【浮雲〔弐〕】
異邦人を迎えての宴は広場の傍にある講堂で行われた。
老いも若きも、子供までがめったにないご馳走に大喜びし、賑やかに笑いあう。ムラトたちは村人に混じって楽しげに酒を飲んでいた。アイオリア・ガナはエヴァンゲロスとなにやら話し込んでおり、藍華はその彼にくっついて座っている。少し離れたところでは、数人の青年が寄り集まって、藍華のほうをちらちら見やっていたが、彼女は気付いてもいないようだった。無論、一方では年頃の娘たちが数人、ハナの傍らにいる青年をうっとりしたように眺めている………
それらをぼんやりと眺めつつ、ハナは森のお婆・クロエの言葉を反芻していた。
「……剣のことを考えてるのか?」
隣で静かに杯を口に運んでいた光麟が訊ねてきた。
「え。あ、うん……まあね…………あのさ、光麟……」
「依頼者のことは話せない。だが――俺が依頼者から言われたのは、お前が持っている剣には触れるな、ということだ」
「あ、だから……って、えっ?! だって、それっ……ぶっ」
仰天して振り向いたハナの口を掌でふさいだ光麟は、目に強い光を浮かべて小さく首を振った。言うな、ということらしい。
ハナは間近にある青年の美貌を穴があくほど見つめた。
あの時点で、この剣のことを知っているとすれば、水華蓮中探したとてただ一人しかいないではないか。
ハナの思考が伝わったのか、光麟は深い色の目に微笑を浮かべ、「……そういうことだ」 と囁いた。
「……なんてこった……」
先のクロエの謎めいた言葉など忘れ果てて愕然と呟けば、光麟は笑いを含んだ低い声で訊いた。
「納得したか?」
「うん。したよ。したともさ。……なんか、安心したらお腹減ってきた」
即答したハナに、光麟は苦笑する。
「婆様のさっきの謎かけは解けてないけどな」
「それは、あとで考える。……とりあえず。キミも酒ばっか飲んでないで、食べなさい」
ハナはそう言って、自分と光麟の皿に料理を盛りつけると、しばらくは腹ごしらえに専念したのであった。
※
「来たぞ……」
椅子に座っていた青年が唇の端を吊り上げる。
『……っ! ハナが……? お前、彼女に何をするつもりだ……?』
タツキは蒼白になって男を睨みつけた。
「そう怖い顔をしなさんな。偉大なる王のおでましじゃ。礼を失せぬよう、おもてなしをせねばなるまい。永きを経て、兄弟の感動の再会じゃ。懐かしかろう、真槐よ? くくくっ……」
『……僕は、竜樹だ。シンカイなんて名前は、知らない』
タツキは男を睨みつけた。
鏡に映る、自分の顔を―――。
※
藍華は大慌てで講堂から外へ走り出た。聞けば、一刻ほど前にハナは長の家に移ったというではないか。あろうことか、自分はアイオリア・ガナに寄り掛って眠ってしまっていたのである。
朝もやも薄れかけ、日は徐々に天空に昇りつつある。だが、深夜からはじまった宴は明け方まで続き、村人たちはまだ眠りの中にあった。
全力で村を駆け抜け、長の家に飛び込んだ藍華は、客間に向かって一直線に疾走した。
一瞬後。
「離れなさい、光麟っっ!!!」
超音波級の絶叫が屋根を突き抜け、朝の空気を震撼させた。
「ひえっ?!」
素っ頓狂な声をあげて飛び起きたのは、寝台の上に寝ていたハナである。びっくりしたシュリーマデビイが飛び立ったものの、すぐに彼女の肩に舞い降りた。そして小さな牙をのぞかせて大欠伸をする。
「なに? なにかあったの……?」
まだ半分夢の中にいるハナはきょろきょろとあたりを見回した。
「朝っぱらから五月蝿いぞ、女中。安眠妨害をするな」
淡々とした青年の声に視線を移すと、同じ寝台の上に光麟が寝そべっていた。ハナの傍らで寝ていたらしい。
「〜〜〜っ。光麟。いくら護衛だからといって、女性と同じ寝台に入るなんて……ハナ様が眠ってらっしゃるのをいいことに……」
怒りにぶるぶる震えている少女を、美貌の青年はちらりと一瞥しただけで、再び目を閉じた。
「別に襲い掛かってはいないぞ。こいつを一人にしたら、厄介なことになってたかもしれないからな。お前はお前で親父の膝で寝てただろう」
藍華はうっと詰まり、首筋まで真っ赤に染まってしまった。
「……そ、それは、ハナ様を狙う輩がいたということですの?」
「いつものことだろう」
