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虚空の鑑  作者: 直江和葉
37/73

【心。決。】


 「依頼……って、誰に?」

光麟(こうりん)と名乗った青年の、月の精霊のような美貌を見つめ、ハナは怪訝そうに訊いた。だが、彼は無表情のまま、

「依頼主を口にすることは禁じられている」

と事務的な返事をした。

この返答は予想済みであったので、別のことを訊ねる。いま最も重要なことを。

「……君も私を殺せと言われて来たの?」

「いや。ホウライヌのその先まで、あんたの護衛をしろというのが依頼だ。俺はそれを受けてここへ来た」

道中で殺せ、というものではなかったらしい。凄まじいばかりの手腕(うで)を目にした後で、こんな美青年が護衛についてくれるなんて、と素直に喜ぶほど能天気ではない。ハナは彼の心中を量ろうとしたが、静かな目が返ってくるばかりで何も読み取ることはできなかった。

(……得体はしれないし、誰に、なんの目的で護衛を依頼されたのかもわからないけど……とりあえず生きてるうちに一度、青慧さんの所へ帰ったほうがいいかも……)

そうすれば、この青年についても何かわかるかもしれない。

そこまで考えたとき、握っていた薙刀が振動し、あっというまに短剣へと姿を変えた。

「あれ」

同じくして、キュルルという声がし、大衣(コート)の襟からシュリーマデビイが顔を覗かせた。

「……っ!?」

傍らの青年が黒い目を瞠って、彼女の手の短剣と鮮やかな緑色のドラゴンを見つめる。ハナのほうは彼の様子に気付いたふうもなく、肩に乗っている小さな生き物に苦笑した。

「シュリー、まだ外は見ないほうがいいよ。屍のやま……うっ……」

突然、彼女は吐き気をもよおし、慌てて死体の転がっていないほうへ走ると激しく嘔吐した。

生命の危機をとりあえず脱した安堵感からか、改めて見遣ったあたりの景色は――月明かりの下とはいえ目を覆うような惨状である。これが白昼であったならば、死体に混じって気絶していたかもしれない。

胃の中のもの全部が吐き出され、胃液しか出てこなくなっても、まだ吐き気はおさまらなかった。

この嫌悪感は、惨状を目にしたからだけではない。彼が助けてくれなければ、慰みものにされた挙句ここに死体となっていたのは自分なのだ。

そうではなく――。


殺してしまった。人を――己のこの手で。

自分が生き延びるために。

その事実に、目の前が真っ暗になる。

苦しさ、哀しさ、やり切れなさ……そんなものがない交ぜって彼女の心を千々に乱した。


そうして、しばらくへたりこんで荒い息を繰り返していたハナの前に、つい、と水筒が差し出された。

「……口をゆすげ」

「ありがとう……」

水筒を受け取って口中を清めるハナに、静かな声がかかった。

「……人に刃を向けたのは、はじめてだったのか……?」

「…………うん……」

「そうか……」

それきり光麟は口を開かなかった。

その沈黙が、今のハナにはありがたかった。



 煌々と輝く月の下、石畳を黙々と歩いているうちに少しずつ落ち着いてきた。薙刀を振るったときの感触も、刺客たちが次々に倒れていく映像も、脳裏にこびりついて消えそうもないが、それでも、生きていて良かったと思う。少し先を歩く青年のすらりとした姿に目をやり、彼女は、はたと気がついた。

「忘れてた!」

彼女の呟きが耳に届いたのか、光麟が足を止めて振り向く。ハナは歩みを速めて彼に近寄ると、

「頭ん中がぶっ飛んでて言うのを忘れてた。助けてくれてありがとう」

ぺこりと頭を下げた女を、光麟は珍しいものでも見るように目をぱちくりさせた。

「……あんた、変わってるな」

「え?」

「変わってる……」

言ったまま、彼はまた歩き出した。

しばらく、言われたことを反芻していたハナは、肩にとまっている友に囁いた。

「……私、そんなに変わってるかな?」

碧のドラゴンはくすくす笑うような小さな鳴き声をあげた。


 それからほどなくして、ぽつねんと佇む馬車が見えた。

「あっ!」

見覚えのある馬車に、ハナは光麟を追い越して駆けて行く。二頭の馬はいつまでたっても帰ってこない主を待ちくたびれたのか、てんでに首を伸ばして草を()んでいたが、駆けてくる足音に頭をあげると鼻を鳴らした。

