【常情】
ハナが食欲のおもむくままに料理をたいらげ、満足の溜息をついたとき、宿の食堂はジャンケン大会の真っ最中だった。宿泊客はもちろん、近所から夕食をとりにきた老若男女が、『サーイショハ、グー! ジャーンケン、ポン!』 と絶叫し、うおおお! という雄叫びをあげる。
彼女は呆気にとられたように呟いた。
「…………なぜ、どうしてジャンケン大会が始まってるの……?」
「お前が発端だろう」
隣に座っていた青年が呆れたように言った。
「……ゑ?」
テーブルを見れば、光麟の隣にいたはずの藍華も、向かいに座っていたアイオリア・ガナや結界守たちの姿もない。
「ちょ……! 藍華は……?!」
光麟は、慌てたように腰を浮かせたハナの腕を掴み、人々の輪を指差した。
「安心しろ。長が一緒にいる」
小柄な美少女を挟んでアイオリア・ガナと結界守たちがジャケンを楽しんでいる。藍華にちょっかいをかけようとしている連中は、銀髪の男の鋭い視線を受けてたじろぎ、それ以上近寄ってこようとはしなかった。別のほうからは艶っぽい秋波がアイオリア・ガナに向けられていたが、慣れているのか、興味がないのか、彼は素知らぬ顔を決め込んでいた。
ハナはいくぶんほっとして、すとんと腰をおろした。そして、ふと顔をあげると、食堂の隅のほうから女達がこちらをうっとりと眺めている。それは、無論、光麟に向けられたものだった。
(……はあ、やれやれ……)
ハナは内心で呟き、溜息をついて、飲み物に手をのばす。
「……過保護だな……」
光麟の笑い含みの声に、彼女は鼻を鳴らした。
後ろで歓声と呻き声があがる。ジャンケン大会はますます熱を帯びてきたらしい。
――そもそも。
事の発端は、夕食前にハナと光麟の間でちょっとした押し問答があったのだが、その解決法にジャンケンを採用したことによる。
その押し問答とは、誰がどの位置に座るか、であった。
先の町でもそうであったように、藍華と光麟は立っているだけで目を引くのだ。宿の食堂を見回したとき、これは危ないと判断したハナは藍華を一番奥の席に、その隣に光麟を座らせ、自分は通路側に腰を据えようとした。これに難色をしめしたのが光麟で、こんな配置では護衛の意味がないというのだ。否だ駄目だの押し問答の末、
「……わかった。じゃあ、ジャンケンで決めよう」
とハナが出した提案に、首を傾げた一同に説明をした。
グー・チョキ・パーの意味と勝敗の決め方などひととうりのルールを教え、光麟と三回勝負に挑んだのである。
結果は、ハナの希望どおりとなり、安心した彼女は並べられた料理に専念したのであった。
あほらしいといえば、あほらしい勝負ではあった。
それが、だ。
いつのまにやら、そのジャンケンが食堂全体に広まって、いまや大ジャンケン大会となってしまったのである。
「……日本人もお祭り好きだけど、ホウライヌの人もお祭り好きなんだな……」
頬杖ついて騒ぐ人々を眺めながら、呆れたようなハナの呟きに、隣から小さく笑う声がした。
高い丘の頂、鮮やかな色合いの瓦も美しく鎮座まします王城、その背後に控えるのは白い玉石の巨大な神殿。
いつものように忙しげに立ち働く官吏や女官たち、中庭の回廊でくつろぐ貴族の女や、修練に励む兵……それら、一見いつもの風景が広がる王城の奥のある一室では、かつてない混乱と騒ぎが展開されていた。
「ちょっと! ちょっと、お待ちくださいって、閣下! なんで俺が貴方の代理になるんですか!」
宰相ターガナーダの執務室。
群青の髪と青銀の瞳を持つ長身の青年の腕を掴み、巨漢の男が喚いている。官吏たちはどうなることかと二人を見つめるばかり。
「私の代理は副官であるお前に決まってるだろう、峰牙。しばらくここを頼む」
淡々とした声音で告げた宰相に、峰牙はとうとう癇癪をおこした。
「理由もなにも告げずにしばらく頼むとか言われてもですな! 一体どこへ、何をしに行かれるんです? でもって、いつお帰りになるんです!?」
いつもの色男はどこへやら、峰牙は戸口に回りこんで通せんぼしたまま上官に問い詰めた。鉄面皮の異名をとる宰相は、ごくわずかに眉をよせ、理由は言えぬ、と呟く。副官の癇癪が臨界点に到達する寸前、背後からのんびりとした声がかかった。
「宰相はお国に帰らなければならなくなったのですよ」
「はっ?」
仰天して振り向くと、蒼い法衣を着た糸目の神祇長官が微笑みながら立っていた。
「ちょっとよろしいですか?」
「あ、はい……」
峰牙は慌てて身体をよけ、青慧を中へ入れた。
神祇長官は扉を閉め、宰相の執務室にいる官吏たちを見渡した。
「……宰相府の彼らには伝えておくほうがよろしいでしょう。ただし、これからわたくしがお話しする事はけして口外なさらぬよう願います。なぜならば、国の存亡……それ以上にこの世界が危険に晒されているのだと、ご理解ください」
「……青慧どの……」
