【シュリーマデビイ】
呆然と……ただただ呆然と立ち尽くすハナの傍ら、二人の近衛兵は顔を見合わせた。
【……ああー、まあ、その。そんなに気を落すな】
【入口はいずれまた現れるさ、きっと。この国には素晴らしい博士もいる。何かいい知恵を貸してくださるかもしれん】
【うむ。そうだぞ。博士がいる】
ハナにうんうんと頷いてみせる彼らの言葉は、やはり彼女にはわからなかったけれども、元気づけてくれようとしていることは伝わってきた。
ハナはあらためて二人を見る。一人は彼女の右腕を押さえていた男、もう一人は携帯を壊そうとした男だった。
「……ありがとう……」
少し笑みを見せ、軽く頭を下げる。途端、二人は慌てたようにバタバタと手を振った。
【い、いや! 頭をさげられるようなことは……】
【そ、そうだぞ! とにかく博士に知恵を貸してもらわなくてはな!】
いかつい顔をしてはいるが、本当は気のいい人たちなのだろう。
もう一度、ハナはにっこりと笑った。
再び大広間へと戻った彼らは、事の成り行きを聞こうと退出せずに待っていた人々に出迎えられた。
女王は玉座へと戻っていき、そのはるか手前で宰相以下、ハナたちは立ち止まる。
ひそひそと囁きが交わされ、それは言葉の通じないハナにはさざなみのように聞こえたが、先ほどとはうって変わって心はしっかりと足がついたようだった。
(…不思議だ…。さっき、人に優しくしてもらったからだろうか……?)
取り乱したままでは大切なことを見逃してしまう。穴が消えてしまった今、ジタバタしても始まらない。それよりも何を最優先にするか考えなければ。
――いかなる状況におかれても、心は水の流れのようであらねばならない――
師である兄の言葉が蘇る。
(うん、兄さん。忘れるトコだったよ…。あの二人には感謝しなくてはいけないね)
彼女はもう一度、心の中で二人の近衛兵に頭を下げた。
無論、ハナの心中など人々が知ろうはずもなく、なぜかここに戻って来た異邦人を珍しげに眺めている。正式な謁見は済んでいるためか、城で働く女官達までもがこっそり覗きに来ているようだった。
女王の純白の衣が煌めき、ゆったりと玉座に広がった。そして、まっすぐ立って自分を見つめているハナに目を向ける。――その聡明な目は、異邦の女の微妙な変化を見逃したりはしなかった。
「……ハナ。言葉が通じぬままでは不便でしょう。シュリーマデビイをそなたに預けましょう」
微笑みながら、つい、と肩に手をやり緑色の小さなモノを乗せるとふわりと放った。
「わ…っ!」
ハナは思わず両手をのばし、受け止めようとした。が、落ちてくるはずのそれはパタパタと羽音をさせて飛んでいるではないか。
(え――? コウモリ…?)
蛍光グリーンの蝙蝠などいるわけがない――はずだ。
手を引っ込めるわけにもいかず、飛んでくるそれを見つめていると、緑色の生き物はぱさりとハナの手の平に着地した。
「―――っ!」
ハナの目がまんまるになる。
片手の掌に納まるそれは、キラキラと輝く翠色の鱗に蝙蝠の翼を持ち、顔はトカゲに似て、紗の扇のような耳と2本の角が生えている。頭頂部から尾にかけて半透明の背鰭がゆったりと波うっていた。
小さな小さなドラゴンだった。
ハナを見上げるくりくりした金色の目を見て思い出す。
さっき女王様の襟から覗いていた子だ!
しばし、ハナとドラゴンは見つめあい、小さなそれは挨拶するようにキュルルと鳴き声をあげた。
(はぅ!)
