【曜】
危険なかぎろいを宿していた黒い双眸が、ふとハナから反らされた。次いで、足元を突き上げるような振動が伝わってくる。
「……大蜘蛛が暴れてるな……。僕はちょっと席を外すよ。その剣、早く手放したほうがいいよ、衡漢王。君のためにも、人間のためにも、ね」
竜樹はゆらりと立ち上がると、言い置いて踵を返した。
ハナは凝然とその後姿を見送り、そして、腰の剣に触れる。
この剣を持ち続けたがために命を吸い取られた衡漢王―――彼の死後、竜樹の話では、この剣をめぐって水華蓮国内のみならず、各国がこぞって奪おうと、かの国に攻め入ったのだという。そんな剣だからこそ、水華蓮は剣を手放すことはできず………おそらく、神殿の奥深くひっそりと安置されていたのだろう。
水華蓮を出る時、貴族の罠にかかり、賊に殺されそうになった……剣に触れた賊の右手は無残に焼け爛れた。
君のためにも、人間のためにも――
だが、この剣は――
あの、やさしい蒼い神祇長官が渡してくれたもの。
「剣とは、人をして、活かすものなのですよ……」
耳朶に残る、低く穏やかな声。
生き延びるために、初めて人を殺めてしまった夜、この剣はハナの心を慰めてくれた。自分はそのとき初めてこの剣を信じようと思ったのだ。それ以後、この剣は如何なるときも彼女を護ってきた。
青慧が言うように、活かしてこれたのか、それはわからない。だが、少なくとも自分を護ってくれた。その剣が、己の命を求めるのなら―――。
揺らぎかけた心が、地に足をつけた。
子猫を抱いて、はにかんだように笑う幼い竜樹。
【彼】 を取り戻し、この闇を払ったら――剣に、捧げよう。
からからと小礫が落ちていく音が聞こえる。不思議とそこは明るく、時おりゆらゆらと光が揺れた。
「……おいてて……」
「ぷへっ! けほけほ。いやあ、まいったまいった」
「みな、無事かいのう」
「おう。何とかな」
薄明かりの中から聞こえてきたのは、老人三人の声。彼らはむくりと起き上がると、顔を見合わせにやりと笑った。
「わしらもなかなか運が良いの」
「悪運が強いの間違いじゃろ」
サンダーの暢気な言葉に、ムラトが肩をすくめた。そして、ゲオルゲの松明に目をやり、
「ほほう! あの急場に松明を消さんと持っとるとは、たいしたもんだ!」
友人を称え、いそいそと自分の松明に火を移す。
揺れていた光は、ゲオルゲの松明の炎だったのである。
「おそらく一番最後にわしが落ちたんじゃろ……それより、ここは何処じゃいな?」
ゲオルゲは小さな目をぱちぱちさせ、辺りを見渡した。
落ちてきた空洞は緩やかなカーブを描いているのか、光麟がいるであろう上階は見えなかった。どうやら崩れた土砂は、もう一枚の天井をぶち抜いたらしく、大きな穴があいていた。
窓もない真四角な煉瓦の部屋――というより、ほとんど牢のようだった。何を捕えていたものか、とんでもなくだだっ広いものだ。何本もの太い鎖のようなものが床をのたうち、ぼろぼろに千切られている。ムラトらから少し離れたところでは、巨大な蟲が瓦礫に押し潰されてひっくり返っていた。
「ひえ……あやつ、死んでおるのか……?」
「わからん。とりあえずひっくり返っとるうちに離れよう」
「光麟はどうなったろうかな……」
「あの青年のことだ。おそらく開けた穴から城へ入ったじゃろ」
ゲオルゲとサンダーの腕を軽くたたくと、ムラトは瓦礫の上からそろそろと折り始めた。
じめじめとした石の床に降り立ったとたん、炎をおそれて黒い蟲がわさわさと闇に逃げていく。
「うへえ……なんともおぞましいところじゃの!」
サンダーが顔をしかめて、蟲どもを足蹴にしているとき、玲瓏たる男の声がかかった。
「……翁、このようなところで何をしておるのだ?」
仰天した三人は、松明を突き出しながら一斉に振り向いた。
闇の中から浮かび上がるように出てきたのは、白面の美貌に長い銀髪を膝裏まで流し、豪奢な銀の着物を纏った長身の青年だった。
かれは貴人と呼ぶに相応しい、貫禄と威厳で三人を見下ろした。
