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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【霧の国〔弐〕】

 霧は依然として濃く、街を、国を覆っていた。

突然、重苦しい冷たい空気を振り払うかのように、白い闇の中から声が響いた。

「いいか、皆。三人組で離れるなよ。灯りをしっかり握って、声をかけあっていくんだ。ビハーバ」

「おう」

「お前の組とマハリの組とで、ウパ島を経由してブージャ国へ入れ。それからディーバとニッタはリピーナ国とラサ国へ入れ」

「了解」

複数の男たちが老人の指示に頷く。

城下の街、噴水広場に集まった男たちは長い飢えと疲労に痩せ衰えてはいたものの、どの顔も明るく、決意を漲らせていた。女達は食べられるものを掻き集め、旅立つ男たちのために台所で奮闘していた。子供達は母親の手伝いをしながら、広場のほうを覗き見たりしている。

「取引の材料は持ったか? 潮にやられそうなものは油紙につつんでおけよ。皇子のお心を無駄にするな」

バルの隣に立っていた老人のひとりが声をあげる。


 海に囲まれたローブミンドラは、どの国へ行くにしても船が必要だった。そして、食料とひきかえにする金品も。

なにやら考え込んでいたターガナーダは、峰牙とともにしばらく姿を消し、大袋に詰め込んだ穀類・魚肉の乾物と、砂金袋や反物、装飾品などを背負って現れた。

バルたちは皇子が城の中からこういった金品を持ってきたのだと思ったようだが、パドマバラの目は誤魔化せなかった。

渋い表情(かお)をした武官長に、ターガナーダは苦笑して言った。

「衣装を取りに戻ったついでに、私の部屋のものを持ってきただけだ。心配するな。女王陛下は何も仰らぬ」

干物をこんな大袋に詰め込んで私室に置いているのかと喉元まで出かかったが、賢明にも武官長は口をつぐんだままだった。

それから、皇子はパドマバラとバルを伴い沿岸部の船乗りを訪れた。船は長く使われていなかったため大半が使えなかったが、それでもいくつかは対岸の国へ渡るに十分なものがあった。


 広場の活気は、日のささぬ闇の中にうずくまっていた人々を立たせ、いまや、彼らを取り巻くようにあちこちから住民達が集まってきた。

「では、出発しよう!」

ビハーバが景気よく手をあげた。「おう!」 男たちは声をあげ、意気揚揚と歩き出す。

不安がないわけではない。皇子自身から、これはそう簡単なことではないときつく言われてもいる。命を落とす危険性も大いにある。

だが、長い間、どうすることもできずうずくまるだけだった日々を思えば、たとえ困難な旅になろうとも灯された明かりに向かって進むことは、体の奥から力が湧いてくるような気がした。


 

 

 皇子の帰還はあっという間に城中に知れ渡り、先の見えない不安に押しつぶされそうになっていた官吏たちは、議会が開かれている大広間に集まり始めた。

扉を開け放していたため、皇子をひと目見ようと、戸口は押し合いへしあいしている。

鬱屈した人々の目に映ったのは、天上から舞い降りた男神の姿だった。豪奢な異国の着物に包まれた長身、白面の美貌、低い玲瓏たる声―――ローブインバラより降臨せし小王。

対峙しているのは、すでに苦悶の表情が素顔のようになってしまった執政官たち。

若く、行く場所もない官吏たちは耳をすませ、皇子の言葉を聞きとろうとした。それまで、執政官の言葉を聞いていた皇子が、鋭い怒声をあげた。

「子供が笑わぬ今のこの国の、どこに未来があるというのだ! 己らがさんざん食い荒らしたこの国のどこに!!」

その激しさに、執政官たちは無論のこと、戸口で押し合いへしあいしていた官吏たちもが飛び上がった。

ターガナーダを包むように現れた白炎のような光。爛爛と輝く青銀の目には明らかな怒気が浮かび上がって、人々を鋭く射抜いた。

「……お前達が治めてきたと信じるこの国の民が、今どんな姿をしているか、実際に見て来た者はいるか? ……いないのか。そうだろうな。見ていれば、いまにも腐り落ちようとしているものを、そのまま残すなどという科白が出てくることはあるまい。……いい機会だ。お前たち、民に混じってしばらく城下で暮らしてくるがいい」

