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虚空の鑑  作者: 直江和葉
35/73

【羽翼已成】


 音が変わった。

馬車を牽く馬の蹄と車輪が、石畳から舗装されていない道へ入ったのだ。

(……これは、やはり……)

ハナは大衣(コート)の中で両の手を握りしめた。

神殿を出る頃に何か妙だとは思った。罠かもしれないと思ったのは馬車に乗ってからだ。そして今、馬車が道を外れて確信した。

おそらく、極秘裏に進めなければならないことを逆手に取られたのだ。青慧も、彼の副官達もだからこそ日々の勤めを疎かにするわけにはいかず、その隙をつかれたのである。

 海門と城とは目と鼻の先にある。しかも、城から早良港までの道程は大通りを真っ直ぐ進んだところにあり、馬車などいらぬ距離だ。だが、宰相が言ったように殺しのプロが雇われているなら、人ごみにまぎれてハナを殺害することなど造作もないだろう。返ってそのほうが足がつきにくいかもしれない。だから、罠だと断定するのに躊躇した。

それでも。馬車に乗る前に、なぜ機転をきかせられなかったのか。忘れ物とか何とか言って、神殿に戻れば何か手が打てたかもしれないのに……。

ハナは己のうかつさに憮然として心中呟いた。

(ヘンゼルとグレーテルのちびっ子でさえ、手がかりを残していったというのに……)

これはもう、己の至らなさが招いた災厄にほかなるまい。

ただ、青慧や一緒に来るはずだった藍華、そして海門まで付き添ってくれるはずだった兵に危険が及ばなければいいが……。


 頭の隅で鳴り響く警鐘に呼応するように、腰に吊るした剣が熱を帯びてきている――ような気がした。




 日が沈みつつある宵の蓮の刻。再び宰相の執務室に神殿からの使いが訪れた。

「神聖ローブミンドラ王国より、宰相閣下に謁見の申し出が入ってございます」

彼はゆっくりと、よく透る声で告げると宰相の返事を待った。

ターガナーダの執務室には、筆頭補佐官である峰牙をはじめ数人の官吏が勤めている。彼らは、不気味な沈黙を守っている上司と使いの神官を交互に見遣り、息を潜めていた。

執務室は息苦しいほどの重圧がかかっている。これは比喩でもなんでもない。頭を巨大な手で押し付けられているような力を実際に感じるのだ。この重圧の発生源は他でもない。青銀の瞳と群青の髪を持つ青年宰相である。

だが、驚いたことに神官は一向に気にした様子もなく飄々として佇んでいる。それもそのはず。彼は青慧の補佐官なのであって、いかな宰相宛てとはいえ使いに立つような人物ではない。それを敢えて、青慧はわざわざ自分の補佐官を遣わしたのである。

つまり、必ずターガナーダを奥殿に連れて来いということなのだ。

その、蒼い貴人の思惑を知ってか知らずか――しばらくして、印を押し終わった書類を決済箱に放り込むと、宰相は青銀の目を神官に向けた。

「……ローブミンドラの、誰から?」

「はい。前宰相バーダバグニ様からと、ローブミンドラ王国大神殿神官長とおっしゃる方でございます」

先日、青慧に告げられた面々である。まばたきほどの沈黙のあと、宰相はごくわずかに唇に薄い笑みを刷いて呟いた。

「バーダバグニは既知の人だが、一方は大神殿神官長だのといって名も告げなかったわけだな。……名乗りもしない者に応えてやる必要はあるまいな」

神官は応える代わりに軽く一礼してみせる。

ターガナーダはゆったりと立ち上がり、

「私の祖国の神官というものは、他国への礼儀も忘れ果ててしまったようだな。青慧殿には私から謝罪せねばなるまい。……峰牙、あとを頼む」

一見、穏やかとさえいえるような言葉だったが、その声音は底冷えするような響きをともなっていた。

「かしこまりまして」

執務室を出て行く宰相に、巨漢の筆頭補佐官は神妙な顔をして一礼した。

官吏たちは重圧から解き放たれ、ほうっと大きく息をついた。気遣わしげな目で主の消えた扉を見ていた峰牙は、ふと彼の机に目を落とし……

(……うわっちゃあ……)

