【道を指すもの】
――たとえ、乗りたかった電車のドアが階段を駆け下りた瞬間に閉じられてしまっても、たとえそれが鼻先で閉まったとしても、こんなに虚しい気持ちにはならなかっただろう。
広い堂室はしんと静まりかえり、天井近くに設けられた大きな窓から見える空は夕暮れに紅く染まって室内の闇をいっそう濃くしている。
その闇に浸かるように呆然と佇んでいた異邦人は、その場にくずおれてしまうように思えた。
しかし、ぐらりと傾いだ身体を寸でのところで持ちこたえた女は、拳を筋が浮き上がるほどに握りしめ、しばらくのあいだ深くうな垂れていた。
ふーっと長い吐息が洩らされる。
「………天門開けず、だ……」
ぽつりと、苦味をともなった呟きが宰相の耳に届いた。
どんな意味があるのか彼にはわからなかった。だが、うつむき、きつく目を閉じていた白い横顔が再び闇の中に浮かび上がったとき、この異邦の女の中で小さな変化があったことは充分みてとれた。
あの、シュリーマデビイを預けられた謁見の間でもそうであったように。
毅い女だと思った。
「……ハナ、近衛の二人が言っていたように、この国には博士と呼ばれる仙がいる。ひょっとすれば、異界への帰り道をご存知かもしれぬ」
ごく静かな声音がハナに届く。
「……その方と、話せますか……?」
ゆっくりと振り向いた白い顔を見つめながら、男は頷いた。
「明日、博士のもとへ使いをやろう」
人間、どんなにショックを受けてもヘコんでも、腹はへる。
ハナは女王の心づくしの晩餐をありがたくいただいた。
瀟洒な造りのこの部屋は、女王の私室の一つらしい。
花鳥が描かれた天井と柱、やわらかな色合いの壁、玉の台座には花瓶が置かれている。窓は開け放たれており、涼しい夜風が時おり入ってくる。
ハナを気遣って、従事する女官が数人いるだけで、近衛兵も大臣らもその場にはいなかった。得体の知れない人間と食事するなど危険だという声もあったらしいが、女王は聞く耳を持たなかったようだ。
「――それで明日は、参謀長官殿が博士という方に使いを送って下さるそうです」
「そうですね…。博士ならばご存知かもしれません」
先刻の出来事を話すハナに、女王は頷いた。
彼女が言うには、どうやらこの世界はいくつかの次元の違う世界との交流があるらしい。
彼らのいう「博士」とはこの世界の住人ではなく、いわゆる仙界に住まう仙人だという。
如何なる理由があろうとも、仙界には不可侵の掟があり、それはこの世界のどの国でも暗黙の了解事項であるようだった。
つまり、簡単に言えば仙人というのは上の階層の住人なわけである。たとえ、女王が招来を懇願しようとも、彼らにその気がなければ突っぱねられてしまうということだ。
「……………」
一体、そんな人物が、城に落ちてきた異邦の女一人のためにわざわざ降臨する理由があるだろうか?