仰け反ってしまった。
あまりの愛らしさにプルプル震えながら、
「か…っ、かんわいぃ…っ!」
思わず頬ずりしてしまう。
完全に一目惚れである。
「……あのようなモノを可愛いなどと感じるとは、異界の者は理解できませぬな」
居並ぶ人々の中から悪意のこもった声と、賛同するようにひそやかな嘲笑が聞こえてきた。
(おやおや! 言葉がわかるぞ。しかもイヤミ)
嘲笑の出どころあたりに目をやると、さざめきがふと途切れた。そのままゆっくりとなぞるように人々を眺めていく。
傍らに立っていた宰相はポーカーフェイスだったが、近衛兵らは一様に憮然としていた。
他の人々もまた、それぞれに反応を示していた。
(……数種類の人間がいる…)
それは別にこの国に限ったことではない。ハナが勤める小さな会社とて同じようなものだった。
おなじ人間なのだ――
その事実は、ますますハナの精神を冷静にしていった。
だが、掌の小さなドラゴンは嘲笑が聞こえた途端、ピクリと震えると小さく翼をたたみ、ひっそりと動かなくなってしまった。まるで嵐が過ぎるのをただじっと耐えて待っている小鳥のように。
”哀しい”とも、”寂しい”ともあらわすことのないその様子は、逆に、ハナの心をひどく痛ませた。
これではあまりにしのびない。何とかしたい。
「………」
このドラゴンがそばに居ることで女王はハナの言葉が解せたのだ。どういう力が働いているのか、皆目見当もつかないが。
しかしそういうことなら――掌の小さな生き物を見つめていたハナは突然、悪戯を思いついた子供のような顔をした。
「このように愛らしいものが解らぬとは、異界の者は理解できませんな。ていうか、ホントに目ん玉ついてんのか? そういうの私の世界じゃ昼行灯って言うんだよ。知ってた? なんてったっけ? シュリー…?」
ドラゴンを覗き込んでニッコリ笑う。緑の頭がちょっと傾げられ、金色の丸い目が不思議そうにぱちりと瞬いた。
「な…っ、なんと口答えするとは……」
「無礼な…」
ハナはわざとらしく素っ頓狂な声をあげてみせた。
「あれっ! なんでコトバがわかるんだろう? もう悪口も言えやしないね」
当て擦りの(ハナにしてみれば)ささやかな仕返しに、憮然としたような唸り声と、かたや、控えめながら面白がるようなくすくす笑い。
女王もこのやり取りを面白そうに見ていたようだった。
「シュリーマデビイですよ、ハナ。ところで、ヒルアンドンというのは何ですか?」
「………」
どうやらこれは通訳できなかったらしい。
ハナは壇上の美女を見上げ、にやりと笑うと掌のドラゴンにそっと顔を寄せて囁いた。
「女王様にこっそり教えてあげて、シュリーマデビイ。…できる?」
シュリーマデビイは小さくキュルと鳴いて飛び立ち、女王の傍らに止まる。
女王は頭を傾けハナの囁きを受け取った。途端、鈴を振ったような笑い声をあげた。
ドラゴンは再び舞い戻り、ハナの肩におさまる。
「覚えておきましょう」
「恐れ入ります」
艶やかな女王の微笑みに、ハナは精一杯、優雅な所作で一礼した。
ハナの傍らに立つ宰相や兵たちはもとより、嘲笑をなげかけた 『ぼんくら』 どもは二人の女のやり取りをポカンと眺めているだけだった。
水華蓮は女王・玉蓮(玉輝皇――ぎょくきこう――)が治める、海に栄えた国である。
高い造船技術は他国の追随を許さず、また、豊富な海産物と天然・養殖の真珠が国益の大部分を占めている。交易は隣国サイカと、海を隔てた北のホウライヌ、東のギルバドであるが、近年さらに交易国を増し、人々の生活水準も高くなっていた。
無論、国が栄えればさまざまな危険も増す。
王都・華蓮を中心に各州の警備にも力を入れていたが、基本的には州候による自治を認め、軍のような機動部隊は州単位で運営されていた。
ゆえに、長い年月の間に各州独自の文化と気風ができあがっていった。
「州によっては軍人の質をあげようと、武道大会など催して人材の発掘をはかっているところもある」
斎兼が言えば、
「だが、王都の軍は宰相閣下の采配で整備されているのだ。精鋭揃いだ」
里応が続けた。
斎兼はハナの右腕を押さえていた男で、四角い顔でギョロリとした目。身長はハナより少し高いくらいだが、筋肉隆々の兵だった。一方、里応のほうは宰相より少し低いくらいで細身。目も細いが眉毛も細い。その代わりに重低音の太い声をしていた。
二人とも女王と宰相の信任厚い近衛兵だった。
言葉が通じたと同時、ハナはとりあえず飛ばされてきたこの世界がどうなっているのか訊きたがった。
それに応え、女王はこの二人にその役目を与えたのである。
爽やかな風が花の香りをどこからか運んでくる。
王宮の庭の一郭にある東屋で、三人は中央の円卓に広げられた地図を囲んで座っていた。