白い紙の上、無残にへし折られた筆が転がっていた。


 夕暮れに浮かび上がる白い神殿。夜の帳にすべてが飲み込まれようとしているなかで、なぜかその白い玉石は淡く光を発しているかに見える。

王城から石畳をまっすぐ駆けてきた馬車が門をくぐり、静かに停まると控えていた神官がさっと扉をあけた。

補佐官に続き、宰相が馬車から降りてくる。扉を開けた神官が恭しく一礼した。

「お帰りなさいませ、香芯(こうしん)様。ようこそお越しくださいました、宰相閣下。どうぞこちらへ。青慧様がお待ちでございます」

 神殿内は、昼間の騒ぎでぴりぴりとした緊張をはらんでいた。何しろ女王の客人が賊に(かどわか)されたのだ。神殿の威信にかけても犯人を捕まえなければならないし、その賊の仲間がまだ内部にいる可能性もある。永く寝食をともにし、神官としての勤めを果たしてきた(ともがら)が賊の仲間かもしれないという恐れは、神官たちに少なからず動揺を与えた。

だが、さすがに奥殿はひっそりと静まり返り、落ち着きを取り戻している。灯火された燭台が一定間隔で通路の壁に並び、歩くものを導く。

「青慧様。宰相閣下をお連れいたしました」

香芯は官長室の扉を静かに叩いた。

「お入りなさい。――ご苦労でした、香芯。下がってよろしい。宰相はどうぞ、こちらへ」

一礼して退出する神官にターガナーダは礼をのべ、官長室に消えた。

 青慧の執務室から突き当たりの角を一つ曲がった先、香芯が私室に入ると、まだ顔に幼さを残している少年が笑顔で迎えた。

「お帰りなさいませ、香芯様。……っ! 香芯様っ?!」

少年は突然その場にくずおれた主に仰天して駆け寄る。香芯はしばらく荒い息を繰り返し、苦笑を浮かべた。

「……騒ぐな。大丈夫だ……」

少年の手を借りて、長椅子にもたれた香芯はふう、と大きく息をついた。

「ただいまお茶をお持ちします」

少年はさっと身を翻し、隣室に入っていく。

「ああ。頼むよ、陽舜(ようしゅん)。……なるほど……。あの方も只者ではないということか……」

後半は小さな呟きだった。

正直、驚いていた。

青慧に宰相への言伝(ことづて)と神殿への案内を頼まれたとき、訝しく思った。そんなことは表の神官の仕事だからだ。だが、彼の内心を察したのか、青慧は苦笑して言ったものだ。

『他の者では務まらないからですよ。私が行った方が早いのですが、こんな騒ぎの中ですからね。いま、彼ら(・・)にいらぬ警戒心を起こされると困るのです』

青慧はすでにこの件の首謀者を割り当てたらしい。

ローブミンドラから宰相への要求は口上で伝える。宰相は自国の不躾な神官の尻拭いをするために神殿に赴く……宰相の周辺で聞き耳をたてる輩にはそれだけのことだ。

貴族は香芯の顔を知らぬ。だが、宰相は彼が青慧の副官であることを知っている。

香芯が赴くことで、青慧の深意が伝わる。つまり彼は、宰相への顔手形だったのだ。そして、それ以上に――。

「香芯様。どうぞ」

少年がそっと湯呑みを差し出した。

「ありがとう、陽舜」

起き上がり、湯呑みを受け取った香芯は、ゆっくりとその柔らかな芳香を味わった。満足そうな顔の主を見上げ、にっこりした少年は、すぐさま眉を曇らせる。

「なぜ香芯様がお使いに行かねばならなかったのですか? 言伝をお城に届ける者は他にもいらっしゃるはずなのに……」

少年は自分の主が不遇を買ったと怒っているらしい。だが、香芯はそれを諌めた。

「陽舜。これは私にもいえることだが、よく覚えておくんだ。地位というものに、惑わされてはいけない。私はこの神殿を率いる青慧様の副官であるという地位を預かっている。役職にはそれなりの箔もつく。その役職に連なるものは、自分に敬意を払ってくれるだろう。その敬意は、役職が持つ「責任」に向けられているのだよ。だから、それを己の「ちから」であると勘違いしてはいけない。今回のことで、私は自分の中にそういう傲慢の芽を見つけてしまったのだ……青慧様はそれを見抜かれていたのかもしれないね……」

――自分の持つ「役職」に対する驕りと、そして、宰相に対する侮りが、少なからずあった。彼は、自嘲の笑みを洩らしたあと、

「多少、他のものより修行を積んだとはいえ、宰相閣下の発せられる『気』に対して、立っているのがやっとの有り様だ……あれをまともに喰らったら、欲に呆けた貴族たちは石になってしまうかな?」

誰に言うともなく呟いた香芯の声音に、楽しげな響きが混じっているように感じたのは、陽舜の気のせいだったのだろうか……?



