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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【破〔壱〕】

 北に位置する、さらに北に向かう藪の道は、深い森がいっそう黒々として見える。

最北の森――暗黒世界の結界はこの奥にある。森のお婆が言うには、彼女らが村へ来てから再度結界の封印を施しに森へ入ったが、綻びから生じた腐毒(ふどく)が恐るべき速さで広がっており、元の位置よりもずっと手前に配置するしかなかったということだった。盾が戻り、広がっていた腐毒の浸入は食い止められたが、根本的な問題を解決しなければ、瘴気と腐毒の広がりは止まりはしないのである。

――すなわち、竜王の剣でそれらを祓わなければ、である。


 衡漢王が暗黒神を消滅させることができなかったのは、彼が人間であったからだという。

ならば、王の剣をもっているとしたところで、自分ができるのも 「封じる」 ことだけであり、それでさえ、できるのかあやしいものだ。


 ハナは、革帯(ベルト)に刺した剣をなでた。

変わらない温かな波動――これが本当に気を喰らうのか、不思議でならなかった。それとも、それは何年も持ってみてはじめて解ることなのか……どちらにせよ、ハナにはそんな時間は許されてはいないだろう。

 しばらく森の入り口に佇んでいたハナは、思考を振り払うように頭をひとつ振ると、後ろを振り返った。

「光麟と藍華はここで待っててくれないかな」

「断る」

電光石火の速さで即答した光麟に何か言うより早く、藍華までもが不満そうな顔をハナに向けた。これは彼女にしても予想済みだったので、溜息をひとつついて説得をこころみた。

「……結界を封じてあるといっても、どんな様子なのかわからないんだよ。空気に毒が充満してるかもしれないし……」

言い継ごうとしたところへ、三人の青年が現れた。

「お客人、そこは結界の入り口ですよ。道から外れれば迷って出て来れなくなる」

「俺たちが案内しますよ」

「森のことは、ここに住んでいる俺たちのほうが知っていますからね」

昨日の宴席で見た顔が二つあった。どちらも数人で寄り集まって藍華のほうを眺めていた青年である。彼らに藍華をお婆のもとまで送ってもらおうかとも考えたが、アオイリア・ガナや光麟が傍に居てくれるならともかく、藍華一人を彼らに預けるのは何となくためらわれた。

あと一人はハナの記憶になかった。だが、声をかけてきたところを見ると、彼もあの場にいたのだろう。

しばらく、ハナは青年達を眺めていたが、

「……一理ありますね。では、盾のところまでで結構ですから、案内してもらえますか」

「……こっちです」

彼女の言葉に青年の一人が頷き、先頭に立って歩きはじめた。

 剣が少しずつ熱を帯び始め、そして、首から下げていた白銀の竜が残していった鱗までもが、ちりちりとした熱を発し始めていた。


 森はいよいよ暗く湿気を帯び、時おり吹いてくる風に腐臭が混じる。

森の入り口付近には小動物や鳥の姿があったが、いまはもう羽虫の姿さえない。

鬱蒼と茂った葉によって暗いのではなく、一帯が何かに覆われているような圧迫感と息苦しさがある。

ハナに寄り添うように歩く藍華に、二人の青年はあれこれと他愛も無い質問を投げかけていたが、生返事しかしない美少女に肩をすくめた。光麟にいたっては、相手を一瞥するのみで終始無言のままである。

先導していた青年が足を止めた。

「……あれです」

指差されたほうを見やると、細い獣道の真ん中に、白銀に輝く盾が無造作に地に突き立てられていた。

盾はまるで何かに反応するように銀色の光を発した。

ハナは大衣(コート)を背にやり、同じように輝きはじめた腰の剣に左手を添えながら、ゆっくりと盾に近づいていった。

村の青年たちは驚き、盾とハナの剣を見比べる。

「……王さまだってのは、お婆の戯言じゃなかったのか?」

二人の青年は額をつき合わせてひそひそと喋る。先導してきた青年は、連れの二人には目もくれず、心配そうに異邦人を見つめていた。

 盾の近くまで来ると、剣との共鳴反応はおさまり、消えていく光の向こうから無残な光景が姿を現してきた。

すべてのものが腐り落ちている。

木も草も石も土も……じわじわと侵食していく毒に苦しめられながら、それでも立とうとしているさまは、返って凄惨さを浮き彫りにしていた。いっそのこと、すべてが泥となってしまっていれば、ここまで無残に感じはしなかっただろう。