間違いない。自分が乗ってきた馬車だ。

「……神殿の紋章……やはり偽装か」

光麟は呟き、馬車の扉に描かれている紋章を短剣の先で引っ掛けた。剥がされたそれは、薄い布地に神殿の紋章を染めたもの。

「……へえ、ぴったり貼ってあったにしては塗装が剥げてないね。あんまり粘着力がないのかな……?」

光麟の手元を覗き込んで、馬車と彼の手にある布を交互に見遣る。触ってみた布はしっとりとしているが紙に使う糊のような引っつき感はない。扉のほうは木で作られ厚く塗装されている。更にニスのようなコートをかけて表面を滑らかにしてやれば、こういったものも貼り付けられるのだろう。

興味深そうにしげしげと観察している女に、光麟が口を添えた。

白巻草(しろまきくさ)を煮詰めて作った糊だ。これを二、三回布に塗ってやれば水の幕ができて平らな面になら何度か使える。貧乏貴族が馬車を借りるときに、家紋を染めつけた布地をこの糊で馬車に貼り付けて、一応の体面を施すという使い方がもっぱらだ」

「へえ、便利だね! しかし見栄っ張りだね」

ハナの感想に思わず吹き出した青年は、貴族とはそんなものだと付け加えた。

 神殿へ一度戻りたいと言ったハナの言に、彼はあっさり頷くと御者台に座り、ハナは中へ乗る。小窓をあけ、流れていく木立の向こうに町の明かりが見え隠れした。森が切れ、眼下に広がるのは夜も更けてきたというのにあかあかと煌めいて広がる扇型の町。

――だめだ。黙っていると気が滅入ってくる。

ハナは小窓から顔を出し、光麟を見上げた。

「光麟君。お城の神殿まではどのくらい? ……ていうか、ここはどこらへんなの?」

「……光麟でいい。神殿はもう見えてる。ここは裏手にあたる山脈の入り口だ」

青年の返答に、えっと声をあげる。

では、何時間もいったい何処を走っていたのだ? 神殿を出たのは正午前だ。それから馬車を降りたころにはとっぷり日が沈んでいたのである。

額を押さえて唸ったハナに、光麟は淡々とした声音で言った。

「ぐるぐる回って時間稼ぎをしていたんだろう。この辺りは人が入ることはまずないからな……誰か来る。中へ入ってろ」

ハナは慌てて首を引っ込め、小窓を閉めた。指一本分の隙間をあけて外を覗う。光麟は馬車を急がせるでもなく進めていたが、

「そこの馬車、止まれ!」

男の大きな声が聞こえ、静かに馬車を止めた。

(どこかで聞いたような……)

はて、と首を傾げている間に、ばたばたと駆けてくる足音がして響き渡ったのは重低音の美声。

「近衛隊のものだ。馬車の中を……」

「里応さんっ!?」

男が言い終えるまもなく、ハナは思い切り扉を開け放った。

「ハナっ!」

「ハナっ? 無事だったかっ!」

「ハナ様っ!」

馬車から飛び出してきたハナに仰天する里応、四角い顔をほころばせた斎兼、そのあとから藍華が飛び出してきて、四人は再会に手を取り合ったのだった。


 「……というわけでね、危ないところを彼が助けてくれたんだ」

ハナは今までのいきさつをかいつまんで説明したあと、いつのまにか御者台から降り、自分の傍らに立っていた青年を紹介した。

案の定、三人は青年の美貌に唸り声をあげた。

「……そのう、ハナ。言ってはなんだが、信用できるのか、こやつは?」

「おぬしを誑かすために雇われたのではあるまいな? 一体こんな細っこい体つきで護衛がつとまるのか」

もっともな近衛たちの言に、ハナは苦笑した。

「信用できるかどうかは、正直わからないけど、誰かに護衛するよう依頼されたらしいんだよ。それに、私を誑かして何の得があるのかわからないけど……」

「誑かせとは言われていない」

ハナの視線を受け、光麟は淡々とした無表情で応えた。

その青年の態度を鼻持ちならないと思ったのか、斎兼が柳眉を逆立てる。

「貴様……」

「まあまあ。そのう……お二人が言うのも尤もだけど、実際、彼は強いよ――ああ、現場を見てもらったほうがいいかも。私はもう行きたくないけど」

だが、近衛の二人としてはいきなり現れた青年を信用するわけにもいかず、かといって斎兼か里応のどちらか一人残して、何かあってもいけない。すったもんだのあげく、結局、馬車に乗って全員でまたあの場所へ行くことになったのである。

