【帰還〔弐〕】
夜明け近く――もっとも、この地下に居ては空が白み始めたこともわからなかったが――椅子に座ったまま眠っていたターガナーダと峰牙は同時に目を開いた。
「……閣下……」
「……うむ」
腹心の友に頷いてみせたターガナーダは、外套を持って立ち上がった。一方、まんじりともできずにいたバーダバグニは、いきなり立ち上がった青年達を怪訝に見上げた。
「皇子、いかがなさいましたか……?」
「外が騒がしい。見てくる」
「俺も」
バーダバグニは驚き、耳を澄ましたが何も聞こえてこない。何か言いかけるより早く、ターガナーダは上階へ上がりかけていた。
「皇子!」
「バーダバグニはここで待っていてくれ。遅くとも夜には戻る。危なくなったら構わず身を隠せ。私のことは心配ない」
「俺もついてますんで、ご心配なく」
そう言って青年達はさっさと上へあがっていってしまった。
半ば呆然としたように立ち竦んでいたバーダバグニだったが、やがて小さく苦笑を洩らした。
「……若い方は逞しい……。私も年をとったかな……?」
昨晩、戻らないパドマバラを心配し、霧の中を出て行こうとした彼を引きとめたのはターガナーダだった。
パドマバラの身になにかあったのか、あるいは急用で来れなかったのか判らぬ状態で、下手に動いては返って危険だと。それにパドマバラは武人である。そう簡単に後ろをとられたりはすまい、と。
そうして、どっかりと腰を据えた皇子とその副官は、しばらくして寝息をたてはじめたのである。
今のところ安全な場所とはいえ、いつ蹴破られるかわからないほど危険な状況で、よくも眠れるものだと呆れたりもしたが、なるほど、眠れるときに眠っておかねば、いざというとき体が利かないだろう。
剣を抱いたまま目を閉じている二人の青年を眺め、バーダバグニは苦笑を洩らした。
(……ほんに、逞しゅうなられましたな……)
前回会ったときよりも、更にふてぶてしいほどの落ち着きを見せている皇子だったが、おそらく、傍らにいる男の存在も大きいのだろう。そして、それだけではない何かが、皇子の中に在るようだった。
―――この国には、皇子のお力が必要なのだ
いかつい顔に深い決意をこめて呟いた友の顔が脳裏に浮かぶ。
「……ええ、そうですとも、パドマバラ。我々には、皇子が必要なのです……真の王が」
バーダバグニは祈るように目を閉じた。
夜が明けたとはいえ、相変わらず濃霧がたちこめている。数歩先も見えない白い闇のなかを、二人の青年は驚くべき速さで移動していった。無論、先導するのはターガナーダである。
(俺の上官は千里眼でも持ってるらしいぞ……)
峰牙は自分よりほんの少し低い青年の背中を見て呟いた。
昨日もそうだったが、どういうわけか、ターガナーダは闇の中でも霧の中でもいっこうに支障がないらしい。足音をさせずに歩いているが、その足取りに迷いはなく、時おり遠くを見透かすような目をして立ち止まるほかは淡々と歩みを進めていた。
そして、その足が止まる。
霧の向こうから言い争う声や、罵倒する声が響いてきた。
「もう少し、近づいてみよう」
ターガナーダはごく低く、峰牙に告げると、静かに城門近くの木の陰に身をひそませた。
「いつまで待たせるつもりだ!」
「早く穀倉を開けろ!」
「うるさい! 陛下のご決定を待て!」
「真王を追い出し、玉座を簒奪しておいてなにが陛下だっ! 我等に真の王を返せ! 偽の王など、この国から出て行けっ!」
「そうだそうだ!」
「出て行け! 王を返せ!」
霧に見え隠れする人影を注視しながら、少しずつ後退していったターガナーダは、しばらく考え込んだ。
「……なかなか人気者ですな、閣下」
呆れ半分、からかい半分に言った峰牙だったが、ターガナーダのほうはにこりともせずに首を振った。
「民が王の真偽を量れるはずがない……。この二千年のあいだにこの国の神話は塗り替えられてきたはずだ。ましてや、数百年間ウバラさえ花開かなかったのだからな。……どうも、裏で糸を引く者がいるようだな。なんの目的かは知らぬが、楽観するのは危険か……」
独言のような呟きに峰牙は首を捻った。
「……仰る意味がわかりませんが……」
怪訝そうな顔の副官を、不可思議な色の目で見つめていたターガナーダだったが、一つ頷くと着いてくるよう合図した。
「――――見せてやろう」
城門を離れ、しばらく森の中を歩いていく。
この深い霧のせいで落ち葉は多分に水を含み、ぐずぐずとした感触がある。日がささぬゆえ立ち枯れた木も多く、下生えの植物さえ育っていない。
「……峰牙、足元に気をつけろ」
