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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【無侮老成人。】

 牧場主は破格の値段で若く元気な二頭を売ってくれた。

「しかし、これではあまりにも……」

そう言ったアイオリア・ガナに、牧場主は首を振った。

「喜平さんのお知りあいとなれば、このくらいはさせていただかないと、私が喜平さんに叱られてしまいます」

そして用意してくれた馬車は幌のついたもので、アイオリア・ガナが寝転がっても十分な広さのあるものだった。

「お心遣い感謝します」

ハナが深々と一礼すると、後ろにいた藍華もおじぎした。

「どういたしまして。……ですが、最近は物騒になっておりますので、どうか十分にお気をつけてください」

「はい。ありがとうございます」

そうして、三人の乗った馬車が牧場の敷地を出るころ、街道の端で待っていた光麟が御者台に飛び乗った。

「……ずいぶんいい馬車を買ったんだな」

青年は馬と幌のついた馬車を見て呟いた。アイオリア・ガナが軽く微笑んで 「喜平殿のおかげだな……ひいては、青慧様のおかげか」 と言った。

なるほど、と頷いた光麟は、アイオリア・ガナに後方へ注意を促し、御者台の後ろの幌の幕をあげてハナを呼んだ。

「ごろつきが六人ほど追ってきている。一気に森を走り抜けるからどこかに掴まっていろ」

淡々と告げる青年を見上げ、ハナは何か言おうとしたが、ただ頷いた。そしてバックの中から地図を出して広げた。地図を指でたどっていく。

「……森の先はしばらく放牧場だけど、それを抜けると草原に出るよ。町はずっとその先だね……てことはやっぱこの先が危ないね……でもこんなとこまで追ってくるかな? だいぶあるけど……」

光麟が手を出すので、ハナは地図を彼に渡してやった。

「森だ。とりあえずここは飛ばすぞ。しっかり掴まっていろ!」

アイオリア・ガナが声をあげ、手綱を鞭代わりにぴしりと打つと二頭の馬は一気に速度をあげて走りだした。歩けば百歩ほど、馬で駆け抜ければあっという間の森の隧道(トンネル)である。ガラガラという車輪の音を聞きながら、アイオリア・ガナはちらりと横に座る青年を見た。

彼はつい先ほど、ここで刺客を斃してきたばかりのはずだ。だが、美しい横顔には何の感情も浮かんではおらず、風に黒い髪をなびかせながら、ハナから受け取った地図を見つめているだけだった。

「……奴等も馬で追ってきているな……」

アイオリア・ガナの視線に気付いていたのかどうか、青年は振り返りもせず、唇の端を少し吊り上げて呟いた。

 馬車は森を駆け抜け、放牧場に挟まれた街道をそのまま速歩(はやあし)で進んでいたが、しばらくしてから速度を落とした。若い馬とはいえ、このまま馬車を牽かせて走り続ければつぶれてしまう。それに、どのみちこの放牧場を抜ければ広大な草原地帯にはいる。ハナが言うように、地図で見るだけでも町までそうとうの距離があるのだ。あちらがどうでも自分たちに用があるなら、この無人の地域でけりをつけようとするだろう。

