【船出】
異邦人惨殺事件のあと、神祇庁では人事異動が発表された。依然としてお互いがお互いを監視している最中のこと、「表」に務める神官たちの間にはぴんと張り詰めた緊張感が感じられた。だが、一歩奥殿へ入るや、そんなものは払拭される。
いつもと同じ静謐な空気に満たされ、そこへ務める神官たちは何事もなかったかのように日々の仕事を黙々とこなしていた。
奥殿から賊の一党が出たというのに、である。
昨日、惨殺された衡漢王の再誕である矢島ハナの遺髪が奥殿の祭壇へ安置された。
賊の一味と知らず、ハナを呼びに行った若い神官は、ひどく自分を責めて追放覚悟で青慧の前に立ったのであったが、神祇長官の咎めはなく、これからも務めを励むようにと申し渡されたのみだった。
青慧は近衛の二人が捧げ持ってきた盆の上の黒髪を見るや、奥殿に仕える神官たちでさえ見たこともないような哀しみを面に浮かべ、かつてないほど長い時間、祭壇の前に跪いて祈りをささげた。
その夜。
奥殿に仕える神官たちの幾人かが、凄まじい絶叫を放って飛び起きた。同室の者が何事かと明かりをつけたところ、わけのわからないことを喚きながら顔面蒼白となって震えている彼の白い掛け布の上に、長い黒髪が十数本、蛇のようにうねって落ちていたのである。
――そうして。同様の不可解な現象に飛び起きたのは、比較的新しく奥殿に入ってきた神官八名だった。
青慧よりその者たちの処置を任された香芯は、集められた長い黒髪を一瞥し、
「……衡漢王の呪いかな……」
ぼそりと呟かれた低い声に、縛り上げられた八名は紙のように血の気を引かせ、堰を切ったように己の内情を話し、許しを請うたのであるが……。
香芯はそれらのことを細かに書き留めさせ、青慧の元へ赴いた。
「……なるほど。こういうことでしたか。ご苦労でしたね、香芯。何もない時期なら、解放してやってもよいのですが、これからまた面倒なことが起こりそうな気配がありますからねえ。可愛そうですがその八名はしばらく外に出さぬように。それから、今夜のことは「表」にも出さぬように」
「かしこまりました」
淡々と交わされた会話のあと、奥殿は再び静寂を取り戻した。同室の者が賊――あるいは、それらに関係する者だったとしても、誰も取り乱しはしなかった。青慧の副官の副官たる所以があるように、奥殿に仕える神官の神官たる所以はここにある。
それはいかなることをさすのか―――余人は、知らぬが仏というものだ。
咎めもなく奥殿に仕えることとなった若い神官は、一心に青慧に仕えようとの決意もあらたに祭壇の間に向かっていた。中庭の小道にさしかかったところで、彼はふと上を見上げた。空は青く、昇りはじめた朝日に神殿の塔は眩く輝いて………
「……え……?」
呟き、神官は目を凝らした。
高く聳える白亜の塔の天辺――てっぺんも天辺。塔の丸い屋根の上に突き出した細長い金属棒(これは、何でも古い時代の神祇長官が雷から塔を守るために設置されたものだそうで、古参の神官が言うには『避雷針』というものらしかった。余談だが、ハナの世界では一七五三年 フランクリンが考案し、日本にいたっては、じつに一世紀もたった一八七五年 前田利家を祀る尾山神社の桜門建設のときが初めてだとされている)――その、避雷針の上に、目にも鮮やかな蒼い着物をなびかせて立っている人物がいたのだ。
蒼い衣といえば、水華蓮国中探したとて、このひとしかいない。
「せっ……青慧様っっっ!」
若い神官は蒼白になって絶叫した。
耳元でごうごうと鳴る風が、彼の蒼い着物の裾を後方へ吹き流す。普通なら目も開けていられないはずだが、そよ風程度にしか感じていないのか、本人はいたって平気な顔をしていた。しかも、足元といえば指二本分の太さしかない金属棒の上に片足を乗せているのみ――バランスを崩そうものなら、そのまま三十間下の地面に叩きつけられる。
だが、なんの力がはたらいているものか、彼の体は強風にさらされても微動だにせず、蒼い法衣がばたばたとはためくのみ。
彼――青慧は、遠く海を見晴かし、のんびりと呟いた。
「おーやおや。珍しいものが出てきましたねえ……」
くすくす笑いながら沖に出現した巨大な生物を眺めやる。水華蓮の盾になるような形をした海門では、おそらく大騒ぎとなっていることだろう。――と。
きらりと眩しい光が放たれた。
「――!」
青慧は目を凝らし、光源を見つめる。
銀の光は朝日とあいまってさらに眩しく、沖の訪問者へ合図を送るように大きく左右に揺れた。それをしかと受け止めたが如く、巨大な生物は頭を一つ振ると静かに海中へと戻って行った。
彼は、しばし唖然としたようにそれを眺めていたのであったが、やがて何事か了解したらしい。いきなり吹き出すと朗らかに笑いはじめた。
「あは……あははは! はじめましての挨拶が王の剣ですか……! あははは……なんと、ハナ様らしい!」