貴族であること、国の中枢にいること、その他諸々の誇りと驕りにまみれていた執政官たちにとっては、極刑の宣告にも等しい皇子の言葉に、声を失い呆然と立ちつくした。

誰もが自失の態で目の前の美しい青年を凝視するなか、戸口が騒がしくなった。

「ちょっと、すみません! そこをどいて!」

人だかりの奥から声があがり、それらを掻き分け転げるように現れたのは十四、五の少年だった。

「……っ! ヴィシャーヤ! なぜ来た!」

初老の執政官が咎めるような声をあげた。少年は父親に反発するような目を向け、そして後ろを振り返る。

ヴィシャーヤに続くように広間に入ってきた少年達は、少年の一歩後ろに立ち並んだ。

他の執政官たちも、驚愕したようにかれの息子の名を呼び、広間から追い出そうと足を踏み出しかけたが、ヴィシャーヤは片手をあげてそれらを制した。

くるりとターガナーダに向き直る。

「ターガナーダ殿下」

少年達は一斉に跪き、頭を垂れた。

「お初にお目にかかります。我等はそこにおわす不肖執政官どもの子弟にございます! 咎は父母だけにあるのではありません。我等は……王を諌めるどころか、父母でさえ諌めることができませんでした。城下には、どうか、我らをお連れください! 伏して、お願い申し上げます!」

「お願い申し上げます!」

ヴィシャーヤの言葉に、少年達が一斉に唱和した。

ターガナーダは表情を動かすこともなく、冷たい光を瞳にやどしたまま少年達を見やっていたが、

「……親の罪を子が背負うか。いいだろう。とくとその目で確かめてくるがいい。パドマバラ、連れて行け」

「は!」

「そんな……っ! お待ちください! 息子は……っ!」

執政官たちは狼狽し、皇子につかみかかろうとしたところをパドマバラの部下に押し止められた。

武官長に連れられ、少年達は父親を振り返ることもなく広間を出て行った。

呆然としたようにそれらを見送っていた官吏たちは、皇子の眼光に射すくめられすごすごと立ち去るものが大半だったが、一人がまろび出て低頭し、震えながら声をあげた。

「皇子殿下! お、お許しください! わたくしも……わたくしもお役に立ちとうございます!」

それから、堰を切ったように、我も我もと名乗り出てくる官吏たちに、いささか閉口したような表情をみせた皇子だったが、切りがないと判断したのか手をあげて人々を制した。

「国を思う、そなたらの気持ちはよくわかった。ここにいる執政官らも痛感していることだろう」

やや皮肉げな口調に、執政官たちは気まずそうな顔をしたものの、反論するものは誰一人いなかった。ターガナーダは平伏している官吏たちから執政官らへ視線を移すと、口調をあらためた。

「私は、国王権限を委譲されているとはいえ、それもいっときのことだ。国が落ち着いたら……」

「それにはおよびませぬ」

突然、凛とした声が割って入った。

広間にいたものすべてが、声の主に集中した。

「……侍従長……」

ターガナーダは鶴のような細い首の老人を見て呟いた。

侍従長――この老人こそ、国王マルタの幼少時より側に仕えてきた、裏方の実力者である。

「国王代理者マルタ様より、真王・小王陛下ターガナーダ様へ、すべての権限を返上つかまつる(よし)、こちらに書状を承ってございます」

老人は淡々と進上すると、書状をターガナーダに差し出した。


 寝台の上で服毒し、絶命している国王代理が発見されたのは、翌日のことだった。




 武官長と数人の兵に連れられ城を出た少年達は、城から離れる一歩ごとに不安の色を浮かべていた。ひとり、ヴィシャーヤは口を一文字に引き結んだまま、毅然として歩いていた。