半ば咎めるような目で自分を見る若い宰相に、青慧は首を振った。
「いずれは皆、知ることです。――宰相閣下はこれからお国に帰らねばなりません。皆さんもうご承知のように、この方は神聖ローブミンドラ王国の国王となられる方。そのローブミンドラが今、暗黒世界の瘴気に晒されているのです。……お静かに。その瘴気はローブミンドラのみならず、我が国や、諸外国にも影響を及ぼしはじめております。目に見えず、形もないゆえに、人は知らず知らずのうちに侵され、狂わされてしまう恐ろしいモノなのです。……どうか、己を律することを、ゆめゆめお忘れなきよう、お願いしておきます」
静かに、一言一言ゆっくりと区切るように話す青慧を、官吏たちは凍りついたように凝視していた。
その硬直からすばやく立ち直ったのは、やはりこの男だった。
「じゃあ、俺も一緒に行きます! 俺も、ローブミンドラに連れてってください!」
「峰牙」
ターガナーダは、青慧に詰め寄る副官をたしなめたが、峰牙はその上官に矛先を変えた。
「俺は宰相の副官てえ肩書きがあるが、そもそもは貴方の副官になったんであって、宰相の副官になったんじゃねえ! そんなら俺はこの部屋じゃなくて、あんたにくっついてくのが筋ってもんだろうが!」
妙な理屈をぶち上げた副官を、ターガナーダのみならず、そこにいるすべての者が呆気に取られて見つめた。
なんのことはない。この男はターガナーダが心配で仕方ないのだ。
堪えきれず青慧が吹き出し、朗らかに笑いはじめた。
「確かに彼の言うことは尤もですね。よろしいじゃありませんか、宰相? 貴方だって腹心の部下がいたほうがより安心でしょう? ローブミンドラの王宮が安全とは限らないのですから……」
それは、言外に、この皇子の身が危険に晒されているのだと告げていた。敏感にそれを察知した峰牙は、少し表情を改めて神事長官を見据える。青慧は肯定の頷きを返した。
峰牙はおもむろに官吏たちに向きなおり、てきぱきと指示を与えた。
「そうと決まれば、岳秦。お前が代理だ。章称と隆英、岳秦を補佐しろ。他の者は手分けして仕事を片付けろ。それからな、今回のことを他人にぺらぺら喋るんじゃねえぞ。神祇長官に祟られるかもしれんからな。おまけにまだ賊が紛れ込んでるんだ。気ぃ抜くんじゃねえぞ。わかったな」
まるで軍隊のような伝法な言葉で、本人を前に失礼なことを言った。
白羽の矢が立った官吏は仰天し、次いで、口を抑えて蒼白になった。宰相は副官の後ろでこめかみをおさえ、傍らにいた青慧は気分を害された様子もなくころころと笑った。
そもそも、軍畑にいたこの男を引っ張ってきたのは自分なのであったが……。
何度目かに溜息をついたターガナーダだったが、傍らの副官は鼻歌でも歌いそうなほど上機嫌だった。
「……峰牙。この際だから言っておくが、もうこの国には帰れぬかもしれんぞ?」
「先刻承知。俺に身寄りはないので、どこへ行こうと誰も困りゃしませんて。……まあ、贅沢言えば、閣下のお国にも美人がいれば文句はないんですがねえ」
「そんなことは預かり知らぬ。勝手に探せ」
「冷たいなあ」
女王の執務室への道すがら、宰相は何度目かの溜息を吐き出し、青慧は二人の会話に声をたてて笑った。
ターガナーダと峰牙は神殿へと入った。ローブミンドラへの帰国は明朝と決まる。
ローブミンドラからの再三の要請は二つある。ひとつはシュリーマデビイの引渡しを要求するもの。ひとつはターガナーダ皇子の帰国を願うもの。
その要請を受け取ったターガナーダは、青銀の瞳に底光りするような輝きを宿した。峰牙はそんな上官を眺めつつ、一言も口を開かなかった。
書物から顔をあげた女王は、ふ、と溜息をついた。
お付きの女官が不思議そうに声をかける。彼女はそれへ首を振り、静かに立ち上がった。彩色玻璃の嵌め込まれた窓をあけ、海の向こうを見晴かす。
先日早朝、海門沖に巨大な海竜が出現したという報告があった。海門は大騒ぎになったものの、海竜はほどなく海に還り、何事もなくその場は治まったと――。
それに遡ること数十日、王城の中庭に現れた白銀に輝く巨大な竜――。
ホウライヌに旅たった異邦の女の姿が脳裏に浮かんだ。
瘴気に怯える自分たちと、その瘴気のど真ん中に進むハナ―――彼女にこの世界を救って欲しいなどとは思っていない。自分たちの世界を自分たちで守れずしてどうするのか。
だが、わずかな間とはいえ、己の手元にいた娘の無事をどうして祈らずにいられよう。
女王は手を合わせ、かたく目を閉じた。
いつもありがとうございます。
久々にあとがきなど……。
この物語も折り返し地点をすぎ、最終話に向かって驀進を……
とは言いがたいのですが。とりあえずよちよち進んでおります。
今月でまる2年 w( °o)w わぉ たちますので、ぼろぼろこぼれている種も……ムニャムニャ
とにもかくにも、皆様にはもうしばらくお付き合いいただけたなら幸いです。