もとより、彼女はそれが何を意味するのか、解ってはいなかったろう。彼女は巨大なものに対して合図を送ったにすぎないのだ。だが、彼女の持つ剣は『王の剣』―――
「……説明不足だったかもしれませんね……でも、まあ、大丈夫でしょう、あの方なら。……どうぞ、ご存分になさいませ………様」
何者も聞き取ることの出来ぬ上空にあるというのに、彼はひどく慎重な様子でそれを呟いた。その細い糸目は、いまやぱっちりと見開かれ、空の青よりも蒼い瞳が輝きを放って海門を見つめているのだった。
城塞の長の執務室から、日を避けて遠眼鏡で沖の様子を眺めていた男は、お手上げだとでもいうかのように頭を振った。
「どーするよ、オリオン。神殿に報告するか?」
窓にかかっていた布を引きおろし、ダレイアスは傍らに立っている白い長袍の青年に問う。
神殿に報告すれば、当然、神祇庁に通達されるということだ。普通ならこんな騒ぎを看過するわけにはいかないのだが、何しろ昨日の今日だ。城でどんな動きが出ているかは解らないが、せめて異邦人を送り出すまでは黙っていたほうがいいだろう。
「…………いや、まだいい。……それよりダレイアス。あの雇われたっていう若いあんちゃんをどう思う?」
オリオンの言葉に、ダレイアスはにやりと笑った。
「俺の見たトコ、ありゃあ玄人だぜ。それもそんじょそこらの何でも屋じゃねえ。本物の殺し屋だ」
「……噂は聞いたことがある。仕事はきっちりやり遂げ、あとは煙みてえに姿を消すとかなんとか。依頼主は特別な方法で連絡をとり、殺し屋の伝達係かなんかが指定した場所で依頼と前金を受けて、殺し屋に仕事を振るんだとかいう、あれか」
「おそらくな。名前も出身も後を追うことはできねえ。だから、その集団の規模もわからなければ組織構成も謎だ。しかも、犯人らしき殺し屋の特徴を誰も覚えてやがらねえってのが、一般的な噂だが……しかし、あの兄ちゃんの顔は、そうはいかねえだろうなあ……。ありゃあ忘れようったって難しいぜ」
「うん……夜陰に乗じて奇襲する類の殺し屋だろうな、たぶん。……その殺し屋に護衛を依頼するってのはどうだ……?」
考えながら呟くオリオンの肩に、大男の手がどすんと置かれた。
「だから、親父っさんがついて行くって言い出したんじゃねえのか? 見たとこ、藍華ってえお嬢ちゃんも警戒しまくってるしな……暢気に構えてんのは当の異邦人だけだ」
オリオンとダレイアスにはそれがどうにも解せなかったのである。
若い娘のこと、美貌の青年に暗殺者から助け出されたのならほだされても不思議はない。現に、この城塞に住む若い娘たちはあの青年の姿を見ただけで陶然となってしまうのである。だが、異邦人に限ってはそんな様子はまったく無く、同行者である二人に対して隔てなく振舞っていた。
オリオンは異邦人が話した出来事を反芻してみた。だが、それは事実を語るのみで、当然のことながら彼と彼女の間で交わされた会話などは省かれていたのである。
「……ま、どっちにしろ、無事に行って戻ってくれることを祈るしかないね……」
海門の長代行である青年は、溜息と共に呟いた。
出港の刻限が迫ってきていた。同乗する商人は三組。船員を除けばハナたち三人と、アイオリア・ガナとで乗客は二十数名となった。
「二人とも、元気でね」
ハナがそう言ってにっこり笑うと、二人の幼い子供はつまらなそうに口をとがらせた。
「ぼくもホウライヌまで一緒に乗せてって言ったんだけど、お爺様はだめだって言うんだ! 別にずっとくっついてくわけじゃないのに」
「ハナお姉ちゃま、いつ戻ってくるの? うんとかかるの? お爺様もずっと戻ってこないの?」
苦笑していたハナは、きっぱりと言い切った。
「旅行じゃないからね。リュオンたちはお父さんとお母さんをフォローしてあげなくちゃ……あ、フォローっていうのは、補佐っていう意味なんだけど。あとね、レイティア。お爺様にはすぐ戻ってもらうつもりだよ。だから安心して」
船の上からハナを呼ぶ声がした。彼女は振り向いて了解の合図を送ると、子供たちに手を振って踵を返そうとし、ふと足を止めた。
「……あのさ、頼んでいい?」
「なあに?」
「もしも、ターガナーダ宰相と青慧さんに会うことがあったら、ハナは元気だったって伝えてくれる? できれば、こっそりと」
「うん。いいよ!」
「こっそりね!」
三人は共犯者の笑みを浮かべ頷きあうと、ハナは船に乗り込んでいった。
出発の銅鑼が打ち鳴らされ、錨が巻き上げられた。真っ白な帆が張られ船はゆるゆると波止場を離れていく。
甲板に駆け上がったハナは、小さな友人達の姿をみとめ、手を振った。波止場で兎のように飛び跳ねて両手を振る子供達の後ろに、銀髪の美女が歩み寄る。そしてデルフィニアもまた離れていく船に手を振った。
船は北へ――ホウライヌへ向け出発した。
やっと……やっと船出できました……ミ(ノ;_ _)ノ =3