「……美しい炎が近づいてくるゆえ、かの者と再会かなうかと思うておったのだが……」
青年は呟くと、心底がっかりしたような顔で嘆息した。そのあまりにも哀しげな風情に、ムラトは思わず口を開いた。
「この炎は竜王の剣から生まれたものじゃが……ああ、その、出てきたのがじじい三人で申し訳ない。わしらは、この炎を生んだ剣を持つ御仁を探して来ました。上で連れと離れ離れになってしもうたんじゃが、なんとか城に入る道はござらんか?」
「剣の持ち主を探してと? ふむ……すると、かの者は既に入っておったか……。しばらく寝付いておったゆえ、鈍ったな……。よい、翁。我が連れて行ってやろうゆえ、その炎をひとつ我に与えよ」
「……な、何をするつもりだね……?」
「なに、我が身を清めるだけじゃ」
青年の言葉に顔を見合わせた三人だったが、ムラトが松明を差し出した。彼は頷き、あろうことか炎の中に手を突っ込んだ。仰天する老人たちの前、手毬のように乗せたそれを着物の裾へ移し、両手、胸元から、とうとう頭のてっぺんまでが銀色の炎に包まれた。
「ひゃあ! 黒こげになっちまうぞい!」
「水! 水!」
「止みね、翁ども。いましばし待て」
慌てふためく老人達を片手をあげて制し、しばらくして、炎は彼の中に吸い込まれるように消えていった。
着物は無論、髪の一筋さえ焼けたところはなく、青年はさきにも増して燦然と輝き、老人達はぽかんとして彼を眺めるばかり――。
「……い、一体、なにがどうなって……」
その呟きには応えず、青年はふと頤をあげ、目を眇めた。
「……そちらか……」
白面に微笑が浮かび、老人達を見向きもせずに 「来よ」 と、踵を返して歩き始める。
「しかし、ついて行っても大丈夫なんかいのう?」
ゲオルゲが不安そうに呟く。これが暗黒神の罠ではないとはいいきれないからだ。竜王の炎を浴びて平気な顔をしているというのは、それだけ強い魔物であるといえまいか?
だが、さっさと歩いていたサンダーが振り返り、きっぱりと言った。
「かの人に着いて行って間違いない! なぜなら白いからだ!」
ムラトとゲオルゲは、きょとんとして友人を見やる。
「……なんでだ?」
「よく見てみろ! この世界には白がない! その中でまったき白をまとうヒトだ! 悪しき者のはずがないっ!」
自信満々に告げる老人の、炎に照らされぴかりと輝く禿頭を見つめ、ややげんなりとしてムラトは訊く。
「白が悪しき者ではないという根拠はどこにあるんじゃ?」
「根拠はない!」
これまたきっぱりとした答えが返ってきた。
後方の会話を聞いているのかいないのか、白い貴人は牢の扉を開けながら言った。
「翁、黒き影が迫っておるぞ」
げっと声を発した三人は、
「ええい! ままよ!」
「はああ、白きお方、待ってくだされ〜」
扉の向こうへ消えた貴人を、どたばたと追いかけて行った。
回廊の凝固された闇の中に生きる蟲が、蒼い光に仰天してざわめく。彼の手に在る剣は、その輝きを消すことなく足元を照らしていた。
壁の穴から城の中へ入った光麟は、とりあえず上へと目指した。どうやら彼らが穴をあけたのは塔の地下部分だったらしく、彼は螺旋階段を昇り、覗き窓から位置を確認した。
昼夜もなく、常に薄暗い空。眼下は食虫植物の林がえんえんと続いており、上空には巨大な羽虫が不気味な光を発しながら群れ飛んでいる。
と、城のほうから何か巨大な塊が飛び出して行ったのが見えた。
「……なんだ、あれは……?」
呟き、彼は身を翻すと塔を駆け下りた。
城は予想以上に広大で、同じ造りの扉と廊下が並び、うっかりしていると何階に居るのかわからなくなる。だが、彼を急かすように剣が熱を発し、蒼い光を前方へ伸ばした。
ハナのもとへ向かっていることは疑いようもないことだった。
ハナは服を着替えると、ぐったりしたようにベッドへ倒れこんだ。
そうして、うとうとしていた彼女の頬が軽く叩かれた。
「……だれ……?」
夢うつつに薄目をあけた彼女の視界に、竜樹の顔が飛び込んできた。