藍華は鼻を鳴らし、次いで心配そうに異邦人を見た。噂の人は、光麟と藍華の会話など耳に入ってもないらしく、寝台の上に座ったまま夢の続きを見ているようだった。
「……ハナ様、横になってください。……光麟、そこをどいてちょうだい。あっちにソファがあるからそこで眠って」
少女は青年を追い立て、ハナに毛布をかけると今度は自分がハナの傍らに横たわった。光麟は呆れたように肩を竦めたが何も言わず、大人しくソファに移動するとごろんと寝転がったのだった。
ハナがクロエの元を訪れたのは日が中天を過ぎた頃だった。
案内してくれたのはまだ小さな女の子で、いずれはお婆のような巫女になるのだと言う。少女はハナたちを導いて森の中に入っていった。
村から少し離れた場所に、木々に埋もれるようにしてその庵は建っていた。
「大婆さま、ハナ様がお見えになりましたよ」
「ありがとう、アレシア。お茶をおだししておくれ」
「はい」
クロエは大鍋の前に座り、なにやら濁った液体をかき混ぜている。客人に座るよう合図し、しばらくは無言だった。
少女が出してくれたお茶は、草の香りと花の香りが混じった、香ばしいものだった。
「美味しい」
呟いたハナに、クロエはフードの下で微笑む。ハナの後ろに座った光麟と藍華もお茶を堪能した。
アレシアが部屋から出たのを確認してから、老婆は口を開いた。
「お聞きになりたいのは、暗黒世界のことですかの?」
ハナは頷き、これまでの経緯をざっと説明した。
「……ですから、私は従弟を助けるために水華蓮から来たのですが、暗黒世界がどんなところなのか、よくわからず……ご存知であれば、聞かせていただきたいのです」
そう言った彼女の顔を、クロエは見つめて、言った。
「かの世界の実体は、わしにもわからぬ。……かつて、入って行った者がなかったわけではない。だが、誰一人として、もどって来た者はおらぬという。伝説が伝えるように、暗黒の王が居るとも言われるが……王は、竜王の伝説をご存知かの?」
「はい、少しは……。水華蓮の初代の王が、竜王とともに暗黒神をここに封じ込めたとか……」
「左様。したが、不思議に思われませぬか。なぜ、王は封じ込めただけに止め、抹消してしまわなかったのかと……?」
老婆の言葉に、ハナは目をぱちくりさせた。
「……それはそうですね……」
竜王の力でも暗黒神は消せなかったということなのだろうか?
不思議そうに首を捻る異邦人に、クロエは笑いながら言った。
「わしが思うに、その闘いでは、竜王は力を振るってはおらぬ。伝説の王、衡漢に剣を与えたにすぎぬのではないかと……逆に言えば、それはヒトの手によってなされねばならなかったのではないかと思うておるのですじゃ。して、また暗黒神といわれるものの正体も、非常に曖昧で不確かなもの……」
「差し出口をお許しくださいまし。……では、お婆様は、暗黒神などは存在しないと思ってらっしゃるのでしょうか?」
ハナの後ろから藍華がおずおずと口を開く。老婆は、だが、きっぱりと 「否」 と答えた。
「わしが言うのは、その暗黒神なるものを、人間である衡漢王では完全に消すことができなかった――つまり、封じ込める以外に手立てがない存在であった、ということじゃよ」
クロエの言葉に、三人の若者は一様に首を捻った。老婆はそれを咎めもせず笑うと、
「……それは、王がご自身で確かめられるがよろしかろう。……その、暗黒世界の片鱗が見たければ、この森の奥にかの世界への入り口がありますじゃ。こたび、王をお招きするに、封印の盾を取り外しました故、結界に綻びが生じております。そのあたりをご覧になれば、かの世界の見当がつきましょう」
「ほころびって……! まさか結界が……」
仰天したハナに、クロエは落ち着き払って手をあげる。
「遅かれ早かれ同じことじゃよ。王よ。かの世界の入り口は、盾が守っていた場所だけではない。いまや、あちこちの世界で綻びが生じ、黒い気が流れ込んでおりましょう……いずれにせよ、王が来て下さらねば、この世界は暗黒に飲み込まれてしまうことになっておったゆえ……。申し上げよう。かの暗黒を払えるのは、王がお持ちの、その剣のみですじゃ」
しばし――庵の中は火のはぜる音と、鍋の煮立つ静かな音に支配された。
ハナは目の前の老婆を凝視し、大衣のしたの剣を強く握りしめた。




