【帰還〔参〕】
ターガナーダの歩みは、当然、峰牙には意味不明のものに映った。右へ曲がったかと思えば左に曲がる。気付けば、同じ場所に戻っており、今度は別の道に入るという……。何度かそういったことを繰り返していくうちに、峰牙にも漠然とではあるが、街のつくりが掴めてきた。
皇子が起点にしているこの場所は、幾つもの路地の交差点になっているのだ。真ん中には小さな噴水が設けられ、死んだような町の中でそれだけが躍動している。かつてはこの水場を中心に、人々が憩っていたであろうことがうかがえ、返って寒々しい心地を覚えるのだった。
そうして、ターガナーダの足が別の路地に向きかけたとき、霧の中から小さな足音が聞こえた。思わず身構えた峰牙を目で制しておいて、彼は噴水の傍にひっそりと佇んだ。
現れたのは小さなやせ細った女の子だった。両手に持った椀に噴水の水を汲んでいる。ふと顔をあげた少女は、やっと二人の青年に気付いたらしく、びくんと大きく身体を震わせ、椀を噴水の中に落としてしまった。
「怖がらなくていい。私はターガナーダという。お前は近所の子か?」
恐怖に身を縮ませていた少女は、静かな声の青年をこわごわと見上げ、頷いた。彼はかぶっていたフードを払いのけると、ぷかぷかと浮いている椀を拾い上げ、落ちてくる水をそれへたたえた。
「父御か母御が病気なのか? 街の長老に会いたいのだが、どこにいるか知らないか?」
水の入った椀を手渡してやりながら訊くと、
「……お母さんが病気なの。長老って、バル爺のこと?」
「そうだ」
「……お兄さんたちは悪い人?」
あどけない言葉が返ってきた。思わず笑みを洩らしたターガナーダは首を傾げる。
「さて。私が悪いヒトかどうかは、見る者によって違うな。お前にはどう見える?」
「……悪い人には見えないけど、ほんとにいい人なのかはわからないわ……」
「それはそうだ。では、そのバル爺に判定してもらうのも、一つの手だと思わないか?」
青年の言葉に、少女は気難しげな顔で考え込んだ。
「……バル爺をぶったりしないって約束してくれるなら、バル爺のとこにつれてったげるよ」
「約束しよう」
頷いた青年を見上げ、少女ははじめてにっこりと笑った。
入り組んだ路地を入っていく。もう何度も行き来しているのだろう、少女は躊躇することもなく霧の中を歩き、家に辿りついた。
石造りの玄関は筵を垂らしただけの簡単なもので、中は薄暗かった。少しかび臭いにおいが鼻をつく。
「おかあさん、お水だよ」
少女が椀を捧げて入って行くと、寝台から起き上がる衣擦れの音がした。
「ありがとう、ナーカスリ」
母親は水を飲むと、少女に微笑む。ふと、戸口に立ったままの青年に気付き、一瞬身体を強張らせた。
「……あなたがたは……?」
「この人たち、バル爺に会いたいんだって」
「バル様に……?」
怪訝そうに呟いた母親に、ターガナーダは静かに声をかけた。
「騒がせて申し訳ない。私はターガナーダという。帰国したばかりで詳しい状況が訊きたいのだが、長老宅を教えていただけまいか」
「……ターガ……? ……っ! 皇子様……っ!?」
母親は大きく息を吸い込み、慌てて寝台から降りようとした。彼は手をあげて押し止めると、怪訝そうに訊いた。
「私を知っているのか……?」
「はい。先日、食べ物を分けてくださった方が、この国を救うためにもうじき皇子がお戻りになるからと……」
「……ちょっと、まて……。それは、いかつい顔をした武人だったか……?」
「はい。パドマバラ様とおっしゃいました」
母親の言葉に、ターガナーダは思わず頭を抱えた。
あの武官長は城の穀倉を開け放ち、民への分配の道すがら、彼のことを吹聴して回ったのだろう。こうなると、このあたりの人間はほとんど、自分のことを知っていることになる。
「……あの男は……私が霧を払う魔法でも持って帰るとでも思ってるんじゃないだろうな……」
うめくように呟いた言葉が耳に届いたのだろう。少女の母親は鈴を振ったように笑った。
「おほほ……まさか、そのようなことは……。それでも、皆、皇子が我らを救うためにお戻りくださると知って、生きる勇気がわきました。ばらばらだった住民達は、寄り集まって今後どうしていくかを考えるようになりました」
母親はおもむろに寝台から降り、冷たい床の上に頭をすりつけた。
「……皇子、どうかローブミンドラの民をお救いください。今も多くの子供達が命を失っております。どうか、我らをお助けください。どうか……!」
ターガナーダは慌てて彼女を起こすと、言葉を選びながら言った。