ふいに、ターガナーダが低く声をかけてきた。
霧の中とてよく見えなかったが、確かに先刻から足元がぬかるんできている。それに、この臭い…………
「閣下、ここは沼かなんかあるんですか……? しかし、ものすごい臭いですな」
峰牙が顔をしかめたのも無理はない。漂っている霧は何ともいえぬ生臭さを含んで、何年も沈殿しているように思えた。
「池だ。……ここは私が生まれた場所だ」
わずかの沈黙の後、ターガナーダが言った。微苦笑を含んだような声音に、峰牙は思わず目を凝らす。
ふわりと流れた霧の中から現れた秀麗な横顔が、真っ直ぐ池の中央に向けられていた。
「生まれたって……ん? なんか生えてますな……? 蓮……?」
目を眇めて呟いた峰牙に、ターガナーダは頷いた。
「ローブインバラ……青蓮華だ。……しかし、ひどい臭いだな。年を追うごとに池も濁っているようだ」
言われて水面に目を落とせば、澱み、どす黒く濁った水が横たわるようにしてあった。
「……行こう。時間が惜しい」
踵を返したターガナーダの後についていきながら、峰牙は池を振り返った。
腐臭の漂う黒い泥水の中から、すっくと伸びた大きな蓮の葉は青々とした輝きを放ち、まるでそこだけが別世界のように清澄な光に包まれているようで――その光景は、不思議な感慨をもって峰牙の脳裏に焼きついたのだった。
ターガナーダは、まず城下の街を見たいと言った。
昨晩、バーダバグニからごく簡単に現状を聞いてはいたが、武官長が謀反を起こすほどならば、事態は考えているよりも最悪に近いのではないか。穀倉を開けるごとに派閥争いが生じれば、その分だけ食料の配給が遅れる。業を煮やした武官長は文官たちを蹴散らして幾つかの穀倉を開けたらしいが、城の穀倉とて無尽蔵ではない。無制限にあけていけば、今度は城の中で暴動が起きるというようなことにもなりかねない。
霧さえ晴れれば、問題の半分は解決する。だが、いつ晴れるともしれぬそんなものをあてにしても仕方があるまい。現在ただいまの状態で、どこに活路を見出すべきなのか。
国全体が生産性を失っている今となっては、最悪の場合、どれかを切り捨てねばならないのだ……。
青蓮華の池からほど近い場所、藪の中に埋没している破れた城壁を潜り抜けて二人は城外へ出た。隣接している屋敷はひっそりと静まり返っている。屋敷だけではない。あたりはしんと静まり返って人っ子ひとり見当たらない。
二人は外套を目深にかぶり、石畳の道を歩きはじめた。
霧は深く、峰牙にはすぐそばの家の壁しか見えないが、時おり白い闇の中から聞こえる呻き声やすすり泣きが、彼をして、ぞっと背筋を震わせた。絶え間なく鼻をつく死臭。見えない怨念が渦巻き、沈殿している。
おそらく、この国全体を覆っている死の影――。
(……なんてこったい……)
こちらへ来て何度つぶやいたかわからない独白。彼は小さく溜息をついた。
暗黒世界の瘴気に晒されているとはいえ、ここまで酷くなる前にどうして誰も手を打とうとしなかったのだ。
今回の皇子の帰国要請は、国を憂う武官長と水華蓮前宰相によってなされた。とすれば、現国王の一派としては、皇子の帰国は迷惑以外のなにものでもないはずである。青慧が心配していたように、事ここに至っても、まだこの国の連中は皇子を亡き者にしようとするだろう。己の地位を手放せないが故に。
(こんなとこ、どうなったって自業自得だぜ。自分とこの不始末は、自分とこの能無し官吏に責任取らせろっつーの!)
考えれば考えるほど憤ろしくてむかむかする。だが、目前を歩く青年は淡々とした表情で街を視察し、黙々と歩みを進めていた。
この青年の境遇は、ごく簡単にではあるが聞いたことがある。その生い立ちのためか、あまり表情を出さないが、自分と同じように腹も立て、笑いもすることはよく知っている。今回のことも、おそらく前々から知っており、どうにか自分の中で折り合いをつけたのだろう……あの異邦の女がわざわざ死地へと赴いたことも、彼になんらかの決心をつけさせた原因であるかもしれない。
(それにしても、真面目だからなあ、俺の上官は……)
そんなこともひっくるめて、この青年がやることを見てみたいと思ったのだ。だからついて来た。
峰牙は、しょうがない、と内心で呟いてこっそり苦笑した。
お久しぶりです。
今回、ちょっと寒々しく暗いですが、どうかうちの子たちを応援してやってください^^;
しばらく霧の中を右往左往しそうですが、お付き合いいただければ幸いです。
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