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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【霧の国〔壱〕】

 「なに、物は言いようでございますぞ、皇子」

ターガナーダが、城下の民が彼の名を知っていたことに触れると、パドマバラはいけしゃあしゃあと言い放った。

現国王、神官らに対して不信を隠そうともしなくなった民を納得させるには、真の王が存在することをしらしめなくてはならなかった。武官長を昔から知る人々の助けを借りながら、少しずつ民を落ち着かせてきてはいるが、まだまだ大半の者は為政者への呪いを吐きながら家の中でうずくまっているのだ。

 現国王は私室に軟禁、神官長は牢へ放り込まれている。

「あんなろくでもないものを城下に放てば、迷惑するのは街の人間ですからな。地下牢でないだけましでしょう」

とは、武官長の言葉だ。

国外へ亡命した貴族王族も続出し、城の中には一握りの官僚と大半の官吏たちが残されていた。

「……残っている者の中で現国王を支持するものはどのくらいだ?」

ターガナーダの問いにパドマバラは即座に応えた。

「おりません」

「……本当にそうか? よく考えてくれ。それぞれの日ごろの言動がどんなものであったか、どういった場合にどういった反応を示すのか。それと残っている人々の……そうだな、今は主要人物たちだけでいいが、彼らの人柄と経歴が知りたい」

パドマバラは目をぱちくりさせた。

「……皇子。お言葉ですが、今は城にいる人間のことを考えても仕方ありませんぞ」

「そうじゃありませんよ。閣下は城に乗り込むおつもりなんですよ」

突然、割って入った声に、パドマバラは初めてターガナーダの後ろに立つ巨漢に気がついた。

「なんだ、お前は?」

「お初にお目にかかります。峰牙と申しまして、閣下の副官を務めております」

パドマバラの猛禽のような鋭い目で睨まれてもへいちゃらな様子で、峰牙はにこりと人懐こい笑みを浮かべて軽く一礼してみせた。

「無作法な真似をして申し訳ありませんが、一刻を争うなら、アタマを押さえてやったほうが効率がいいと、俺も思いますね」

峰牙の言葉にターガナーダは頷いた。

「パドマバラ、これは私の副官でもあるが、友人でもある。私も彼と同意見だ。……残っている官僚たちの人柄と経歴を訊いたのは、これからやることに大きく関わってくるからだ」

気に入らない様子で峰牙を睨みつけていた武官長は、皇子の言葉に向き直った。

「やること……?」

「うむ。貿易だ」




 その日の朝、重苦しい表情で議会に集まっていた人々に落雷のごとき衝撃が走った。

「も、申し上げます! ただいま水華蓮国よりターガナーダ皇子殿下がご帰国になられましたっ!」

「なんだと!?」

テーブルについていた執政官たちは総立ちになり、扉の前で平伏している下官を注視した。

 いまや、この城に居るすべての人間が、国王がひた隠しに隠してきた事――ターガナーダがローブインバラより降臨した『真王』であることを知っている。

無論、皇子が水華蓮の次期宰相として名指しされたとき、その場に居合わせた人々は密かに疑ったのだ。王を。――その、疑いの種を胸の底に落としたまま年月が過ぎ……おそらく平和なままであれば、その種は芽吹くこともなく、皇子の存在も忘れ去られていたことだろう。

 彼らは互いに顔を見合わせ、そして現段階において人々のまとめ役となっている初老の男に視線を向けた。

「ターガナーダ皇子殿下、おなりでございます!」

先触れの後、ほどなく、供ひとりを連れた長身の青年が颯爽と入ってきた。

「―――っ」

人々は声もなく、美しい青年を見つめた。

星空を思わせる群青の髪、青銀の瞳には強い光が宿り、均整のとれた長身には光沢のある銀色に地紋の竜が躍る長袍。肩から掛けられた羽織は、豪奢な刺繍がほどこされ蒼い光沢を放っている。

