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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【氛祥】

 淀んでいた闇が風をうけてゆらりと揺れた。

そこにあった焼けるような光は消え失せ、躍動する命の息吹がかすかに流れ込んでくる。――美味なる、餌の、匂い。

闇の大地に蠢いていた不気味な蟲たちが、その匂いに惹かれてゆるゆると動き始める。あちらからも、こちらからも、果てない食欲に突き動かされた闇の蟲たちが折り重なるようにして進む。

柔らかな光の中へ踊り出ようとした瞬間、それらは火を放たれたように燃え上がった。ざわざわと慌てふためくように方向を転換するも、後ろから続々となだれてくる同胞に巻き込まれるようにして、燃え上がる。

だが、その恐ろしい網の目よりからくも逃れ出た蟲たちは、生い茂る緑を侵食しはじめたのである。



 ―――ちかい……


 芳しい風を感じたのは蟲どもだけではない。

かれは銀色のまぶたの奥で、待ち望んでいる者の光を捉えていた。

再び合い(まみ)える日も近い。いいかげん退屈で、窮屈で、臭くて不愉快極まりないが、いましばし、大人しくしておいてやってもよい……あの者を迎えるまでは。

 そうして、かれは、自身の身体に触れさせてもいない蟲どもさえ汚らわしいというように、その身を震わせ、蠢く鎖を跳ね散らかしてやったのである。




 向かってくる馬車を食い入るように見つめている中、ムラトの手にある盾が一層の輝きを増した。

「……! 間違いない、『王』 だ!」

ムラトの呟きに、

「あいや、待たれ―――いっ!」

サンダーは雄叫びをあげ、急発進する。がくん、と大きく揺れた箱の上で、またしても二人の老人はひっくり返る羽目になった。

「サンダー! いきなり発車させるなと言うとろうが!」

「いたたた」

後ろの友人達の苦情など見向きもせず、サンダーは巨大な車を猛烈な勢いで街道の傍まで寄せた。

轟音と巨大な物体に驚いた馬が暴れ始め、危険回避とばかりに凄まじい勢いで走り始めた。こちらもまた急発進だったため、幌の中から黄色い声が響いた。

「あっ! おおい、待ってくれえぃ!」

「わしらは怪しい者じゃない! 北の結界守じゃ!」

こんな奇天烈な車に乗っているだけで十分怪しかったが、そんなことは棚の上。車の上の老人達はわあわあ言って馬車を呼び止める。運転席のサンダーまでが大慌てで両手を振り回すので、ムラトは盾を抱えて箱から飛び降り、馬車に向かって走り始めた。

 ほどなく、街道の少し先で止まった馬車から、銀髪の初老の男が降りてきた。馬はまだ興奮気味に鼻を鳴らしている。

「あんたがたは……?」

アイオリア・ガナが静かな声でムラトに問い掛けたとき、二人の老人がばたばたと駆け寄ってきた。

「ふう、やれやれ。追いついたわい」

「お初にお目にかかる、我らはホウライヌの結界守でござる。森の婆さまのお達しありて 『王』 をお迎えに参った。……おおお、さすがは王の剣を(たも)つだけの貫禄をお持ちじゃの!」

ひょろっとした小柄の老人は、奇妙なゴーグルを額にのっけると、アイオリア・ガナを上から下までしげしげと眺めやった。

呆気にとられて目をぱちくりさせているアイオリア・ガナの後ろから、御者台に乗っていた美貌の青年がくすりと笑った。

「じいさん、その男は 『王』 じゃない。王の剣を持っているのはこの中にいる」

「なんと! ぬしではないのか!?」

ゴーグルの老人は目を見開いて、銀髪の男と御者台の青年を交互に見やった。傍らに立っていた熊のような大男は、やれやれといったように溜息をついた。

「改めて挨拶させていただく。わしは結界守のムラトという。こっちがゲオルゲ、そっちのゴーグルの奴がサンダーという。水華蓮から衡漢王の剣を持った 『王』 が旅たったと連絡を受けて迎えに来たのだが……失礼だが、そちらは?」

