【旅立ち】
山脈と巨大な湖で水華蓮との国境をなすサイカ国は、北側に海を擁する。とはいえ、このあたりの海は比較的穏やかで、人々はゆったりとした漁を営んでいた。内陸部では広大な畑が広がり、季節折々に美しい花を咲かせる。国民のほとんどは農業に従事しているのだが、生産物の大半を占めるのは『花』である。
サイカの首都・キリクは世界中の花が集まる京なのだ。むろん、隣国の首都・華蓮にも花屋はある。だが、キリクに集まる花々は桁違いの種類と量であり、ここで取引するのは花屋は無論のこと、薬、装飾、料理など国内外の各専門の職人たちなのであった。且つまた。世界中の珍しい花々が集まってくるともなれば、当然のことながらその香りに魅了された者が集うようになり、ここが『香りもの』の発信地になったのは必然といえただろう。
サイカの国産品といえば花を上げられるが、世界第一とされているのは『香水』であった。花と木と草の粋を集め調合し、日々至高の香りを求めて腕を磨く調香師たちが、きら星のごとく名を連ねる都――。
だが、彼らは口を揃えて言うのだ。
「己はまだ調香師スオウの足元にも及ばぬ」と―――。
キリクを遠く見はるかし、背後は天を刺す山脈……その、滅多と人の踏み込まぬ中腹の森の中に、ぽつねんと佇む一軒の家があった。森に囲まれた小さな平地に建つこぢんまりとした煉瓦造りの家。その周りには石で囲った花壇がいくつもあり、様々な花が咲き誇る中、植えられているのか放置されているのかわからないような有り様になっている花壇もある。屋根の煙突からゆるやかな煙が流れており、そこに人が住んでいることがわかる。
――と。
いきなりドアが開いて、老人と若者の声があたりに響いた。
「いいか、カカリ。儂がいないあいだ下らんものを作るんじゃないぞ」
「待って下さい、お師匠。一体どこへ!? でもっていつお帰りに……っ!?」
「わからん」
「わからんて、そんな……っ!」
小柄な老人は一抱えほどの布袋を肩に引っ掛け、杖を持ち、毛織のシャツの上に丈長のベスト、厚手の生地のズボン。革のマントを羽織り、短めのブーツといったいでたちで、どこからどう見ても旅装である。
追いかけて来た若者は、優しげな顔に不安を浮かべて、頭二つ分は小さい老人を見つめた。
「そんな情けない顔をするな。何も戻って来んとは言うとらん。ただ、いつ戻れるかわからんと言うだけだ」
老人は鼻を鳴らして不確かなことを言うと、袖を掴んでいる若者の手をぺい、と払った。
「……お師匠……。こないだ屋根裏の階段から足を踏み外したばかりじゃありませんか。やっと腫れが引いたってのに、一人で山の中を歩いてこけたらどうするんです? 熊や狼は助けちゃくれませんよ?」
深い溜息をついて青年が言えば、老人はいくぶん赤くなって大きな声をあげた。
「もうああいうヘマはせんわい! 今のうちに行っとかねば、この先いつ行けるかわからんだろうが!」
「でーすーかーらー、何処へ、行かれるんですかっ?」
「………あっちじゃ」
「あっちじゃわかりませんよっ! ふざけてないで、ちゃんと行き先を告げて行って下さらないと、私だって緊急時に動けないでしょう、スオウ師匠っ!」
――そう。この不毛な言い争いをしているのは、都の調香師たちが神ともあがめる調香の名人スオウと、彼のたった一人の弟子カカリなのであった。
しかしながら、確かに青年の言い分が正しい。
スオウはしばらく顔をしかめていたが、仕方ないと思ったのか溜息とともにぼそりと呟いた。
「……泉に、行っておきたいんじゃ」
「泉?」
「そうじゃ。先日、宰相閣下に差し上げた香水に使ったセイロの花を、確かめに行きたいんじゃ」
カカリは怪訝そうな顔して師に問うた。
「……セイロの花って、何です? 聞いたことありませんが」
