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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【浮雲〔壱〕】

 サイカの家を出てひと月が経とうとしていた。

老人の足は、絶え間ない負荷に悲鳴をあげている。それでも、彼であったればこそ、この険しい山中をここまで歩いてこれたのである。

(記憶では、もうそろそろなんだが……)

老人――スオウは心中で呟き、一休みするために近くの朽木に腰をおろした。

深い森の中は日の光を半分も通さず、真昼でも薄暗かった。木々の間から落ちてくる光を拾うようにして、彼はかじかんだ手を温める。

もうどこにも存在しないとわかっているセイロの花を求め――否、正確には花のあった場所へ行く道に出遭えることを望んで、ひたすら歩きつづけていたのだ。


 セイロの花――あの香りをなんと表現すればいいのか、スオウにもわからない。


 芳艶にして清醇。華麗にして淡雅。地上のありとあらゆる花を集め、妙香を生み出そうとも、その一滴には遠く及ばず――さりながら、その芳香が舞い降りたとき、地上の花精さえも一瞬にして天上の花気へと昇華させた。

花精それぞれが活き活きと輝き、溢れるような香りを放つ。それでいて、豊かな、包み込むような、その調和――。


 それはとうてい。

ヒトの手で生み出せる香りではないのである。あれ以上の香りは今後一切あらわれることはなく、その可能性さえもない。ゆえに、彼はあの仕事を人生最後と決めたのである。――そうであればこそ、ヒトの作り出した「金銭」のやりとりなど言語道断であり、天上の香気はそれに相応しい人物が纏わねばならぬのだ。

「……さて、行くか……」

呟き、スオウは立ち上がった。

山はどこまでも深く、延々と続いている。

下生えを掻き分け、垂れ下がる蔓枝をくぐり……そうして数時間の後、かすかに水の流れる音が聞こえてきた。

「……谷か……!」

スオウは喜色に目を輝かせ、歩調を速めた。

唐突に現れた空間――それは巨大な斧で山を真っ二つにしたような、深い谷がはるか下に落ちていたのである。

森が切れた谷の上空は青く澄み渡り、大きな鳥がゆるりと風に乗っていく。

間違いない。

あの日も、自分はここから谷をおり……セイロの花に出遭えたのだ。

スオウはもう一度、空を見上げた。

日が沈むまでまだ間がある。そう見て取った彼は、背負っていた袋から長い綱を出し、一番近くの木に結びつけた。綱を谷に投げ落としたあと、綱を革帯(ベルト)に引っ掛けてから腰に装着した。こうすれば、万一手が離れても革帯で引っ掛かって落下が止まる。

スオウは慎重に足場を確認し、崖を降りていった。

崖は意外と脆く、小さな出っ張りに不用意に体重をかけようものなら、ぼろりと崩れ落ちる。谷を駆け抜けていく風は強く、スオウの身体を簡単に持ち上げてしまうほどだ。

じりじりと下っていき、足元から身長分の下に小さな台座のような出っ張りを見つけた。彼の位置から少し右にあるそこを目指し、スオウは右下へと向かった。

足の爪先が台座に掛かろうかというとき、身体がガクンと落ち込んだ。

「……っ!」

上空、木に括りつけていたはずの綱が切れて跳ね上がったのが見えた。

「あっ……」

スオウは咄嗟に台座に手を伸ばしたが間に合わず、彼の身体は支えを失って深い谷底へとまっさかさまに落ちていった。



          ※



 巨大な車輪が森の前で止まった。

「さあ、着いた! ようこそ、我等が森へ!」

サンダーはゴーグルを頭にのせ、くるりと振り返って陽気に言った。

ムラトとゲオルゲは、やれやれとばかりに車から飛び降り、アイオリア・ガナは立ち上がってひとつ伸びすると、ひょいと飛び降りた。光麟は傍らに座っていたハナを覗き込んだ。

「立てるか、ハナ? ……親父、女中を頼む」

「私は女中という名ではないと……うう……」

「確かに、かなり、キツ……」

男たちに比べ、娘二人はへろへろの状態で、ハナはさんざん打ちつけたお尻をさすっていた。

「どれ」

アイオリア・ガナは車にあがると、へたりこんでいる藍華をひょいと抱き上げ、すとんと地に降り立つ。

「……あの……どうも、ありがとうございます、アイオリア・ガナ……」

そっと地に降ろされた藍華は、真っ赤になって蚊の鳴くような声で言った。

先に降りた光麟は、よっこらしょと車から足を出したハナの腰を支えて地に降ろしてやった。

「ありがと。……おいてて……」

ハナは腰に手をやり、ゆっくりと左右に捻った。ぽきぽきと情けない音が聞こえる。

「……思ったより軟弱だな、ハナは」

「そーゆー問題じゃないと思いマス!」

光麟の呟きに、む、と睨みつけてやると青年はにやりと笑った。

「そいじゃあ、わしはこいつを仕舞ってくるから、先に長の家へ行っててくれ」

サンダーはムラトに言うと、車を運転して森を迂回して行った。

 空には巨大な銀盤と宝石をばら撒いたような星が瞬き、冷たい風が吹き渡る。黒々と広がる森は視界におさまりきらず、その広大さをものがたっていた。

「こっちだ。(おさ)の元に案内する」

ランプを掲げ、ムラトとゲオルゲは先に立って歩き始める。

「……なんだか、知らない人間が入るとすぐ迷っちゃいそうだね」

余所者(よそもの)は入り込めないようになってるんだろう。伝説の地ならなおさらだな」

ハナと光麟の声が聞こえたのだろう。ゲオルゲが振り向いて笑った。

「そういうわけでもないんじゃがな。入り口はいくつかあってな、ここはその一つなんじゃ。……まあ、森に慣れておらんと、判りにくい道じゃがの。慣れておっても、油断すれば迷う」