「……子供の前でそんなことをするものではない。……私も、この現状だけは何とかしたいと思っている。この霧の中でどうすれば生きていけるのか、それを考えるために来たのだ」
街の長老的存在とみなされているバルの家は、少女の家からほんの二軒先にあった。
顔なじみの少女だけが先に中へ入り、青年二人は玄関先で待つことにした。
「……閣下。一つよろしいですか」
「なんだ」
「確かにここは悲惨な現状ですが、なんだってこんなに物がないんです? よその国からの流通はないんですか?」
副官の言に、ターガナーダは頷いた。
「そこが水華蓮とは違うところだ。この国は長く閉鎖的だった。幸い、自国の人間が食べて暮らしていけるくらいには、豊かだったのも要因の一つだが。それよりも、王城の連中の中にあったのは下らない矜持だということだな」
「……下らない矜持……? まさか、竜王降臨の地だからとか言うんじゃないでしょうな?」
「そのまさかだ。竜王の国の民は他国の手を借りぬ、一切の干渉を拒む、ということだな」
「物流と内政不干渉は別問題でしょうが。……呆れてものも言えませんな」
「同感だ。……だが、町民の域までくるとどうかな」
「……お上の意向を無視して商売していると……?」
副官の言葉に、ターガナーダは頷いてみせた。
無論、本来ならこんなことがばれれば厳罰ものである。だが、事いまに至っては、外国の物資に頼るしかないのだ。また、それは無茶なことではない。国内流通がスムーズに流れるよう設計された都市は、既に、国が管理する網の目をかいくぐって外国の物が流れ込んでいた。例えば、一般的によく食卓にのぼる魚が、実はローブミンドラでは捕れないものだと知っている人間が何人いるだろう。こういう事例はあちこちに転がっているのだ。そうやってこの国の人々は、昔から他国との交渉を持ってきたのである。
だが、峰牙が言うように、今はそれも途絶えてしまったらしい。正常に取引できなければ、外国の商人も手を出さなくなるのはいたしかたない。これを復活させなければならないのだが――他国はどういう状況なのか、が問題なのだ。近隣諸国がすべて霧に包まれていれば、ローブミンドラのみならず、他国も汲々としているだろう。そうなればまた別の方法を考えなければならないのだ。
しばらくして、家の中から老人が現れた。
頭のところだけ穴をあけ、すっぽりかぶったような裾の長い衣に、肩から幅広の布を前後に垂らして、そのうえから帯を巻くというローブミンドラ特有の衣を纏った老人は、炯炯と光る目を二人の青年に向けた。
「お初にお目にかかる。私はターガナーダという。これは友人の峰牙。バル殿にお目にかかりたい」
「わたくしがバルでございます、皇子殿下。……よく、お戻りくだされた。パドマバラ武官長も、お喜びになるでしょう。さ、どうぞ中へ」
バルは二人を奥へ招いた。そして中庭を突っ切って向かいの建物に導く。迷路のように枝分かれした中を歩くことしばし、ある部屋の前で立ち止まった。
「パドマバラ様、お客人がお見えですぞ」
バルの言葉に、奥から「おう」という返事が聞こえた。
入ってきた青年をみて、寝台に上体を起こしていた男は素っ頓狂な声をあげた。
「皇子! やっとお戻りくだされたか! 待ちくたびれましたぞ!!」
怒ったような口調とは裏腹に、いかつい顔は嬉しさに真っ赤になっている。大急ぎで寝台から降りようとした男を制し、ターガナーダは苦笑を洩らした。
「久しぶりだな。元気かと言いたいところだが……切られたのか? 昨夜、バーダバグニがおぬしが戻らぬと心配していたぞ」
「いや、面目ない……。油断してしまいましてな」
パドマバラはいかつい顔を照れくさそうにゆがめた。
ターガナーダの記憶にある彼は、頑丈を絵に描いたような人物であった。だが、いまその顔には深い皺が刻み込まれ、疲労も色濃く、大きな手も骨が浮き上がるまでに痩せている。
人一倍義侠心が篤く、面倒見がいい人柄ゆえ、己の身体や食事のことなど考えてもいなかったのだろう。――そうでなければ、毎夜、不遇の皇子の脱走を手伝い、武術鍛錬や処世術などを教え込んだりはすまい。
ターガナーダにとってこの国は、決していい国ではなかった。だが、師父として慕う人間も確かに存在する。あの当時は己のことで精一杯で、恩を受けた人々を顧みることもできなかった。
いまなら――。
ターガナーダは師父の、その痩せた肩に手をおいた。
「……遅くなってすまなかった、パドマバラ。時間が惜しい。ここのところの状況を教えてくれ」