慈善団体じゃあるまいし ( 慈善団体とて、運営費というものが必要だろう ) 、メリットもないのに――いや、待て。もしも、自分のために仙人が来たとして、報酬の要求は自分にではなくこの国に向けられるのではないのか。
(……それって、ヤバくない? 恩を仇で返すってんじゃ……)
「ハナ、どうしました?」
食事の手を止め、深刻な顔で黙りこくってしまった異邦人に、女王は不思議そうに問うた。
「……っ」
ハナは意を決し、自分の懸念を話してみた。
女王は目を丸くし、次いで楽しそうな笑い声をあげた。
「そんな心配は無用ですよ、ハナ。少なくともお招きする博士に限っては――わたくしの、祖父のような方ですから」
「……はあ……」
きっぱりと一蹴されて何やら複雑な思いだったが、別のことを思い出し、このさい訊いてみることにした。
「あ、そうだ。女王様、一つお聞きしていいですか?」
「なんなりと」
「この子…シュリーマデビイは何を食べるんです?」
食事の間、ハナの肩で大人しくしている小さなドラゴンは、食べ物をねだるでもなく、まるで眠っているように動かなかった。
まさか霞や夜露を食べるわけでもあるまい。預かった以上、きちんと世話をせねばと思ったのだが……。
「実は、わたくしもよく知らないのです。その子の食べ物は宰相が用意していましたから。……だから、好物などは宰相に訊いてください」
女王はそう言って艶やかに微笑んだ。――その艶の中に意味深な響きがあったように感じたが、ハナの思い違いだったかもしれない。
女王が用意してくれた客間は、小さなアパートに暮らしていたハナには広すぎて落ち着かなかった――温泉浴場のような風呂場には大喜びしたが――。
しかし、めまぐるしい出来事に、さすがに参っていたらしい。毛布にくるまったとたん、深い眠りに落ちてしまった。
※
――いいか、ハナ。どんな状況に陥っても、だからこそ、膝をついたりするな。一度、膝を折れば立ち上がることは難しい。くじけてしまいそうなときほど、両足で踏ん張って立つんだ。
――兄さんはむずかしいことばっかり言う。
――言うのは難しくはないさ。本当に難しいのはそれを実践するときだ。
――それって、兄さんもそうだってこと?
――もちろんだ。
―― ……。ふうん。じゃあ、ハナもがんばる。
兄の、優しい笑顔。
※
――ハナ、従弟の竜樹くんよ。仲良くね。
――うん。公園で遊ぼうよ
女の子みたいに可愛い男の子。
でも、ときにハナをびっくりさせることを言った。
――ネコって高いとっからでも回転して降りるんだぜ
近所の悪ガキが、小さな子猫を大人の背丈くらいある公園の塀の上から落そうとした。それを見かけた竜樹は顔色を変え、彼らの中に怒鳴り込んで行った。
――やめろよ! ネコが死んじゃうだろ!
――なんだよ! ネコなんだから死ぬわけないだろ
――おとなのネコとは違うだろ! 今キミがやってることは、キミをあのビルから突き落とそうとしてるのと同じだ!
竜樹が指し示したのは公園のそばに建つ高層マンションだった。
人間の大人でもあの高さから落ちれば確実に死ぬだろう。
だが、竜樹の持ち出した例えは、悪ガキに少なからぬショックを与えたようだった。彼は手の中の小さな猫と、塀と、マンションを順々に見つめ、やがて、子猫を地に下ろすとプイと帰って行ってしまった。
竜樹は子猫を抱き上げると、愛らしい笑顔をハナに向けた。
※
どろどろとした闇が四方から迫ってくる。
空は黒い雲に覆われ、日の光は地上に落ちる前に闇に飲み込まれていた。
どこまで逃げてもソレは自分を追いかけ、立ち塞がり、絶望で自分自身が黒く染まりそうだった。
じわじわと追い詰めてくる闇色のそれが、とうとう彼の足首を捕らえた。
――助けて、ハナ!
「たつき!」
自分の叫び声に目が覚めた。
「………」
荒い呼吸を繰り返し、ゆるゆると寝台に上体をおこす。
異国の城の一室。天蓋から垂れ下がる紗に、夜あけに明るみはじめた青が透けていた。
そうだ。まだ自分は異界にいるのだ――。
「…ふう……」
倒れこむように寝台に仰向けに転がると、震える手で顔を覆った。
神隠しにあった従弟……。
( 私を呼んだのは、キミなの……? )
見捨てようとしていた。
声を聞いてからずいぶん時間が経っていたから。何処にいるかわからないから――。
自分には何もすることがないと、自分から諦めようとした。
闇。
空恐ろしいほどの暗闇と冷気――思い出すだけで全身に鳥肌が立つ。
――両足で踏ん張るんだよ、ハナ
「兄さん……」
呟き――そして彼女は、寝台から決然と身を起こした。