「私は水華蓮の守人の(おさ)、アイオリア・ガナだ。お会いできて嬉しく思う」

「おお、あんたが、水華蓮の……!」

「いやいやいやいや……わしらのアイオロスを大事にしてくれたようで、感謝しておるですよ、(おさ)。海を渡る長旅から戻っても、羽はつやつやで疲れも見せず、ぴんぴんしとりましたからのう。よほどのご馳走をいただいたとみえる。ありがたいこっちゃ」

アイオリア・ガナの名乗りに、ムラトは大きく目を開き、ゲオルゲは感動したように彼の手を握った。


 水華蓮に書簡を届けた大鷲の世話は、海門の子供達に任せたのであるが、初めて見る大きな猛禽が珍しかったのだろう。入れ替わり立ち代り、家から肉をくすねてきた子供達が大鷲に与えていたのである。鼠を捕まえて、大鷲の居る鳥舎の中に放り込み、覗き窓から眺める子供まで出る始末。

あきらかに来たときよりも肉付きがよくなった大鷲は、果たしてちゃんと飛べるのか心配だったのだが、なんとか国に戻ったらしいと知って、海門の長はこっそりと安堵の息を吐いた。―――これは余談なことではあったのだが。


 守人たちの邂逅が一段落ついたとき、馬車から藍華とハナが降りてきた。

三人の老人達は呆然とした。

目の前に立ったのはまだ二十歳もいっていない少女と、両性的な顔立ちをした若者だったからである。どちらもほっそりとして、剣など振るうような者には見えない。

御者台に乗っている青年は、なにやら油断ならない気配を感じたものの、敵意はないと見ていいだろう。

ハナはちょっと首を傾げるようにして、

「王の剣って、コレのことですか?」

大衣(コート)の下から白銀の短刀を見せた。

そのとたん、ムラトが手にしていた盾がビィーンと鳴り、白銀の光が真っ直ぐにハナの剣に伸びた。剣もまた、盾と共鳴するように震えると、盾から伸びてくる光のまわりを螺旋を描くようにして光を放った。

束の間、盾と剣の間を白銀の光が行き来し、やがて消えた。

不思議な現象を目の当たりにした一同だったが、

「ふうむ。わしは王の剣ってえのは、もっとこう、大きなモンかと思っとったがの」

ゲオルゲが灰色の髭をしごきながら、ハナの剣を見つめる。

「ああ、そうですね。確かに、青慧さんに渡されたときは長剣でしたよ。……アイオリア・ガナさんが差してちょうどいいくらいの」

「ってことは、これはやはり変身するんかいの、王様?」

「ええ、変身します。……って、あのう、王様ってのやめてもらえませんか。私、矢島ハナといいます」

「ほう、ヤジさんとな」

異世界の、しかも異国で、『ヤジさん』 などと呼ばれるとは思ってもみなかったハナは心中で頭を抱えた。これならどうしたって 『キタさん』 がほしいところだ。

「ほれほれ、そこ! そんなボケボケの会話をしとる場合じゃないぞい! 速やかに車に乗り、速やかに森に帰るんじゃ! 森のお婆の機嫌を損ねると、鍋の材料にされかねんぞ!」

ぱんぱん、と手を打ってサンダーが一同をけしかける。「え、うそっ」 と反応したのは娘二人。

「嘘じゃよ。婆さまは肉は喰わんて」

ひらひらと手を振って妙な返事をしたのはゲオルゲだった。

「……車に乗るのはいいが、この馬車はどうする」

ズレまくった会話が乱れ飛ぶ中、冷静な声が割って入った。

「そうだよ、どうしよう。せっかくの馬車だもんな……」

はっとして呟いたハナだったが、はたとして考えこんだ。

アイオリア・ガナたちには途中から戻ってもらおうと思っているのだ。ここで馬を手放したら、港町まで歩かねばならなくなる。どこかで馬車を預かってもらえれば一番いいのだが……。