「……この世界の花ではない。だから、そこへ行けるかどうかも、わからん」
スオウは口をへの字に曲げて首を振った。弟子のほうはしばらく呆気にとられ、ついで絶叫した。
「あ、あ、あ、あの香水にはそんな得体の知れないものが入ってたんですかっ?!」
「得体の知れないとは何じゃ! 無礼ものっ!」
青年の絶叫を上回る激しい激が飛んできて、カカリは思わず首をすくめる。
「いいか。あの香水はな、この世界の花で作ることはできん。只人が持つべきものではないんじゃ。わしは幸運にも至高の素材に巡り会えた。その礼を、今、しておかねばならんのじゃ。だからしばらく戻らん。いつかは戻る。達者でやれ」
スオウはそう言って踵を返すと、さっさと森の中へ入っていった。
「お、お師匠〜〜〜」
カカリは追いかけようとして、足を止めた。
もとより、こうと決めたら絶対曲げないのはよく解っている。階段から足を滑らせたことで、自分の体が老いてきていることを痛感したのだろう。だからこその旅立ちなのだ。
「……しかも、それがあの香水のことなんだったら、止めたって無駄だよなあ……」
先日、水華蓮へ赴いたときに、スオウはあの香水をターガナーダ宰相に手渡した。何故、宰相なのかは知らない。ただ、常々あれに関しては只人が持つべきではないと言っていた。その理由も知らないが……おそらく、『セイロの花』が、師にそう言わしめたのだと、今ならわかる。
カカリ自身は、あの香水に使われた『至高の素材』――『セイロの花』を見たことはない。ただ、師匠から素晴らしい素材を使ったのだと聞いていただけだ。まさかそれが仙界かどこか別の世界の花だとは思わなかったが。
「やれやれ……」
呟いて家に入る。
食卓の上には食べかけのパンとスープが取り残されていた。彼はそれをたいらげると、奥の部屋へと入っていく。
ひんやりとした部屋。机の上には玻璃の容器に入った液体が数百本並んでいた。
そもそも、カカリはスオウの弟子になりたくてここへ来たのではなかった。親に捨てられ、山中を彷徨っているところを拾われたのである。スオウの手伝いをしているうちに香水も作れるようになった……それだけのことだ。
師匠と呼んでいても、父親のように思っている老人なのだ。無事に戻ってきてくれれば、それでいい。
「……仕方ない。大人しく待ってるしかないか……」
スオウが嬉しそうに『セイロの花』を腕いっぱいに抱えて戻ってくることを想像したカカリは、思わず苦笑を洩らし、おのれの仕事にとりかかった。
勇んで出て来たものの、さすがに寄る年波には勝てぬ。スオウの歩みはいくばくとたたず、遅々としたものになった。
「やれやれ、もっと早くに行っておくのだったな……」
苦笑しながら独語し、またゆるゆると歩き始める。
セイロの花を―――
カカリには言わなかったが、もうあの花があの場所にないことは知っている。たった一本の、たった一つだけの花だったのだ。
通常、精油は大量の花からほんの少し採れる。その手間ひまは余人の想像を絶するほどで、非常に希少価値の高いものである。それゆえに、そうして作られた精油を調合した香水はどうしても高額なものとなってしまうのだ。
だが、セイロの花は、花であって花ではない、まったく別の存在なのである。
耳の奥に残っている遠い声――
『花がほしい……?』
『どんな価値があるのかしらぬが、欲しいならやろう』
懐かしい、声。
いま行けたとしてもそこには何もない。そして誰も居ない。
それはよく解っている。
時は過ぎ去り、人も世界も変わっていくのだ。あの場所も、あの時のままそこにあるとは限らない。それでも、行きたいと思う。この目で、確かめたいと思ったのだ。
スオウは杖を握りなおし、道ともいえぬ道を黙々と歩きはじめた。