「……ひどい……」

藍華の小さな呟きがきこえた。

「ハナ、あれを見ろ」

光麟が指を差した。

腐りかけた泥と、木の間を這いまわる、どす黒いもの――ナメクジの十倍はある蟲が、じゅくじゅくと気味悪い音を発しながら蠢いている。

「蟲か……?」

「この腐敗は、瘴気というより、あいつらの仕業のようだな」

光麟はいくぶん眉を顰めながら呟いた。

黒い蟲どもは、盾の傍には寄って来れないようだった。視線を転じると、道が続いていたであろう先に、黒い口がぽっかりと開いている。そこから、際限なく流れ出しているものが、瘴気などではなく蟲であると気付いたとき、ハナは怖気をふるった。

「……ぞっとしない眺めだね……」

お婆は、ここにくれば暗黒世界の一端を垣間見るだろうと言ったが、これは想像以上のしろものだった。

盾の傍に立っている三人に、青年が声をかけた。

「さあ、もう帰りましょう。いつまでもこんなところにいたら具合が悪くなりますよ」

「そうそう」

「ハナ様、戻りましょう」

藍華の言葉に、ハナは生返事で盾の前にしゃがみこむ。

「どうした?」

光麟の問いかけにも答えず、ハナはじっと盾の一点を見つめる。やがて、

「……亀裂が入ってる……」

ぽつりと呟いた。

「――っ!」

息を飲んだ藍華と光麟は、同時に身をかがめた。

ぐずぐずとその場を動こうとしない三人に苛ついたのか、一人が大股で寄ってきた。

「何をしてるんです! 早く行きましょう。今日は俺たちが宴を用意してるんですよ。そんなもの放っておいても平気ですよ」

青年はしゃがんでいた藍華の腕を乱暴に引っ張った。

「痛っ! 放してください!」

藍華は悲鳴をあげたが、青年は力をゆるめもせず、少女を引きずるようにして歩く。

「ちょっと! その子を放して!」

ハナは青年のあまりの粗暴さに、むっとして彼らに駆け寄った。

「つれないなあ。昨日は銀髪の爺さんにくっついてて、少しも話せなかったじゃないか」

「おい……」

「よさないか、バシル」

バシルの態度に、連れの青年たちさえもが眉をひそめ、たしなめようとした。だが、彼は藍華の腕をぎりぎりと締め上げ、薄ら笑いさえみせている。

「……なんだよ、村にはこんな綺麗な()はいないだろ? 結界守だか竜王様だか知らねえけど、一生こんな森の中で暮らすなんて馬鹿馬鹿しいぜ。せめてこんなときくらい楽しまなきゃなあ……」

舌なめずりさえしそうな声に、藍華はおぞましさに総毛立ったが、痛みに青ざめながら青年を睨みつけた。

「怒った顔も可愛いね。もっといろんな顔を……ぎゃっ!」

青年は悲鳴をあげ、藍華を掴んでいた手を放した――放さざるをえなかった。

「……見苦しい」

低い呟きは光麟のもの。

どこをどう突いたのか、バシルは腕を押さえて悲鳴をあげている。呆然と佇む二人の青年の目には、この黒ずくめの美貌の青年が、少女を掴んでいる手に軽く触れたように見えただけだ。

「勘違いするな。俺たちは物見遊山でここに来たわけじゃない。お前達が盾で防ぐ、あの向こうの世界に用がある」

「馬鹿な……あんなところへ入って戻れるわけが……」

あえぐように言った青年に、光麟は言葉を被せるように言った。

「宴などで遊び呆けている暇はないぞ。盾はもう長くはもたない――亀裂が入っていたからな」

「な……っ!」

衝撃に息を飲んだ青年の横で、凄まじい絶叫があがった。

腕を押さえていた青年の口から、どす黒いものが溢れ出してきたのである。それは、ゼリー状のぶよぶよした、巨大なアメーバをハナに連想させた。

「うわ……うわああっ」

一人の青年は、うわずった声をあげ、脱兎の如く逃げ出し、ハナたちを先導してきた青年は蒼白になって彼を凝視している。

「だ、だず、げ……」

言葉を発するたびにごぼごぼとこぼれ落ちる黒いものは、地に落ちた途端、黒煙をあげ土を腐敗させた。あまりの光景に呆然としているまに、青年の身体はみるみるうちに黒く変色していき、腐り落ちて黒いゼリーの中に埋もれていった。

「バ、バシ……」

青年は震える声で呟いたものの、足は固まったように動かなかった。

アメーバのような魔蟲(まむし)がゆらゆらと揺れたとたん、青年に向かって飛んだ。彼が思わず目閉じたとき、じゅっという焼けるような音がした。ゆっくりと目をあけると、銀色の剣を構えた異邦人が彼の前に立ち塞がっていた。

「逃げろ!」

魔蟲はゆるやかに拡大しているが、剣が放つ光を避けるようにして移動し始めた。






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