バックから取り出した地図を広げて、ハナはサンダーに見せた。

「ここからどうやって森に帰るんです? あの馬車は知人に譲ってもらったものなんで、手放したくないんです。できれば、近くの牧場か、町で面倒みてもらえると助かるんですけど」

サンダーは地図を覗き込み、今居る地点を指し示した。

「今はここ。あの車ならまっすぐ、こうだ」

「尻が痛いのは覚悟しといたほうがいいぞ、嬢ちゃんたち。暴れ馬よりひどいからの」

「それでも四日かかるがの」

馬車に乗ってきた面々はげっそりとして顔を見合わせた。

「……せめて街道を行くことはできないのか」

アイオリア・ガナが言う。ハナの横から地図を覗き込んでいた光麟が言った。

「あんたたちが通ってきたこのあたりは、石ころだらけの沙漠だろう。だが、それを過ぎればまた草原だ。そのあたりにある町で俺たちはあんたたちの車に乗り換えるというのはどうだ?」

「あ、そうだね。大きな町みたいだし、ここなら馬を預けるところもあるかも」

地図は沙漠と草原を表し、街道は大きく迂回することになるが、その地点で草原から一直線に車で森に向かえば、街道を行くよりはるかに速いだろう。

「まあ、確かに、早いトコ帰らねばならんのはわかっとるんだがな」

「さすがに四日も野宿は年寄りの身にはきついわな」

ムラトとゲオルゲの言に、サンダーもしぶしぶ頷いた。シートに座っていたとはいえ、彼もまた疲れが溜まっていることは否めなかったのである。



 夕暮れどき、一向は小さな町に辿りついた。

大きな車が人目をひいて、ハナたちに向けられる好奇の目が半減したのは思わぬ僥倖だった。

 今日の宿を決めて、馬屋に馬をいれたときだった。ハナの傍らに寄った光麟が、低い声で言った。

「……(おさ)と女中を帰しても、俺は手元に置いておけ。少なくとも役に立つ」

仰天して飛び上がったハナの口を青年の手が塞ぐ。

「……だろう?」

長身の美貌を見上げ、その目が微かに笑っているのを見て、ハナは彼の手をやんわりとどかした。

「いつからバレてた?」

「水華蓮の海門にいるときだ。確信したのはホウライヌの港だな。……船長に頭を下げたろう?」

いよいよ……ハナは面白くもなさそうに、鼻息を吹いた。

「あんたがあの二人を戻したいのはわかる。長にしても、あの女中にしても、帰りを待っている人間がいるからな。その点、俺はそんな心配はない」

「……どうしてさ?」

「俺はこの契約を受けたとき、既に死んだことになってる」

「なん……!」

大声をあげそうになって、ハナは再び光麟の手に口を塞がれた。

「大きな声を出すな」

彼は、辺りを覗うように気配をめぐらせると、そっと手を離した。

「この契約を依頼した人間は、あんたの行く先がどこなのか、先刻承知だったということだ。……海門で言ったな? 向かうのは暗黒世界だと。あんたがそこまで足を踏み入れるなら、それに着いて行けというのが依頼だ。――最後まで聞け。そして、俺が所属する組織は、受けた依頼は必ず遂行されなくては成り立たないところだ。……俺のような者でも、玄人と呼ばれる所以は契約が完遂されることにある。それを放り出してのこのこと華蓮などに足を踏み入れれば、俺は組織によって抹消される」

淡々と、事実だけを語る青年の声音に、やり切れないような感情がハナの胸に渦巻いた。

「……泣くな」

「泣いてないよ!」

泣くのは彼にたいして失礼だと解っている。彼の所属する世界にはその世界だけのルールがあることも、理解できる。

それでも、このやり切れなさだけは、どうしようもなかった。

ふわりと、温かい腕が頭を包んだ。

「……俺は、今まで仕事を楽しいと思ったことはなかったが……今回に限っては、けっこう楽しんでやってるぞ」

腕が離れ、背後にあった気配が馬屋を出て行ったあとも、しばらくは、ハナはその場に立ちつくしていた。






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