【海門〔壱〕】
ハナが目覚めたのは日も中天にさしかかろうという頃。隣の寝台をみれば、寝ていたはずの藍華の姿はなかった。
キュルルという愛らしい声に顔を向け、
「おはよう、シュリー。……ずいぶん寝坊してしまったみたいだ」
額に手をあてて苦笑しながら呟く。
思っていた以上に疲れていたらしい。だが、それは無理からぬ、と言わねばならなかったろう。日々、どこかで首を傾げるような事件が発生していたとはいえ、彼女の住んでいたところは、それでもまだ平和であった。そして、王城に転がり込んでいた幾ばくかの日々もまた、表面的には平和であったのである――昨晩、その隠されていた牙が彼女を襲うまでは。
あれから、斎兼、里応の二人と別れて、ハナたち三人は徒歩で海門を目指した。当然、その前にひと悶着あり、ハナを探していた三人は、どこの誰とも知れぬ人間に依頼された、どこの誰とも知れぬ青年――しかも只者とは思えない凄まじい技倆である――を手放しで信用できるわけもなく。疑心満々で猛反対したのである。
「まあまあ。依頼主の真意がどこにあるかはわからないけど、とりあえずこうして生きてるんだし……。それにねえ、言っちゃなんだけど、彼が私を殺すのなら一瞬で済んじゃうよ」
「ハナッッ!!!」
つるりと口を滑らしたハナの頭上に、三人の大喝が落ちてきたことは言うまでもない。
こうしたすったもんだのあと、夜半すぎにハナと藍華は光麟の誘導で早良港に設置されている海門の詰所に辿りついた。バックから青慧の書状を差し出したところ、すぐさま出島の要塞へと招じ入れられたのである。
(青慧さんや参謀長官殿のおかげだな……)
ハナは傍らに置いてあった短剣を手にとり、ほんの少し鞘をずらしてみた。刀身から放たれる清冽な白光を見つめながら、ふと思う。
戦争などで人を殺めてしまった者は、一様に悪夢に苛まれ、凄まじい絶叫を放って目を覚ますのだと聞く。それは人としての良心の呵責に他ならないだろう。だが、なぜか悪夢がハナに襲い掛かってくることはなかった。それは神経を張り詰めていたからか? それとも、己が既に、知らぬ間に人の心を失ってしまったからか……?
背筋が凍るような恐ろしい可能性に身を震わせたとき、手の中の短剣が熱を帯びた。はっとして剣に目を落とす。
それはじんわりと温かく、ゆるやかな波のようにぬくもりを伝えてきた。手から流れ込んでくる波はハナの全身を包み込むように広がってゆく。
――そう……昨晩、眠りの中で感じ取っていたあたたかな、あの熱は――
「ああ……そうか。……ありがとう……。そうだよな……青慧さんがわざわざ持たせてくれた剣だもの……」
それは物言わぬ器物ではあった。だが、彼が 「魔法の剣だ」 と告げたその本当の意味するところは―――。
ハナは、今ようやくその剣を信頼しようと思うことができたのだった。
そして、もう一つ―――
『人に刃を向けたのは、初めてだったのか……?』
数十人の暗殺者を、あっという間に屠ったとは思えないほどの静かな気と言葉――ハナが彼を信用する気になったのは、彼が受けた依頼の内容とか、ましてや技倆とか美貌のせいではない。あの時の、あの言葉があったからだ。
彼はまさしく裏の世界で生きている者だろうということは、理解できる。だが、そんな荒んだ世界に身をおいてなお、あの静けさを保っていられるのは何故なのだろう? そして、そんな不思議な青年にハナの護衛を依頼した人物というのは、いったい誰なのだろう……?