真剣な顔で聞きながら、ときおり質問を投げかけてくる異邦人を二人の兵は感心したように眺めた。
というのも、この王宮にいる女は世界情勢や政治には無関心な者が多い。勿論、官吏の中には男顔負けの仕事をする女もいるが、たいがいは主人の世話と噂話、そして覇権争いに明け暮れていたのだ。
「なるほど。だいたい掴めた。――ところで、町へ降りて働くとしたらどのくらいお金がもらえて、どのくらいあれば生活できるんでしょうか?」
ハナの言葉に二人は目をむいた。
「おぬし、町で暮らすつもりかっ?」
「入口はどうするのだ、いつ現れるかわからんだろう!」
「それはそうなんですけど、仕事もせずにここにやっかいになるのもどうかと思って」
至極当然の言葉ではある。しかし、異界から突然飛ばされてきて不慣れな町にでるなどと、よくそんな恐ろしいことが言えるものだ。
「おぬしのその心根は見上げたものだ。だがな。町はそう安全ではないぞ」
「うむ。それにな。ここだけの話、おぬしひとり王宮の世話になったとて、痛くも痒くもないのだ。
――お偉いさんの奥方のような豪遊をするわけでもなし」
斎兼と里応は内緒話するように口元に手をあて、声を落とした。
「――待って。奥方の豪遊って……それ、国庫から出てるんですか?」
ハナが不審そうに聞けば、二人はしっかり頷く。
「―――」
あいた口がふさがらない。
政治家の給料が国民の税金から出ていることは小学生でも知っているが、横領などすれば週刊誌だの新聞が大喜びで(?)叩くではないか。それがこの国では公認されているというのか。
「よく、暴動がおきないな……」
「――今のところはな。それに、誤解のないように言っておくが、それはこの国だけだ」
「…つまり、それだけ儲かってるってこと?」
「ま、そういうことだ。――おっと、今日はここまでのようだ」
里応は言って立ち上がる。
見れば、宰相がこちらに向かって来ている。
「斎兼さん、里応さん、どうもありがとう。またいろいろ教えて下さい」
ぺこりと頭を下げたハナに、「こちらこそ」と言って二人は笑った。
近衛兵はとちゅう、宰相と二言三言交わし、敬礼すると颯爽と立ち去っていく。
「…シュリー、疲れた?」
そう言って肩のドラゴンの喉を指先で撫でてやると、シュリーマデビイは気持ちよさそうに目を閉じた。
「ハナ、陛下が晩餐を……」
長身の宰相が口を開いたときだった。
BBB…
ポケットで携帯電話が振動した。
「あっ!」
慌てて引っ張り出して開くと亮兵からだった。
「もしもしっ!」
もう絶叫に近い。
『わっ! そんなデカイ声出すなよ。お前、今までどこにいたんだよ?』
「亮兵! それはあとで! 穴が開いたんだ! 参謀長官どの、ここから会議室ってどうやって行くんですかっ?」
「…こちらだ」
宰相は携帯を耳にあてているハナを見てすぐさま理解したようだ。
身を翻すと誘導するように駆け出した。
「次元の穴が閉じちゃってどうしようかと思ってたんだよ! そんでまあイロイロあって女王様にドラゴンを貸してもらって、この国のことを教えてもらってたんだ! ……ああ、もう! コートが邪魔っ!」
『……何を借りたって?』
「ドラゴンだよ! ちっちゃい竜! シュリーマデビイっていうんだ。むちゃむちゃカワイイの!」
走りながら――もうすでに息が上がっている――電話口で叫ぶと、携帯の向こうから冷静な美声が聞こえた。
『シュリーマデビイ? ……お前ひょっとしてインドにいるのか?』
「は? なんで?」
『シュリーマデビイってのは吉祥天女のことだろう。正確にはシュリーマハデービー。サンスクリット語だ』
「―――ええっ! そうなのっ? このこ女の子なのっ?」
再びの絶叫に、携帯のむこうで亮兵がげんなりと肩を落とした。
『……ソコかよ。まあ、いいや。で? すぐ帰ってこれんのか?』
そのへんに買い物にでも行っているかのような気軽さで問いかけてくる。
「うん、…もう、すぐ着く」
前のほうを走っていた宰相は、青海の間に到着して扉を開けたところだった。
ハナはもう喋らず、ただ必死に走った。
開け放たれた扉に弾丸のように突っ込んでいく。宙空、手を伸ばせば届くところに奇妙な揺らぎが見えた。
「穴だあっ!」
思わず歓声をあげるハナ。あきれたような声音が流れてきた。
『何だかわからんが、よかっ………』
亮兵の言葉はそこで途切れ、通話がきれた。
「――えっ?」
思わず携帯を見る。
「ハナ!」
男の声にハッと顔をあげたハナの目に、あっという間に収縮していく次元の穴が写った。
飛び上がる間もありはしない。
穴は消え失せ、再び、その空間には何も存在しなくなった。
圏外――
「そげなーっ!」
お世辞にも上品とは言いがたい、異邦人の絶叫が室内にこだました。