死に絶えたような街――すすり泣きと、呻き声があちこちから聞こえ、時おり、恨みの声が少年達の肩を震わせた。

だが、噴水の湧き出る広場に入ると、濃霧の向こうからわずかに明るい雰囲気の声が聞こえてきた。

足音を聞きつけたのだろう、霧の向こうから鋭い誰何の声があがった。

「わしだ。パドマバラだ。船出した男手の代わりを連れて来たぞ」

気軽な声に、「えっ」 と武官長を見やったのも束の間、霧の向こうから大勢の人々が現れた。

「ほほう。五人も……。どちらの子弟ですかな」

バルは深い色の目で少年達を眺め、笑いながら武官長に問うた。

「この先、この国を背負っていかねばならん人材だが、ずっと部屋に閉じこもっておったようだからの。体力を持て余しておるだろ。こき使ってやれ」

パドマバラはそう言って呵呵大笑した。

「パドのおじちゃま!」

霧の向こうから幼い声が聞こえ、パドマバラめがけてまっしぐらに駆けてきた。

「おお、ナーカスリ! 母の具合はどうだ」

「今日はなんだか、嬉しそうよ! あの。おじちゃま。皇子様は? 今日はいらっしゃらないの?」

少女は武官長の腕の上できょろきょろと辺りを見回した。

「うむ。皇子はお忙しくてな。今は城にいらっしゃる。もう少し落ち着いたら来て下さるだろう」

しょんぼりした様子の少女に、武官長は困ったような、やさしい微笑を向けた。

少年達はそのやりとりに目を丸くして眺めているだけだった。


 少年達に割り当てられた家は、バルの家の斜向かいの空家だった。カビを掃除するところからはじめ、大騒ぎしてなんとか住めるような形になったのは数時間後のことだった。

空腹を訴えてくる腹を抱えて、その日は眠った。

翌朝、バルから五人に仕事が割り振られた。皇子が城から持ってきた干物をほんの少し分けてもらい、それぞれ指示された家に向かった。雨漏りの修理、壁穴の修復、掃除などなど、女子供に混じって働いた。空腹と慣れない作業に倒れる者も出た。

このあたりの住民たちは、少年達を温かく迎えてくれたが、少し離れると、まるで仇のような目をして罵倒するものがほとんどだった。その中には子供を失ったものも大勢いた。

ヴィシャーヤは暇を見つけては、家を抜け出し、街を歩き回った。

その夜も歩き回って、広場まで戻って来たヴィシャーヤは水を飲み、噴水のへりに腰掛けた。ふと、いつもより明るいことに気がつき上を見上げると、珍しく霧が薄れて淡い月光が降り注ぐように落ちていた。

「……月……」

ヴィシャーヤは呟き、仲間にも見せようと立ち上がったとき、小さな少女が椀を抱えて立っているのに気がついた。

「きみは……たしか、ナーカスリ」

ヴィシャーヤは呟いた。

少女はうん、と頷いた。

「……今日は、なんでこんなに明るいのかしら……?」

「月だよ。ほら、あそこ」

「月……? 月ってなあに?」

少女の言葉に笑いかけたヴィシャーヤは、突然、衝撃を受けたようにナーカスリを見つめた。

五つか、六つの少女は、月を知らないのだ。これはものを知らないのとはわけが違う。

生まれてから、月を見たことがないのだ!

ヴィシャーヤとて、丸い黄金の月を見たのはいつだったろう? まだこんな霧に覆われていなかった頃、父と母とテラスに並んで見上げたのは………

この国は、そんなにも長く霧に閉ざされているのだ……

「……空の上には、昼には太陽があって、夜には月がある。今日は少し霧が薄れたんだね……ぼんやりとだけど、月が見えるね。太陽も……姿は見えないけどね、朝になると明るくなるだろう? 太陽が霧の向こうから照らしてくれてるからなんだよ」

少女はこの話にひどく驚いたようだった。霧の向こうに何かが浮かんでいるとは夢にも思わなかったのだろう。

「霧がなくなると、太陽と月が見えるの?」

「うん」

「霧はいつなくなるの?」

少女の言葉に少年はぐっと詰まった。それは少年の方こそ知りたいことだった。

そのとき、脳裏に浮かんだのは、まるで神話の世界から抜け出たような皇子の姿だった。

「……いつか、きっと晴れるよ。ターガナーダ殿下が戻ってきてくださったから……」

苦しまぎれの言葉だったかもしれない。

しかし、少女は嬉しそうに笑うと、おもむろに手を差し出した。

「これ、あげる。お兄ちゃん、ずっと食べてなかったでしょ? わたし、見てたんだよ」

ナーカスリは、今日もらったばかりの魚の干物の半分を少年に手渡すと薄い霧の中を駆けていった。

ヴィシャーヤは礼も口に出せないまま少女を見送り、もらった干物をかじった。

少年の目から熱いものが吹きこぼれてきた。

今まで食べたどんなものよりも、美味いと思った。




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