深く思いに沈んでいきそうになったハナは、切り揃えられた黒髪をさらりと鳴らし、頭を振った。
――それは、あとだ。
彼女は寝台から勢いよく起き上がると、傍らにおいてあった衣服に手を伸ばした。――と。
「なんでだめなんだよ、レティ?」
「だって、お客様はお休みなのよ? 女のひとの部屋なんだもの。リュオンだって入っちゃだめ!」
「起きてるかもしれないだろ? もう昼だよ?」
「だめったらだめなの!」
扉の向こうから子供の声が響いてくる。小さく笑ったハナは、手早く身支度を整えて短剣を革帯に差し込むと、衝立を回り扉を開けた。
「おはよう。ひょっとして、起こしに来てくれたのかな?」
いきなり開いた扉に仰天した少年と少女は、部屋から出てきたハナをぽかんと見上げた。
中性的な整った顔立ちと、肩で切り揃えられた短い黒い髪。おまけに旅をするために完全な男装である。かててくわえて、肩にちょこなんととまっている見たこともない生き物……。
子供達が想像していた異邦人の姿とは違っていたらしいのか、ぽけっとして突っ立っている横合いから、静かな青年の声がした。
「昼食ができているそうだ。腹ごしらえをしたら長の元へ案内すると言っている。出られるか?」
いつのまにかすぐ傍まで来ていた光麟がハナに問い掛けた。青年が少年と少女をちらりと一瞥すると、少女のほうは真っ赤になって少年の後ろに隠れてしまった。女の子らしい反応に思わず破顔したハナは、そのまま彼のほうに向き直った。
「おはよう光麟。申し訳ないね、寝坊した。藍華は?」
「寝込まないだけたいしたものだと思うが。……女中は食堂で手伝っている」
「……光麟、女中はないだろ……。とりあえず急ごう。……って。君達もご飯食べるんでしょう?」
なにやらもじもじしている少年と少女に問い掛けると、少年はこくんと頷き、
「あの、僕たちご飯ができたって言いに来たんだ……。あっ、あの! 僕ね、リュオンっていうんだ、そんで、こっちが妹のレイティア!」
「リュオンとレイティアだね。ありがとう。私は矢島ハナっていうんだ。どうぞよろしく」
突然、自己紹介をはじめた少年に笑いかけると、ハナは片手を差し出した。きょとんとしたリュオンはハナと手を見比べる。
「はじめましての、西洋風ではあるけど、挨拶だよ。握手」
リュオンは少し頬を赤らめ、右手を服にこすりつけると、おずおずとハナの手を握った。彼女の手の半分しかない小さな手を、ハナも握り返してやる。
「へへへ」
リュオンは照れくさそうに、嬉しそうに笑った。次いで、少年の背から、半分隠れるようにして差し出された小さな手を握ると、少女はこぼれるような笑顔を見せてくれた。
かねてより、宰相から異邦人・矢島ハナがここを訪れるということは聞いていた。本当は昨日の昼過ぎには到着の予定だったのに、待てど暮らせど異邦人は現れず、夕方になって賊に拐されたとの密使が届いた。
矢島ハナは、守人の一族にとっては、先般の騒ぎ――白竜出現――を引き起こした張本人である。更に、城に出入りする商人が洩らしたのは、この異邦人が実は水華蓮建国王の再誕であるという驚天動地の情報だった。しかもだ。城の背後に鎮座する神祇庁長官・青慧が正式に認めたというのである。
「……建国王の再誕ねえ……どうも眉唾ものだと思うがね」
獅子の鬣を思わせる髪の、重量感たっぷりの筋肉の塊のような男が口をゆがめて呟けば、
「さてな……。神祇長官が認めたって言うのもな……」
長身を白い長袍に包んだ、学者然とした相貌の青年が腕を組む。
「まあ、ほどなくここへ来るのだから、聞いてみればいいさ。最終的な判断は義理父上が下される」
長身に白い長袍を纏ったもう一人が口を開く。こちらは素晴らしいプロポーションの銀髪美女。
そうして、三人の視線を受け止め頷いてみせたのは、守人の一族、海門の長アイオリア・ガナであった。
廊下の向こうから子供たちの声が聞こえてくる。二人、三人ではない。渡り鳥の到来のごとき賑やかさだ。
どうやら珍しい客人が食堂にいるのを覗きに行ったものが、そのまま一団になってこちらに移動してきたらしい。
案の定。
「お爺様! ハナお姉ちゃまが来ましたよ!」
ばあんと元気よく開かれた扉の向こう、三人の若者の足元には二十数人のお供がついていた。
思わず頭を抱えた海門の重鎮たちである。
長身の女が進み出ると、笑いながら子供達を散らしにかかった。
「お前達、ご苦労だったね。もう下へ戻って母さんを手伝っといで! リュオンとレイティアはお婆様の手伝いだ」
「ちぇ、つまんないのー。行こう、レティ」
駆け出した少年の後を追って足を踏み出しかけた少女は、ちらりとこちらに振り返る。そうして何か問いたげに口を開いたものの、兄に引っ張られて廊下の向こうに消えた。
招き入れられたハナたちの前に、執務机についていた老人がゆっくりと立ち上がった。
「ようこそ、矢島ハナ殿。私が海門の長、アイオリア・ガナです」
がっちりとした体格に日に焼けた浅黒い肌とふさふさの白髪。穏やかな雰囲気ではあるものの、鷲を思わせる鋭い光を放つ目が、ハナたちを注意深く観察する。