恐怖に身を竦ませるより早く、青年は切羽詰ったような声で言った。
「逃げるんだ、ハナちゃん! あいつが居ない今のうちに……!」
早く! 竜樹は彼女の手を引っ張り、扉を開け放った。
ハナは何がなにやらわからぬまま、ベッドから起きると大衣とバッグを掴む。
「今度は何のつもりなの?」
刺を含んだ声音に、青年は一瞬、哀しげな表情を浮かべ、言いかけた言葉を飲み込んだ。そして、ぐっと顎を引くと、かすかに震える声で言った。
「……早く城を出て。地下に白竜が囚われているけど……多分、彼は自由に動けるはずだ……。白竜と合流したら、次元の裂け目から外へ逃げるんだ」
ハナはしばらく、目の前の青年を凝視した。
青白く儚げな面差し。まっすぐ彼女を見つめる黒い瞳には、だが、晩餐の時に見えた昏い影も、妖しい光もなかった。
「……たっくん、なの……?」
呟くように言うと、彼は、泣き笑いのような顔を見せた。
「……ごめんね、ハナちゃん。僕、弱くて……あいつを自分の中から追い払うことさえできなかった……。来てくれてありがとう……。でも、もういいんだ。君とまた会えたから……さあ、行って! あいつが帰ってくる前に、早く!」
「……良くないよ! たっくんはどうするの?! あいつが居ないなら、それこそ今のうちだよ。一緒に行こう!」
ハナは竜樹の腕を掴んだが、思いがけないほど強い力で振り払われた。
「駄目だ。僕は行けない。……ありがとう、ハナちゃん。大丈夫。あいつを倒す方法は、僕、知ってるから……もう行って! じきあいつが帰ってくる。急いで白竜を探して! すぐこの城から出るんだ!」
竜樹は目を眇めながら窓に向け、ハナの背を強く押した。逡巡していたハナだったが、彼の 「白竜」 という言葉に強く押され、ハナは駆け出した。
一体、何がどうなっているのか……
あいつを自分の中から追い払えなかった……?
彼は暗黒神に乗り移られていたということなのか?
でも、一体なぜ……?
湧き上がる疑問をかぶりを振って払うと、
(今は白竜! 白竜に会うこと!)
ハナは短剣を抜き、強く思った。途端、短剣が強い光を発し、ビィーンとふるえた。
(白竜?!)
ハナは走るスピードをあげ、廊下の角を曲がった。
どん、と黒い影にぶつかり、彼女は勢いあまってひっくり返ってしまった。が、もしや暗黒神が戻ったものと、剣を握る。
立っていたのは黒装束の青年――光麟だった。
「……ハナ!」
「光り……ぶっ!」
彼の襟元から飛んできた緑色の光が、ハナの顔面にへばりついた。
「……シュリーマデビイ……君まで来たの……」
小さなドラゴンは短く鳴いて怒りながら、しきりに頭をハナの胸元に擦りつけた。戻って来た小さなぬくもりに、自分でも驚くほど安堵を覚える。
「……ごめんね……」
小さな呟きが洩れた。
光麟はつかつかとハナに歩み寄ると、ぐいと彼女の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
「もう少し他人の気持ちも考えたらどうだ! お前が一人でこんなところへ入り込んだおかげで、女中も親父も村の人間も、鬱陶しい自己嫌悪の嵐だ!」
『光麟も!』
「うるさい、お前は黙ってろ!」
ハナの肩に乗っていたシュリーマデビイに光麟はじろりと目を光らせる。ドラゴンは金色の目をぱちぱちさせて、反対側へ逃げ隠れた。
「……うん、ごめんね。心配かけて……」
胸ぐらを掴まれたまま、神妙な顔をしてぺこりと頭を下げたハナに、光麟は言い募ろうとして、やめた。嘆息をひとつ落とし、手を離す。
「……親父と女中は、もう水華蓮へ帰ったはずだ」
ぼそりと言う。
ハナはほっとしたように、満面の笑みを浮かべた。
「そっか……よかった……! ぁいだだだだっ!」
半ば恨めしそうな目でハナを見つめていた光麟は、言いたいことの半分も口にできなかった腹いせに、彼女の頬をつねってやった。
「やじさんやーい!」
「おーい!」
廊下の向こうから、三人の老人が元気よく走って来た。




