んでいた幼女が、ふと、天空に現れた光点を見上げた。

「……なにかしら……?」

それはみるみるこちらに近づいてくる。

「ねえ、あれ見て!」

少女が叫び、人々は何事かと空を見上げる。

太陽の光に眩しく輝きながら、白銀の竜は王城へと舞い降りて行った。


 ローブミンドラの王城は、上を下への大騒ぎである。竜王の舞い降りた地として自負しているとはいえ、実際、竜が舞い降りたのを見たものは一人もいなかったのだから。否、数千年の歴史を紐解いてみたところで、そんなことは一度もなかったはずである。ただひとり、水華蓮国で異邦人が地の底から白銀の竜を呼び出したのを見た、ターガナーダ以外は。

 王城の貴族らは、現れた白竜を見てこれが祖神かと歓喜し、こぞってターガナーダに託宣を受けるよう進上した。

王の執務室でそれらの貴族を迎えたターガナーダが言ったのは――

「あれはそなたらが言うようなものではない。託宣など告げるものではないぞ……。私の言葉が信じられないなら、客間へ行ってみるがいい」

不満そうにして出て行った貴族らを見送っていた峰牙は、

「なんですか、奴ら、あの竜が金銀財宝でも出すかと思ってるんですかね?」

「さあな。好きにさせておけ」

呆れたように呟き、ターガナーダは肩を竦めた。

 三日前、白銀の竜がターガナーダの前に舞い降りた。光の繭に包まれたハナと、それにつき従うように立っている美貌の青年を連れて。――竜はターガナーダの問いを遮り、彼女を休ませる部屋を用意するよう言った。そして、小者が用意した女性らしいこぢんまりした部屋ではなく、国賓を迎えるための豪奢な部屋を陣取り、巨大な寝台へハナを寝かせると、自分は盾のようにその前に巨大なとぐろを巻いて誰一人として――傍らに立っていた青年さえ近づけさせなかったのである。

 ターガナーダが懇々と白竜に訴えると、『煩い雛だ。そこな眷属に聞け』 と言って目を閉じてしまった。戸口に立っていた青年――光麟は肩を竦めると、淡々と今までのことを話し始めたのだった。



 バーダバグニは二人の青年官吏を先に執務室へ戻し、何気なく奥へと足を向けた。

城の中は眠る白竜のことで憶測が飛び交い、すでに打算が働いているものも見受けられる。――あれほどの悪政によって苦しめられてきたはずなのに、である。ターガナーダは捨て置け、と言ったが、同じ人間として、あまりに情けなく恥ずかしい思いがする。

そうして、城内の最奥――聖地とよばれる池が見えてきた。霧が晴れたせいなのか、池の悪臭が幾分やわらいでいるように感じる。

バーダバグニは、そして、池のほとりに立つ銀髪の長身の青年に気づいた。

こんなところに見たこともない人物が入り込んでいるとは、由々しき事態ではある。が、白絹の着物は豪奢で、端然と立つ姿はそこらの貴族の子弟とも思われぬ。

バーダバグニが怪訝そうな顔で彼に声をかけたとき、青年がこちらを振り向いた。

「あっ! あなたは……!」

バーダバグニは驚愕に目を見開き、さっと跪いた。そして、震える声でかれに問い掛ける。

貴方様(あなたさま)はもしや、青慧殿と肖像に描かれていた方では……?」

足元に平伏した老人を眺めていた青年は、おや、という顔をし、くつくつと笑いはじめた。

「何とまあ、あれはいまだに残っておるのか……なるほど。絵を残そうなどと、酔狂なことを考えるものだと思ったものだが」

「……ご尊顔を拝謁でき、光栄に存じます。白竜王」

バーダバグニは一層、深く頭を下げたのだった。


 「……千年前とは比べものにならぬほどだな」

白竜は呟き、黒い汚泥に向かって歩き始めた。以前よりは悪臭がやわらいだとはいえ、貴人に耐えられるものではない。バーダバグニは止めようとして、絶句した。

泥の上に足を踏み出した白竜は、黒く濁った水面を滑るように歩いている。光沢のある白絹は美しいまま、しみ一つ付着してない。

 池の真ん中にすっくと立っているのは一本の蓮華――もっとも、花はなく、今は残された茎と巨大な葉のみ。

白竜は青蓮華(ローブインバラ)を前にして、池の辺で佇んでいる老人に言った。

「そなた、この池の名を知っておるか」

「……いいえ」

「知らぬか。知らぬでは、ここが聖域とされる所以(ゆえん)も、この池の濁りも理解できまい」

「どういう意味でございましょう?」

「――この池はな、鏡ヶ池というのだ」

「鏡ヶ池……? これが、でございますか?」

「そうだ。人の世を映す鏡―――この池の濁りは、人心の濁りにほかならぬ。……これがために、わが主はこの地に舞い降りたのだ」







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