くねくねと曲がりながら進むうち、森の奥にぼんやりとした光が見えてきた。

「もうすぐだ」

ムラトが言い、行く手を遮るように伸びた枝を払いのけたとき、

「帰ってきたあっ!」

甲高い子供の声が響き渡った。

おお、というどよめきがあがり、集まっていた人々の手にあるランプが一斉に掲げられた。

「わ……」

眩しさに思わず手をかざす。光に慣れてみれば――その広場には、村人達がムラトらを出迎えに集まっていた。

「おかえりなさい、ムラト爺、ゲオ爺!」

「おかえり!」

人々は戻って来た老人達に笑顔を向け、労いの言葉をかけた。ムラトとゲオルゲは笑いながらそれぞれに頷き、誰に聞くともなく問うた。

「ただいま。(おさ)は家か?」

「ああ。サンダーが先に行ってる。(ばば)様も一緒だ」

近くにいた男が答えるとムラトは頷き、背後にいたハナたちに出てくるよう合図した。四人の旅人が広場に入るや、彼らは一斉に感嘆の声をあげる。

美しい四人の異国人は、おとぎ話に出てくる精霊のようで、人々はしばらくぽかんと口を開けたまま彼らを見つめていた。

「……まあ、無理もないがの。とりあえず、さくさく進もうかの」

ゲオルゲは小さく肩をすくめ、ハナたちを促した。


 

 針葉樹の深い森に囲まれた村は、せいぜいが数十世帯で、子供までいれても三百人たらずである。急勾配の屋根と高床の家は、この地が豪雪地帯であることをものがたっていた。

 結界守の長・エヴァンゲロスの家は、広場から一番奥に位置している。階段を上り、玄関を入るともう一枚扉があり、(おさ)はその奥の部屋にいた。

「ようこそ、北の森へ」

白い髭の下で老人は微笑み、ハナたちを迎え入れる。先に来ていたサンダーが軽く手を上げた。長の両脇に青年が二人、そしてその隣には、黒いマントをかぶった、ひどく年老いた小さな老婆がちょこなんと座っていた。

「お初にお目にかかります。私は水華蓮の守人の長、アイオリア・ガナ。こちらが矢島ハナ殿、その護衛の光麟と藍華です」

アイオリア・ガナの紹介にハナたちは軽く一礼した。

「おお、水華蓮の! 代替わりの直前……先代の時代までは、水華蓮とやりとりしておったが……いやはや、直接お目にかかることになろうとはのう……」

「まったくです」

エヴァンゲロスは感慨深げに洩らす。アイオリア・ガナも苦笑しつつ相槌を打った。

長たちのやりとりの横、小さな老婆はフードの奥からじっとハナを見つめ、その視線に気付いた彼女は、小さく礼を返した。

老婆は口元をほころばせ、干からびた手で彼女を招く。ハナがそっと老婆の前に跪いたとき、

「お腰の、その剣は……」

しゃがれた声が問い掛けた。ハナは驚いたように老婆を見つめ、大衣(コート)の下に差してある短剣を革帯(ベルト)から鞘ごと抜いてみせた。

話し込んでいた長二人がこちらに注意を向ける。

「これは水華蓮の青慧さん……神祇官長が持たせてくれたんです」

「……神祇官長が……して、お体は何とも……?」

「? 私ですか? ――ええ、はい。べつにどこも……」

老婆の問いに、ハナは不思議そうに首を傾げる。老婆はフードの頭を何度も頷かせ、「なるほど、なるほど」 と呟いた。

「おお、わしとしたことが、王に名乗りもせずにおりましたな。わしの名はクロエ。皆は森のお(ばば)と呼びますじゃ。王も、婆とお呼びくだされ」

「婆様ですね。……あのう、私は王ではありません。どうか、ハナと……」

微笑したハナに、だがクロエは首を横に振った。

「王の剣を持つものは、すなわち王ですじゃ。それはこの世のことわりが変わろうとも、決して覆せぬ事実」

「えっ、こんな娘が!? ……と、あ、失礼……」

エヴァンゲロスの後ろに控えていた青年が仰天したように叫び、長に睨まれて慌てて口を塞ぐ。だが、老婆とハナはそちらに見向きもしなかった。

もの問いたげな異邦人に、老婆は片手をあげて制し、呟くように言葉を紡ぐ。

「――かつて、我等をここに止め置いた竜王は、水華蓮の建国王に剣を与えたという。じゃが、それは竜王の強大な力を有するゆえ、只人(ただひと)が手にしようものならその力に木っ端とされるか、あるいは、吸い取られてしまう。であればこそ、気を喰らう剣とも言われる。それを持ちながら、ままでいられるのは……果たして、伝説の王ゆえなればこそなのか、あるいは……」

老婆はそれきり、口を閉ざしてしまった。











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