【燃える女】
天蓋の紗をあけ、掛けられていたコートのポケットから携帯電話を取り出す。
相変わらず圏外の表示だったが、とんでもないことに気がついた。
替えの電池がないのだ。残量は半分くらいに減っている。放っておけば2、3日のうちには電池切れになるだろう。
「………」
しばらく液晶画面を見つめていたハナは、ひとつ溜息を落すと電源を切った。
やれるところまでやる
――そう、さっき決めたのだから。
ハナは玻璃の扉を押し開け、寝間着のままテラスへ出てみた。
夜明けの冷たい風が吹き抜けていく。
この城は高台にあるのだろう。広大な城の庭の先に小さく町並みが見え、さらに向こう、昇りはじめた朝日にきらきらと光る水面が見えた。
海だろうか?
この世界のどこかに必ず竜樹がいるはずだ。
ここから見る限りでは、あの空を覆い尽くすような黒雲はどこにもなかった。
だが――
「わっぷ…!」
突風がハナの長い髪を巻き上げていった。思わず髪をおさえ目を閉じる。
キュルル…
可愛らしい鳴き声に目を開けると、手摺の上にシュリーマデビイがちょこんと乗っていた。
「シュリー! おはよう。あれ。君、今までどこにいたの?」
手を差し出すとドラゴンは嬉しそうに飛んできた。
「食事だ」
斜め上から落ちてきた低い声に振り向くと、すでにきちんと身なりを整えた宰相が同じようにテラスに立ってこちらを眺めていた。
「あ。おはようございます、参謀長官どの」
ぺこりと頭を下げた異邦の女に、美貌の宰相は不満げな表情をみせた。
「妙な呼び方をするな。私はターガナーダだ」
「……すみません、参謀長官どの」
「………」
宰相はわざとらしく鼻を鳴らすと、ついと部屋の中へ戻って行った。
「…怒ったのかな?」
肩にとまっているシュリーマデビイに訊ねると、緑のドラゴンは彼女の顎をやさしく甘噛みした。
「くすぐったいよ、シュリー」
しばらくドラゴンと戯れていると、女官が入ってきた。
「おはようございます、ハナ様」
「あ、おはようございます」
「宰相閣下からお召し物をお持ちするよう仰せつかりました」
ハナよりもずいぶん若い女官はにっこり笑うと、手に持っていた着物を広げて見せた。
目にも鮮やかな緋色に思わず仰け反る。
「……ス、スゴイ色…。ええと、いや。私は着てきた服で……」
そこではた、と気がついた。
そういえば自分の服はどこにあるんだろう?
昨晩、お風呂のあとにこの寝間着を渡されて……
「…私の服、洗濯にだされちゃった……?」
「はい」
女官は可愛らしくにっこりと笑った。
着物を着るのを手伝ってくれ、朝食の給仕をしてくれた女官は藍華といった。
女官達にもやはり階級というものがあり、身に付けられる色も決められているようだった。
藍華は1年程前に城に召し上げられ、働いているという。まだ幼さの残る顔はハナの世界なら中学生くらいに見えた。
朝食をとる間、ハナは他国の情勢やこの国のウワサ話などを訊ねてみた。
――そう、例えば、空を覆い尽くすような黒雲が垂れ込めた国はないかとか。
「いいえ。聞いたことはございません。…ホウライヌやギルバドへ発った船は無事に戻ってきているようですし……」
「そうか。貿易が滞りなく行われてるなら……」
戦争で諸外国から武器などを買いつけることはよく聞くが、そうではないらしい。何より、取引先になにか異変があれば人々は敏感に察知するはずだ。
先日の近衛兵らの口ぶりをみても、今のところ近辺に不穏な空気が流れているところはないようである。
もどかしい。
情報がなさすぎるのだ。
こうして城の中であれこれ考えてみても竜樹の情報は得られまい。インターネットはおろか、ラジオやテレビさえないこの世界では、自分の足で歩いて確かめてくるしかないだろう。
「…やはり町にでるか……」
「え?」
小さな呟きに少女は首を傾ける。
「あ、いや。なんでもない。ごちそうさま! ところで、参謀長官殿はどこにいるかな?」
朝議を終え、執務室へと続く廊下を歩いていると遠くから自分を呼び止める声がした。
彼は足を止め、声の方を振り向いた。
目が覚めるような緋色の着物を着た女が手を振っている。
今朝ほど自分が与えた着物だった。
女は長い裾をものともせず、欄干をひょいと乗り越え、庭を突っ切ってくる。
「あの格好で乗り越えてくるか……」
思わず呆れたような声が洩れる。
裾が長ければ多少なりともしとやかに歩くようになるはずだが、この女に限っては、単に大股で歩いているのが隠されているだけにすぎないようだった。
だが、その軽い足取りは、庭の木々と草花の間を大輪の紅い花が舞うごとく、寄り添う鮮やかな緑のドラゴンは、萌え出たばかりの若葉のように見えた。
「………」
宰相は、自分の見立てがある程度は成功したことに満足して目を細めた。
ハナは立ち止まった宰相の前まで来ると、欄干に手を掛け、ひょいとそれを跨ぎ越す。
彼は再び溜息をついた。
「…そなた、ソレはあまり人前でせぬほうがよいぞ」
「はあ? ああ、気をつけます。ところで参謀長官殿、着物をありがとうございます。――この色はアナタの趣味なんですか?」