ひっそりと後ろに立つ守護神のような男もまた、宰相の供にふさわしく、地味な色合いながら上等な絹の長袍を纏っていた。

それは、彼らに水華蓮という異界の国の豊かさを、否応なしに見せつけるものだった。

「……皇子……なぜ、お戻りに……」

「先刻、国王代理マルタとの会見をすませてきた」

誰かが洩らした呟きに、さらりと告げられた言葉は議会の面々を驚愕させた。

マルタとは現ローブミンドラ王国第六二代国王の名である。

「なんと……!」

「国王権限の委譲を受けた。よって国王の名で諸国に書状を送り正式に貿易を開始する」

「なんですと!?」

一斉にあがった抗議の声を、ターガナーダは手を上げて制した。

「尤も、他国がこの国と同様であれば、貿易などしている暇はあるまい。我が国がもっとも必要としているのが食料なのと同じようにな」

苦々しげに口をつぐんだ人々だったが、初老の男が声をあげた。

「皇子殿下。仰ることはもっともでございます。ですが、我が国は諸外国と誼を結ぶことをよしとしません。我が国は……」

「なぜだ?」

ターガナーダの問いに、男は一瞬なにを訊かれたのかわからないという表情(かお)をした。

「なぜ、諸外国と誼を結べぬ?」

「それは、皇子ご自身がもっともよくご存知のはずです。はじめの竜王に従う小王陛下であれば……」

「おかしなこと言う。私が小王であることと、貿易ができぬことになんの関係があるのだ?」

ふいを突かれたような顔をした面々を、ターガナーダは静かな目で見渡した。

内心、深い溜息をついた彼は、永きにわたって受け継がれてきたこの弊害を苦々しく思った。

 先刻あったマルタはターガナーダを見るなり、悲鳴をあげて寝台に逃げ隠れるような有り様で、口からでるのは竜王へ許しを請う言葉ばかりだった。国政に対する矜持など一つも持たず、ひたすらに玉座にしがみつく国王と、それに群がる執政官ら……

(水華蓮にいる腐れ官吏のほうが、己の力量に誇りを持っているだけまだマシというものだ)

「……そなたらの中で、数日ものを食べていない者はいるか?」

不意に、ターガナーダは執政官たちに問い掛けた。だが、誰一人として口を開くものも、名乗り出るものもいなかった。

それはそうだろう。ターガナーダが見る限り、現状に苦悶するような顔をしていても、飢えているような者は一人も見当たらなかったのだから。

彼は戸口にひっそりと立つ武官長を一瞬だけ見やり、言葉を継いだ。

「……そなたらの口に入る食料は穀倉からくるな? では、その穀倉の中身はどこから来ていたのだ? ……答えよ」

皇子の厳しい口調に人々は思わず肩を震わせ、そして先刻の初老の男が答えた。

「五穀はマドリー、バース、アシンタの三州から、野菜や果物、魚肉は各州、まちまちではございますが、一定量が流通しておりました」

「現在は?」

「……すべて、止まっております」

「では、そなたらは穀倉が空になれば、それまでと思うていたわけだな? そなたらが自身のことをどのように扱おうが、それはそなたらの勝手だ。好きにすればよい。だが……一つ聞くが、そなたらの誰に民の命までも左右する権利があるのだ? ――この二千年ほどのあいだ、人の子らによって継がれてきた玉座といういうものの結末がこれか。私の帰還が気に入らなければ、何ゆえもっと早くに対処しなかったのか。この責任は誰にあるのだ」

爛々と輝く青銀の目に射すくめられ、目を泳がせた人々は、今はだれも座っていない玉座へと視線を集約していった。ターガナーダはそれをじっと観察し、次いで、くすりと冷笑を洩らした。

「……責任は王にあるか。至極当然だな。では、お前達は何のためにある。この城の中でタダ飯を喰ろうて肥え太ってきただけか」

あまりの言葉にさきの執政官が顔をあげ、声を震わせた。

「お待ちください! いかに……いかに皇子といえどもお言葉がすぎましょう……! 我等とて、すき好んで国を荒らしたわけではございませぬ! 王のため国のために働いてきたという矜持は、ここにいる者どもすべて、少なからず持っております! かつて王をお諌めする者が居なかったわけではございませぬ。わたくしとて、幾度となく……ですが、王は日を追うごと、年を追うごとに変わってしまわれた……王をお諌めした者はその場で切って捨てられ………」

「……そのうち誰も王に逆らえなくなったというのだな」

「……そのとうりでございます」

彼は声を震わせ、口を引き結んだ。

対するターガナーダは、水華蓮での異名のままに……それ以上に、冷たい無表情を彼に向け、凍えそうなほどの冷気を伴った言葉を発した。

「それほどに己の命が惜しいか」

「……惜しゅうございます……! このような身なれど、わたくしには妻子がおります。わたくしだけではなく、ここに居るすべての者がそうでございます! 己ひとりならばともかく、守らねばならぬ者がいるのに無駄に命を捨てる者がどこにおりましょう! ……皇子には、守りたい者がおりませぬのか……? ご自分が命を失えば、その者たちがどうなるのかと、お心を痛めたりはしませぬのか……? それとも、ローブインバラより生まれし真王には、このような人の心など愚かと申しますか!」

初老の執政官は半ば怒りをもって、皇子を睨み据えた。ターガナーダは冴え冴えと光る瞳でそれを受け止め、しばらく執政官たちを眺めていたが、

「……私が守りたいと思った者は、その者が守りたいと思った者を助けるために自ら暗黒世界へと旅立った。……私も命が惜しければこんなところへ戻って来たりはせぬ。そして、民もまた、お前達のように誰かのために死ねぬと思っているだろう。その誰かが、妻子でなくとも、主人であったり親であったりするのだろう……」

ターガナーダの静かな声に、執政官らは息を飲み、項垂れた。彼はついと視線を窓に向け、濃い霧の向こうを見透かすように呟いた。

「……私がその者のために生きたいと思うのは、その者にとって何か力になりたいと思うからだ。私が死んだからといって、その者がこれから先、生きてはいけないのだと決めつけることは、その者の人生を侮辱するように思える」





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