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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【愿】

 目を開けたとき見えたのは、古ぼけた木の天井だった。ふわりと流れてくる清々しい墨の香りに、彼は首を捻った。

白髪、長鬢、白い衣の老人が書をしたためている。

「気がついたかの?」

老人は顔もあげず、彼に問い掛けた。

「……ここは、一体……」

彼――スオウは体を起こしながら白い老人に問い掛けた。

「儂の庵じゃよ。お前さんは、山脈の谷間の木に引っ掛かっておったよ」

言われ、スオウはあっと声をあげた。

そうだ。自分はセイロの花を求め、崖を降りる途中で落ちたのだ。何度か体を強く打ちつけられて気を失ってしまったのだろう。

「薬湯じゃ。飲みなされ」

白い老人は碗に薄緑色をした湯を差し出した。スオウは小さく頭を下げ、ゆっくりと口に含んだ。

苦味の中にほんのりとした甘味がある。後味は清々しく、胸がすっとする。

「……サンスの根とシンロウの実……。ガリの茎、ヨキリナソウの花……ショウバ、クロシ、クロエの葉……あとは……?」

「ほほ……耽楼(タンロウ)という仙界の花の実じゃよ。……優れた嗅覚と味覚をお持ちじゃの」

白い老人は面白そうに笑った。

スオウは仰天し、慌てて寝台から降りると、床に手をついた。

「わしとしたことが、とんだご無礼を……! ここはいずれの仙人の御住まいか」

「ああ、これこれ。まだ体は癒えておらぬ。お前さんは、いましばらく安静が必要じゃ。……儂は、禾陽(かよう)と申す、水華蓮の博士を務めておる者じゃよ。それはともかく。あのような場所に何故降りていこうとしたのじゃね? 下は急流があるばかりで、これといって珍しいものはないはずじゃが?」

禾陽はスオウを寝台に戻すと、不思議そうに訊ねた。スオウは微苦笑を浮かべ、今までの経緯をとつとつと話し始めた。


 話し終わったころには仙界にも夕闇が迫り、庵にはいつのまにか灯がともっていた。

「……さても不思議なことよ。あの香水は一度だけ宰相閣下にみせていただいたが……仙界の幻の花と言われる丹珊芙(たんさんふ)かと思うたがの……」

「はい。わが国の博士もそう聞かれました。ですが、花の精を混ぜ合わせるとおわかりになりましょうが、宰相閣下に献上いたしましたあの香りにはなりませぬ……ああ、実は昔、サイカの博士に丹珊芙をいただいたことがあるのです。勿論、あの花も素晴らしい香水ができあがりましたが……今回のあれは……あれだけは、只人の手にあってはならぬものです。ただひとり、宰相閣下にお返しするべき妙香なのでございます」

「……お返し……?」

「左様でございます。何故といって、あの香水はかの地の青蓮華(しょうれんげ)の精……青露(セイロ)を混ぜ合わせたものでございますから……」

「なんと?!」

「……あの香水の仕上げに青露を落としました。……ほんの数滴ほどの青露が花弁から流れ落ちたとたん、青蓮華はあっという間に枯れて砂になってしまったのです」

博士は驚愕の声をあげたまま、しばらく二の句が告げなかった。

稀代の調香師といわれる男から発せられた言葉はあまりにも重大で、あまりにも荒唐無稽だった。だが、博士はあの香りをすでに知っている。凛とした清々しさ、華やかさ、芳醇さ――言葉には言い尽くせないほどの溢れるような芳香を――。

「……荒唐無稽と言われますでしょうな……。致し方のないことです。ですが、あの青蓮華はたしかに十数年、私の庵で咲きつづけておりました。まだ幼い……少年だった宰相閣下おん自ら手折って下さった時から、ずっと………」