「――趣味、とは違うな。その色が似合うと思ったのだが。緋色は嫌いか?」
「いえ、嫌いじゃありませんけど…なんか、こんなに紅いと 『燃える女!』 って感じがしませんか?」
ハナの物言いに宰相は吹き出した。
欄干に肘をついてひとしきり笑いこけていた彼は、
「お前は面白いな。燃える女か…確かにな。ではますますその色はお前の色だろう」
口元に拳をあてたままハナを見やる。彼女は怪訝そうに首を傾げた。
「…紅が似合うなんて初めて言われましたよ。いつも黒しか着ないからちょっと落ち着かないんだけど」
「それはつまらん」
「いや、つまるつまらんの話じゃなく……いやいや、そんなことはどうでもよくて。実はご相談が……」
宰相は八方にのびた廊の端に位置する東屋まで歩き、据えられた椅子の一つに腰掛けた。卓をはさんだ向かいに座るようハナを促す。
そこは庭の南端にあたり、素晴らしく眺めがよかった。朝、テラスから眺めていた海がぐっと近くに見え、町の区画がはっきり見てとれる。
「すごい……!」
ハナは感嘆の声を洩らし、東屋の手摺から身を乗り出した。
「落ちるぞ」
宰相は慌てて緋色の袖を引っ張った。
「ここはすごいですね、参謀長官殿! 特等席だ!」
楽しげに言った異邦の女に、宰相は口元に笑みを浮かべて小さく頷いた。
「とりあえず、ここなら盗み聞きをする者はおるまい。話とは何だ?」
そして、ひと通りハナの話を聞き終えた男は気難しげな表情で首を振った。
「町に出ることは無理だろう。一つには、お前は今のところ陛下の客分となっている。だが、身元もはっきりしない人間を官吏たちは信用してはおらぬ。城から出た時点で刺客とみなされるのがおちだ。いま一つには、シュリーマデビイを城から出せぬ、という問題がある。従って、お前が刺客とみなされようとも町へ、国外へと行くというのであれば、それはここへ置いて行かねばならぬ。……言葉も通じぬのに、如何様にしてその青年を探す気だ」
ハナは 「うっ」 と詰まると腕組みして考え込んだ。
言われてみれば、至極もっともである。
こうして安心して眠れるのも、料理を食べられるのも、ひとえに女王の好意以外のなにものでもないのだ。
それは、たまたま、この国の城の中に放り出されたからこそだった。
あの黒雲と得体の知れない黒い影の中に放り出されたなかったこと自体、幸運だったのかもしれない。
(……しかし、それなら一体どうやって……)
早くも決心が揺らぎそうで、彼女は深い溜息を吐き出した。
「ご覧になって! 宰相閣下が異邦の女と東屋に……!」
「まあ! なんだか楽しげ……でもなさそうですわね……何のお話かしら」
「ご存知? あの緋色の着物は宰相閣下から下されたものだそうよ」
「ええっ? あの方がっ? 女性に着物?」
宰相とハナがいる東屋から離れた場所にある別の東屋では、艶やかな衣装に身を包んだ女官らしき人々が興味津々の様子で南端の東屋を窺っていた。
離れすぎていて声も聞こえなければ、細かな表情もわからないが、宰相の無表情の向かいで額をおさえて考え込む異邦人の様子は甘やかな雰囲気などカケラもなく、女官達の噂話の触手もおとなしいものだった。
しかし。
「そういえば、ねえ。あの異邦の方が現れたのが青海の間だったそうなのだけど、乱闘騒ぎになったとき、あの宰相閣下が声をあげてお笑いになったのですって!」
「ええっ!」
その言に全員が声をあげる。
「た、確かなの?」
「確かよ。だって、あの場にいた近衛の方に聞いたのですもの。――宰相閣下がお笑いになったのを見たのは初めてだったって、びっくりなさってたわ」
女官達は仰天して口をあんぐりあいていた。
宰相付きの女官達でさえ彼が笑うところなど見たこともないはずだ。いや、というよりも、あの美貌が表情を形作るということすら想像もできない。
彼女達は改めて南端の東屋に座る彼ら――特に、宰相の美しい鉄仮面をはがしてのけた異邦人へと視線を向けた。
そんな、城で働く人々の心中などおかまいなしに、ハナは悩みの渦にどっぷりと浸かっていた。
「〜〜〜〜〜」
どこから手をつければ最善なのか――そればかりが頭の中をぐるぐる回っている。
獣の唸り声のようなうめきを洩らし、額に拳をあてて考え込んでいる異邦の女を、彼は淡々と眺めていた。
見る限り、どうやらこの女は城で大人しくしているつもりはないらしい。おおかた、町へ降りるために何が必要なのかを考えているのだろう。
案の定、
「…参謀長官殿、博士という方になんとかいい方法を教えてもらうことはできるでしょうか?」
がばっと顔をあげたハナは、期待をこめた表情で向かいの男を見つめた。
その、名案だといわんばかりの様子に、宰相はこっそりと嘆息した。
「―――。伺ってみることはできよう。どんな返答をいただけるかは、私にはわからないが」
「はい」
元気を取り戻した女の肩にチラリと目を向けると、緑色の小さなドラゴンはハナにしがみついて着物を握りしめながら、拗ねたようにそっぽを向いていた。
もうひと騒動ありそうな予感に、彼は再び嘆息した。