「はじめまして、矢島ハナと申します。このたびは神祇長官青慧様、宰相ターガナーダ様のお力添えでホウライヌへ渡航させていただくことになり、ご一族の慣例を曲げてお聞き届け下さったこと深く感謝しております」
そう言ってハナはゆっくりと一礼した。
「……こちらが藍華、こちらが光麟です。ホウライヌまで同行してくれることになっております」
「ちょっといいですかい?」
ふいに声が割り込んだ。
「失礼。俺はダレイアスという者で警備隊の束を務めてる。あんたがさっき言った通り、今回は掟を曲げて船を出すことになる。長からだいたいの話は聞いちゃいるが……予定の刻限を過ぎても来ない、挙句、賊に拐されたという使いが城から来た。それからしばらくして現れたあんた達は、運良く賊の手から逃れたと言う。……だがね。普通そんな巧い話があるかい? あんたがホントに矢島ハナだという証拠は、一体どこにあるんだい?」
「な、なんてことを……!」
柳眉を逆立てた藍華が呟いたと同時に、いきなりハナの肩先からひと抱えもあるような火炎が噴出した。
「わっ!」
ダレイアスは仰天して飛び退き、アイオリア・ガナや傍に立っていた白い長袍の男女は無論のこと、ハナの背後に立っていた藍華と光麟も目を丸くした。
「シュリー、落ち着いて。大丈夫だから。……すみません、怪我はありませんか?」
金色の目を怒りに煌めかせて、小さなドラゴンが短く鋭い声をあげる。異邦人はダレイアスに謝罪しながら、なだめるようにその体を撫でてやる。ドラゴンは甘えるように小さく鳴いて頭をすりつけた。
その様を呆然と見つめていた中、アイオリア・ガナが静かに言った。
「ご無礼をお許しください。……ダレイアス、この方は正真正銘、矢島ハナ様だ。……その竜は、ターガナーダ様のもとに居たものでございましょう?」
「ええ、そうです……参謀長官……あ、いや。宰相に会われたんですか?」
驚いたように問うハナに、老人は穏やかに笑いながら頷いてみせた。
「……あの時、白竜を呼び出した方に会わせて欲しいとお願いしましたが、青慧様に、貴方はもうご自分の世界に戻ってしまったと言われたのです」
そこで今更ながらに思い出す。
そう。彼女があの白竜を現したとき、青慧は何らかの騒ぎを予感していたがために、彼みずからがハナを元の世界に戻してくれたのである。にも関わらず、兄と亮兵の制止も虚しく再び次元の穴に放り込まれた彼女は、水華蓮と守人の一族の動き、そして、向かおうとするホウライヌの暗黒世界からの瘴気が、こともあろうに宰相の祖国を真っ先に襲ったのだということを聞いたのだ。
「……私が出してしまった白竜がきっかけで、水華蓮やホウライヌの一族の方々を騒がせてしまったことは、青慧さんに聞きました。……謝ってすむことではありませんが、本当に申し訳ありませんでした」
頭を下げる異邦人を押し止め、長はいくぶん口調を改めて問い掛けた。
「矢島様。それはもう済んでしまったこと。ただ、私たちが心配しているのは別のことです。……ホウライヌの……」
ハナは顔をあげ、まっすぐにアイオリア・ガナの目を見つめた。
「……暗黒世界のこと、ですね?」
ハナは博士や青慧、宰相から聞いたことをかいつまんで話した。勿論、白竜出現はなんのために行われたのかということもだ。藍華や、まして光麟などは寝耳に水の話であったはずだが、二人は一言も口を利かずハナの後ろに静かに控えているだけだった。
そしてひととおり話し終えたハナだったが、あることを思い出し、逡巡しつつ口にのぼせた。
「……あと、ひとつ……これを言うと、参謀長官殿にはめちゃくちゃ叱られそうだけど……」
「……何なりと。この者達にも口は閉じさせておきます」
アイオリア・ガナが脇に控えている三人に目をやり、彼らが了解の意を示したのを確認してから、ハナは宰相の生国が真っ先に瘴気に汚染されたことを語ったのである。
「何ですと?!」
さすがの長も驚愕の声をあげた。彼女は慌てて首をふる。
「あ、いえ。私もよくは知らないんです。詳しく教えてもらえなかったんですが……でも。どうも、ひどいことになってるようなんです。それで、あのう……私がこんなことを言うのも何ですが、どうか、あの人の力になってあげてくださいませんか。……あんまり嬉しそうな顔はできないと思いますけど、あのひと」
至極真面目な顔で、最後に付け足された言葉に思わず吹き出したアイオリア・ガナは、何度か見た鉄面皮の青年を思い浮かべて深く頷いた。
「……そうでございましょうな。ご心配なさいますな。もとより、我らは竜王の眷属と自負しております。ローブミンドラの皇子をお守りするのは、当然のことです」
長の目に真摯な光を見出し、ハナは嬉しそうに笑ったのだった。その、少女のような笑顔を見たからか、老人は思わぬ茶目っ気を披露した。
「鉄仮面の異名をとる宰相閣下ですが、貴方様のことをお話しになった時だけは、私の孫娘が見惚れてしまうような笑顔を見せてくださいましたぞ」
「……え……? は? あ。いや、その……そうですか……それは、どうも……すみません。じゃなくて……えと……」
不意の攻撃をくらって、みるみる顔に朱をのぼらせたハナは、わけのわからないことを口走る羽目になったのである。




