【深谿〔弐〕】
ここは、時の感覚がなくなるようだった。
常に闇に覆われ、得体のしれないものが蠢いている。熊ほどもある巨大な昆虫だの、それを食べる食虫植物だの……
ハナは小さな丸い窓から目をはなし、腰の剣に触れた――あれから剣は革帯に差したままである。片時も離れなかった小さなぬくもりを失ってから、彼女は無意識に剣を握るようになった。
竜樹に連れてこられたのは巨大な城だった。空を飛ぶ馬車で運ばれたのであるが、用意されていた部屋は意に反して清潔に整えられていた。さすがに出された食事に手をつける気にはなれず、バッグの中に入れていた携帯食を少しずつ食べているのだが……。
(皆、ちゃんと水華蓮に帰ったかな……光麟は……怒ってんだろうなあ……)
ぼんやりとそんなことを考え、苦笑を洩らす。そのとき、ドアがノックされた。
「ハナちゃん、ちょっといい?」
微笑みながら入ってきた竜樹が、大きなリボンのついた箱を持って入ってきた。
「晩餐の用意をしたんだ。いつまでも携帯食じゃ体力が持たないでしょう? ちゃんと食べれるものを出すから大丈夫だよ。それから、これ。プレゼント。きっと似合うと思うんだ。今日はこれを着てね」
竜樹は箱をテーブルの上に置くと、ドアのノブに手を掛け出て行こうとして、「あ、そうだ」 と呟いた。
「君がせっかく安全な場所に逃がしてあげたあの子たち……ああ、三人ほど年寄りが混じってるけど、わざわざ盾をどかして入ってきたみたいだよ……ここまでたどり着けると、いいけどね……」
ドアが閉められる瞬間、竜樹の目が酷薄な笑みに眇められたのが見えた。
「なん……」
ハナは愕然として呟き、駆け寄るとドアを開けようとした。だが、鍵も掛かっていないはずのそれはびくともしなかった。
突然、竜樹の声が降ってくる。
『くくっ……そんなに心配しなくても、まだ生きてるよ。けっこうしぶといね、君の友達。……詳しくは食事のときに教えてあげるよ。だから、僕がプレゼントしたドレス、ちゃんと着てきてね』
スピーカーから出る音声のように、わんわんとした響きをともなったそれは、だが、唐突に消えた。
(……つまり、ここは、彼の腹の中ってことか……)
ハナは心中で呟くと、箱のリボンを掴んだ。
林立する不気味な植物や、地を這いずり回るおぞましい蟲どもは、松明の火を掲げられるや声にならない悲鳴をあげて逃げていく。
「まったく臭くてかなわんのう。肥溜めの中とたいしてかわらんぞ」
「こんなところに棲んでおる暗黒神とやらは、鼻がどうかしとるんだろ!」
絶え間ない悪臭に辟易したのか、ゲオルゲとサンダーは炎をかざしながら悪態をつく。ムラトがやれやれと首を振った。
「いいから足を動かせ。振り回して火を消すなよ、喰われるぞ」
そんな会話を聞くでもなく聞いていた光麟は、もう一度位置を確認する。
闇の中にぬらりとそそりたつ『黒い城』。おそらく、ハナはそこにいるはずである。だが、道らしきものは何もなく、一面、気味の悪い植物のようなものや昆虫のようなものが蠢くばかりである。――ならば、真っ直ぐ、最短距離を進むべきだとは、サンダーの言であるが、誰も異を唱えるものはいなかった。
炎のおかげか、四人は難なく城壁の傍まで辿りついた。
「おお、何やら意外と簡単に着いたじゃないか」
サンダーが軽い調子で言うのに、光麟はしっと黙らせた。
「どうしたんじゃ……?」
「油断するな。何か、いる……」
青年は油断なくあたりの気配を探り、左手に松明を、右手に短剣を握った。ムラトらもじっと耳を澄ます。
地を伝う不気味な振動が徐々に大きくなる。
ドッ……
彼らの前方、目と鼻の先に地中から噴き出した巨大な数本の槍――否、それは蟲の肢、だった。
「わあっ、出たあっ!」
「走れっ!」
老人の叫びがあがり、光麟は立て続けに短剣を放ちながら怒鳴る。
凄まじい勢いで地を抉りながら追ってくる肢は、飛んできた短刀を跳ね飛ばした。城壁沿いに走っていた彼らが角を曲がったとき、前方からも蟲の足が地表を抉って向かってくるのが見えた。
「ちっ……! 爺さん、合図したら横へ飛べ!」
光麟は走りながら叫ぶと、間合いを計り始めた。襲いかかる肢が、もう少しで彼らを捉えるところまできたとき、
「とべっ!」
言うや、青年は横っ飛びに跳ぶ。ムラトたちもならって横に跳んだ。
寸前で消失した餌の代わりに、肢どうしが激突し、城壁の一部を派手に削り飛ばした。お互いを喰らおうとする肢の一本が、ゲオルゲの衣服に引っ掛かり、老人の身体が引きずられた。
「ひゃあっ」
「ゲオルゲ!」
光麟は咄嗟に持っていた松明を投げつける。
暴れていた肢に当った瞬間、消えるかと思われたそれは花火のように爆発した。ゲオルゲは肢から逃れると、急いで仲間の元へ走る。無音の絶叫を放ったそれらは、白銀の炎に包まれながらのたうちまわり、城壁さえも突き崩していった。
だが、事はそれだけに止まらなかった。
破れた城壁の中から、一抱えもあるような巨大なスズメバチが飛び出してきたのである。
「――っ! 逃げろ!」
あちらの世界のスズメバチの恐ろしさを知っている分、巨大な肢よりも恐怖を感じる。四人は全力疾走で逃げ出した。もっとも、光麟ひとりならば、逃げられただろう。
青年はサンダーの手から松明をひったくると、
「そのまま走れ!」
言い置いて、ハチの群れに向かって走り出した。
「光麟!」
「行けっ!」
ムラトらは 「すまん!」 と叫び、青年の脇を駆け抜けた。
光麟は松明をかざし、身体を低めた。そうして、己の気を凝縮させる。
スズメバチの大群を、黒い疾風が銀の炎と対になって駆け抜けていく。そのあとを追うように、白銀の炎が野火のように広がっていき、ぼとぼとと黒い残骸が地に落ちていった。ハチたちは危険な炎を避けるように、不気味な羽音をさせながら青年を狙う。半数までを地に落としたが、ハチはあとからあとから涌いてくる。
「……きりがないな……」
呟き、彼はその身を反転させて三人が去ったほうへ駆け出そうとした。その隙を突いたハチの一匹が、光麟の手から松明を跳ね飛ばした。
しまったと思ったときには、眼前に巨大なハチの牙が迫り、彼は咄嗟に左手を跳ね上げた。
ばちん、という爆音がし、足元に巨大なハチの死体が転がる。同時に、一斉に襲い掛かかろうとしたハチの群れが、円を描くように押しのけられた。
何が起こったのか――光麟は、いぶかしみ、己の左手を見た。
破れた篭手の下から、仕込んでいた青慧の小柄が青い光を発している。
彼は慎重にそれを抜き出すと、青石の柄を握りこんだ。
「……長剣が欲しい……」
呟いた途端、小柄は、彼の手の中で眩しいほどの光を発し、長身の青年に相応しい大剣へと変身した。
「……なるほど、そういうことだったのか……神祇長官、感謝する」
光麟はその美貌に不敵な笑みを浮かべると、うるさいハチを薙ぎ払うように、剣を一閃させた。