 ハナは幌の横幕をあげて外を眺めた。

だだっ広い放牧場がずっと向こうまで続き、牛が点々と見える。遠くきらきらと光っているのは海だろうか。

キュルル……

それまでひっそりと大人しくしていたシュリーマデビイが襟元から顔を覗かせた。

「シュリー、また騒がしいことになるかもよ。しっかり掴まってて」

碧のドラゴンは金色の目を煌めかせてハナの頬へ頭をすりつけた。それを微笑んで見つめていた藍華が、あ、と声をあげた。

「ハナ様、剣が……」

革帯(ベルト)に差し込んでいた短剣が白光を放っている。柄の竜が浮き彫りにされたように輝き、光が銀粉を撒くように波打っている。

「……そろそろかな。……光麟、そろそろ草原に出る?」

御者台に座っている青年が振り返って頷き、持っていた地図をハナに返した。そして、白銀に輝く剣を見つめ、ほんの少し唇に笑みを刷いた。

「……次は、何に化ける?」

「………。さてねえ、その時になってみないと」

ハナは、青年の面白がっているような表情を見て苦笑した。

 放牧場の最後の柵が後方に流れ、一面の花畑が眼前に広がった。霞んだように見える山の峰には雪が残っており、風は花と緑の香りを運んで駆け抜けていく。

素晴らしい景色を堪能する間もなく、

「おいでなすった」

どこか楽しげなアイオリア・ガナの声が合図だったように、後方から荒々しい馬蹄の音と野太い声が響き渡った。

「無粋。無粋すぎるよ……花畑に似合わない」

ハナは嘆かわしそうに首を振った。

二、三の馬が馬車を追い越し、前方で立ち塞がった。アイオリア・ガナはゆっくりと馬車を止めた。

「何か用か」

男たちは馬を下り、長剣を抜いて馬車を取り巻いた。後方にいた馬に乗ったままの巨漢のがらがら声が響いた。

「命が惜しけりゃ、娘と金を出しな。……おっと、そこの綺麗な兄ちゃんも、好事家に高く売れそうだな」

ひひひ、と男たちから下品な笑い声があがる。

御者台に座っている光麟とアイオリア・ガナの間から顔を覗かせていたハナは、気遣わしげにひそひそ言った。

「腹は立つけど、光麟、殺さないで? キミの場合、だいーぶ手を抜いてくれないと、花畑に生首が転がりそう……」

光麟は前方に目を据えたまま、溜息をついてみせた。

「……無傷というわけにはいかないぞ」

「それは仕方ない。先に手を出してきたのはこいつらだもん」

緊張感に欠ける会話を交わしたあと、四人は馬車から降りた。一人は馬車に乗り込んで物色しているようだったが、金目のものがあるわけがない。ぶつくさ文句を言いながら出てきた。

六人のごろつきは獲物を追い詰めた獣のような目で一人一人を眺めていたが、一番年若い美少女に至っても怯えた様子がないことに不快感を覚え始めた。

「申し訳ないが、お前達にやるような娘も息子も、ついでに金も持ち合わせてはおらん」

アイオリア・ガナは静かに頭目らしき男に言った。

「痛い目みないとわからねえようだな、じじい!」

怒声をあげて巨漢が拳をくり出した瞬間だった。

どこをどう突いたものか、一瞬の空白ののち、アイオリア・ガナの指にはじかれたように巨漢が吹っ飛んだ。

「おかしら!」

「野郎っ!」

二人がアイオリア・ガナを挟み撃ちに、残りはハナたちに向かってきた。

光麟の拳が電光のように一人の鳩尾に突きこまれる。藍華の蹴りが一人の顎を見事にとらえ、ハナの剣は瞬時に変化して一人の急所を突き上げた。

いずれも声もたてず花畑に転がった。その頃には、アイオリア・ガナはいとも簡単に二人をのして、信じられないような顔でへたり込んでいる頭目と対峙していた。

横合いからのんびりとした声がする。

「……俺には手加減しろとか言っておいて……」

白目をむいて口から泡を吹いている男を覗き込みながら、光麟が呆れたようにハナを見た。

「ちが……! わざとじゃないよ! だって、こいつが急に如意棒みたく伸びちゃったんだ!」

ハナは赤くなりながら銀色の長い棒を、バトンのようにくるくる回してみせた。

「そんなやつ、不能になったって自業自得ですわ!」

藍華は腹立たしげに腰に手をあて、ふん、と鼻を鳴らした。

そんな若者達のやりとりを可笑しそうに聞いていたアイオリア・ガナは、巨漢に目を戻した。

「俺の子供達はちょっとばかし腕がたつんでね。悪いことは言わない。このまま町へもどったほうがいいぞ」

頭目は銀髪の男と三人の若者とを見比べ、馬に飛び乗るや、いまだ気絶したままの仲間を放り出して逃げて行った。

「……さて。では、行くか」

アイオリア・ガナの号令で四人はまた馬車に乗り、花畑の広がる街道を北へと進み始めた。



 轟音をたてながら凄まじい速さで進む車の上で、ムラトは何度目かに強く尻を打ちつけた。

「痛っ! サンダー、もう少し大人しく運転できんのか」

髭面をしかめて、ごうごう鳴る風に負けないように怒鳴る。その向かいでは、やはり痛そうに尻をさすっているゲオルゲが、燃料缶を抱えるように座っている。

 村を出て四日。三人を乗せた大きな車は、凄まじい勢いでひたすら南下していた。街道を使ったのでは遠回りだと嘯いて、サンダーは道もない砂礫の荒野を果敢に突き進んだ。

「やれやれ。帰りもこんなだと身がもたんわい」

「文句を言うな! おお、見ろ! 街道だ! どうだ、快挙だろう、ひゃっほうっ!」

ゲオルゲの文句が耳に届いたのか、運転席のサンダーが怒鳴り返したが、街道が見えたとたん歓声をあげた。

茶色い荒野はぽつぽつと緑を見せはじめ、ずっと向こうは緑の地に色とりどりの刺繍をほどこしたような草原が広がっている。

そのとき、ムラトが脇に抱えていた銀色の盾が熱を帯びた。

「む?」

目をやると、今まで灰色にくすんだような盾が、白い光を放ち、ビィーンという音をたてはじめた。

「盾が光っておるぞ!」

「なにっ!?」

ゲオルゲの素っ頓狂な声に、運転していたサンダーが振り向いた。車が大きな石にぶつかって、がくがくと大揺れした。

「前っ! 前を向けっ!」

ムラトが車の箱に掴まりながら怒鳴る。

盾はますます光輝き、波打つような振動を伝え始めた。

「む? 馬車だ」

サンダーはゴーグルを跳ね上げ、目を眇めて街道の先を睨んだ。その声に、ムラトとゲオルゲは車の上に立ち上がり、目を凝らした。

三人の目に、二頭の馬に牽かれた馬車が向かってくるのが見えた。







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