 『花を探しにきた……?』

幼いながらも、高貴な光を身にまとうそのひとは、泥だらけの自分を見て呆れたように呟いた。

『おまえが泥だらけになる価値が、あれにあるかどうか私は知らぬ。だが、欲しいならやろう』

彼はそう言って、驚いたことに、水面を歩いて行った。そして、泥の池の真ん中にのびている芳しい香りを発するその花を手折り、自分にくれたのだ。

蓮の花が手折れらた途端、辺りは腐臭に満ち、水の濁りも増したように見えた。だが、彼はそれに頓着するでもなく、淡々と言った。

『持ってゆけ。……花を咲かせていても、こんなところでは見る者もない。そして、早く立ち去れ。警吏に見つかれば殺されるぞ』

彼は押し頂くようにして花を受け取り、少年に聞いた。

『あなた様の、お名前は……どうか、お名前をお聞かせください』

既に踵を返して立ち去ろうとしていた少年は、足を止め、ちらりとこちらを振り返った。

『……ターガナーダ』




          ※




 「白竜とな? はてな……わしらが落ちたのは確かにだだっ広い牢だったが、何もおらんかったぞ……?」

「そういえば、あの白きお方はどこに行ったんじゃ?」

ムラトが首を捻り、

ゲオルゲがきょろきょろと辺りを探す。

「白きお方?」

「ここまでわしらを案内してくれた美しい方じゃよ。竜王の炎を、清めだとかいって頭からかぶっての。ひとつの火傷もなかったがの」

ハナと光麟は顔を見合わせた。

ハナが水華蓮から呼び出したのは巨大な竜だ。竜樹は、かれはいま自由に動いているはずだと言ったが、あんな巨大なものが飛び回っていればいやでも目に付くはずだ。

ひょっとして、かれは、もうここには居ないのだろうか……?

「……白竜は、どこ……?」

ハナは剣に呟いた。竜王の剣は、白銀の光をまっすぐ示した。

彼女が走って来た――竜樹のいる方向へ。



 焦がれるように待っていた人が、駆けていく。

竜樹は泣いていた。

嬉しくて、哀しくて、寂しくて、それでも嬉しくて……

彼女はこんなところまで来てくれたのだ。自分のために。

「……さよなら、ハナちゃん……」

本当は、もっと早くこうしておくべきだったのだ。彼女がこんな所まで来る前に。

「僕は、本当に馬鹿だ……」

呟き、彼は忍ばせていた短剣を鞘から抜いた。回廊の燭台に灯された昏い光に、刀身は鈍く輝く。映る青白い自分の顔が見返していた。


 あの嵐の夜。

確かにあいつは外から来たのだ。

そうして、あいつは言った。

『お前の中に在る、卑しくあさましいものこそ、我の力だ』 と――

当惑する自分にあいつは嗤った。

『今はわかるまい。だが、お前の中には過去に犯してきた様々な負の因がある。もっとも、お前に限らず、人間の中には在るものだがな!』


 子供だった自分にはどうすることもできなかった。否。今でもどうしていいのか、正直わからない。

ただ、今のままではいけないのだ。何とかしなければ――これが、あいつの言う、自分の負の因がもとに引き起こしたことならば、なおさら自分で何とかしなければならないのだ。

竜樹は、そうして刃を己の胸に向けた。

手は震え、心臓は恐怖に脈打ち、己の意思とは別のところで 「死」 に反発する。

亡骸のように生きてきてさえ、この命を絶やすことに抵抗するのか。

「……浅ましい……」

竜樹は自分を嗤う。そのとき。

「生きているものが 「生」 へ執着するのは当然のこと。あれを滅するに、己が身を滅ぼさんと決意するとは、なかなか天晴れじゃな。したが……」

男の声が玲瓏と響いた。

竜樹は仰天して振り向き、次いで呆然と彼を見つめた。

「その剣ではその身を刺し貫いたとて、あれを消すことはできぬぞ。竜王の剣でなくば、な」

白銀の髪と着物。双眸もまた銀に輝き、彼を面白そうに見つめている。

「……あなたは……?」

銀色に輝く男はそれには応えず、窓のほうへ目を向けた。

「あれが戻ったぞ。まあ、試してみるがいい」

竜樹がびくりと身を震わせたとき、上から押さえつけられるような凄まじい圧力がかかった。竜樹は自分の体に巨大な影が入ったことを覚知した。

「……ぐ……っ。…………まったく、城に大穴をあけおって……! ……? 貴様、何をするつもりだ? ……よさぬか!」

竜樹は、自分の口から出た言葉に抗うように、己の心臓へ向かってがむしゃらに剣を突き立てた。

こんなモノを自由にさせないために、そして、自分の体を自由にさせないために――。

自分の手で、終わらせるのだ!

竜樹のものか、影のものか、どちらともわからぬ絶叫が口からほとばしった。

「……たっくん!!」

落ちてくる闇の中で声が響いた。

回廊の角を駆けてきたハナの姿が、閉じかかった彼の視界に飛び込んできた。






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