 蒼い法衣の神官が開口一番に言ったのは。

「宰相。もう少し気を抑えて下さらなくては困ります。私の副官が寝込んでしまったらどうしてくださるのですか」

ターガナーダは、彼にしては本当に珍しいことに、きょとんとして青慧を見つめ返した。

何を言われているのかさっぱり理解していない顔である。

青慧は額に手をあて、大仰に嘆息してみせた。

「まったく、もう。ご自分がどれだけのお力を持ってらっしゃるか、まだお分かりでないのですね。……まあ、無理もないですが。だからこそと言うべきなんですかねえ……? あの国王ときたら、まだ幼い貴方を見た瞬間に恐怖でガチガチでしたからねえ。結局、猜疑心が猜疑心を生んで、彼自身を狂わせることになったんでしょうねえ……」

後半はのんびりとした思い出話のような口調だった。ために、宰相はあやうく聞き流してしまうところだったのだ。

「幼いって……えっ? 私は以前にも青慧殿と……?」

「おや! 覚えてらっしゃらないとは薄情な――なんてね。仕方ありませんよ。当時、貴方はよっつか、いつつだったはずですから。……水華蓮国次代宰相の宣旨は、国王とあちらの神官や執政官、そして私の立会いのもとで行われたのですよ」

その時のターガナーダの顔といったら――。

悪戯っぽく微笑んでいる神祇官長に、何度か口を開きかけては閉じるという珍しい失態をみせ、

「そ、それは、誠に、その……たいへん、失礼を……」

切れ切れの言葉をようやく吐き出したのだった。


 「……というわけで、事件の首謀者は鄭海(ていかい)とその一派であることには間違いありません。そして、神官が数名、消えました。今、消えた者の身元を一応確認させてはおりますが……」

「……詐称していると……」

「ええ。その可能性のほうが高いでしょうね。並行して、現在神殿にいる神官たちの身元を確認しております。一斉に」

いま神殿の神官たちは互いに互いを疑っている状態だ。青慧の腹心たちだけでは、どうしても網の目が大きくならざるを得ない。だが、彼らの心理を利用して大々的に――つまり全員が全員を監視させるよう仕向けてやれば、青慧らも動きやすくなる。おそらくそういうことだろう。

「宰相にはしばらく我慢していただきたいのですが」

青慧はにこりと笑ってターガナーダを見遣る。

「何をです?」

「しばらく……そう、ハナ様がホウライヌへ旅立つまでは、鄭海をそのままにしておいていただきたいのです――ああ、ほらほら。ソレ。今後のためにも、貴方はもう少し感情操作を覚えなくてはいけませんよ。気は上手く使ってこそ効果をあげるというものです。今のままでは、ローブミンドラの老獪な執政官たちに負けてしまいますよ」

青慧はくすくす笑いながら、宰相の肩を軽く叩く。

王城では鉄面皮の宰相と――無論、いまも宰相の顔には表情らしいものは浮かんではいない。だが、秀でて強い気は相手に脅威を与えると同時に、こちらの内心を筒抜けにしてしまうものでもある。交渉時に手の内をみられてしまうようでは、もはや交渉ではなくなってしまう。

それは、彼にとって両刃の剣であることを示しているのだ。

「……申し訳ありません」

ターガナーダは素直に詫びた。

「……ハナ様がご心配なのはよくわかりますよ。ですから、敢えて申し上げますが、あの方は大丈夫ですよ」

きっぱりと言い切った青慧を、宰相は訝しげに見つめる。

確かに彼女は武術のこころえがある。だが、相手は神官とはいえ、はたして一人で立ち向かえるのか? いや、まて。

「……青慧殿……鄭海が市中の暗殺者をたのむことは……」

「確実でしょうね。金で雇われたとはいえ、契約がすんでも玄人は依頼主を口にはしません。手を汚さず、目的の人間を消すならもってこいの存在でしょう。ただし、普通の人を殺すならね」

「………?」

「ハナ様には魔法の剣をお渡ししてありますから」

どこか楽しげに軽い調子で言った青慧に、宰相は思わず怒声を発するところだった。だが、

「衡漢王の剣は、生きているのですよ。主を守るためなら勝手に鞘走ることぐらい朝飯前です」

「青慧殿……」

自信満満に告げる青慧に、ターガナーダは絶望を感じるほどだった。手をこまねいていた自分が憎らしくさえ思える。しかし、このヒトとも思えない人物が、何故そんなあやしげな古い剣をこれほどまでにたのむのか。

「青慧殿。いま一度お聞きするが……彼女は、剣を使ったことはないのです。人を切ったことも。事至っても鞘から抜かぬかも……いや、剣の存在を忘れるかもしれないのです。貴方が魔法の剣だと仰るそれは、それでも、彼女を守るというのですか……?」

ターガナーダの青ざめたような顔を、まるで聞き分けの無い子供を見るような目で見つめると、

「当然ではありませんか。あの剣は、そもそもハナ様のものですからね」

青慧はにっこりと笑った。





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