そして――。

近衛の二人と、ハナの静止もきかず 「私も知っておかなくてはいけません」 と言って馬車を降りていった藍華が見たものは………三人は、やがて月明かりの下でもわかるほどの蒼白な(おもて)を、ハナとその傍らに立つ青年に向けたのだった。

「……なんだか、違う意味で前途多難なような気がしてきたんだけど、気のせいかな……?」

「……さてな」

溜息混じりのハナの言葉に返ってきたのは、やはり淡々とした声だった。

 

 御者台には光麟と斎兼。馬車にはハナ、藍華と里応が乗り込んだ。

里応は王城の貴族の動きをかいつまんで説明してくれた。

「……なるほど……」

ハナは頷き、溜息をつく。

伝説の王と祭り上げられた者が、例えば暗黒世界から無事に戻ってきたら……彼等はおそらく、ハナが玉座を簒奪するのではという懸念を抱いたのだ。ならば、今夜のこともほどなく知られるだろう。そうすれば、また別の刺客が差し向けられる。大人しく殺されてやるわけにはいかないが、どうやら死んだと思わせるほうが得策のようだ。

ハナは考え込んでいたが、ふと肩にいる小さなドラゴンに目を遣り、その金の目と視線を交わしたとき―――。

「光麟。馬車を止めて」

ハナは扉を開けながら言うと、馬車が停止する前に外へ飛び出した。

「おい、ハナ……っ?」

仰天して叫ぶ里応と、御者台から飛び降りる斎兼が慌てて駆け寄って来る。彼女はいきなり腰の短剣を抜き払った。

白銀の光が闇を薙ぐように走る。

「ハ、ハナ、何を……っ!」

「動かないで……すまないが、緑の竜は私がもらっていく。そして、ここでお別れしよう」

「おぬし……っ?」

斎兼と里応、藍華は言うに及ばず、光麟でさえ、彼女の豹変に瞠目していた。

「参謀長官殿と女王様には申し訳ないけどね。この子がいてくれないと困るんだ。だから、奪っていくよ」

剣先は微動だにせず二人に向けられている。

もとより、彼らは今の今までシュリーマデビイの存在を忘れ果てていたのだ。しかも、この生きものがどんな意味を持つのか近衛兵ごときが知ろうはずもない。だが、それをわざわざ敢えて口にするということは……

唖然としていた二人の近衛は、ハナの意図を悟り苦笑した。

「……逃亡するということか」

「それでもいい。そしてあなた方二人は、シュリーを奪おうとした異邦人をやむなく殺した……あるいは、間に合わず新たな刺客に殺されていた……それだと、咎められる? 理由は何でもいいよ。でも、そうだな。何か証拠がいるな……この国では髪はどのくらい重要な意味をもつかな? 特に女性は?」

二人は今度こそ血相を変えて彼女を制止した。藍華は悲鳴をあげ、光麟も瞠目する。

「つまり、それほどに重用なものだということだね」

ハナはその様子に頷き、にやりと笑う。白刃がギラリと月光に反射したときには、男たちの耳に総毛立つような音が響いた。

「ハナ様っ!」

「ハナ!」

悲痛なほどの悲鳴をあげた藍華と、蒼白になって立つ二人の前、ハナの肩先でぶっつりと切られた髪が、月光に煌めきながら風にさらさらと鳴った。

「……十数年ぶりに切ったなあ……軽くなった」

そう言って笑った彼女は驚くほど幼く、あどけなく見える。目の前の女が突然、少女に摩り替わったような錯覚をおこして動揺する男たちに、ハナは無邪気な笑顔で切った三つ編みの髪を差し出した。

「そんな顔をする必要はないよ。私の世界では髪の長短は趣味だからね。あなたがたよりもずっと短い髪の女性もいる。この先、何度も刺客に襲われるのはごめんだからね。これで私が死んだと思われるならこんな都合のいいことはないんだ。――というわけで、コレ、持って帰って?」

ずい、と差し出された黒髪は今にも動き出しそうで……

かれらは、ただただ絶句して立ち竦むばかりだった――――。






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