【王の剣】
突然、店先に寝ていた子猫が飛び起きるようにして跳ねた。子猫はふるっと身体をひとつ振るわせ、港のある方へじっと目を向ける。
「トーラ、どうした?」
傍に座っていた老人が子猫に声をかける。小さな猫は 「にゃー」 と一声あげると甘えるように老人に擦り寄った。
老人は子猫の微妙な変化を訝しげに思い、通りに目をやったが、いつものように賑やかな町並みがあるだけだった。
「……夢でもみたか?」
よしよしと子猫を撫でてやった。
「む?」
地中を駆け抜けていった振動に、鍋をかき回していた手が止まる。フードの頭がこころもち上向けられ、鉤鼻と皺深い口元が覗いた。
「……なにか……」
呟いたとき、脳裏に映像がよぎる。
深く、日の光も届かぬほど深い水の中。それは凄まじい勢いで進んでいた。残像のように淡い光が流れ、消えていく。光はどうやらそれから発せられているらしい。ボコボコと吐き出された気泡が光を受けて煌めくと、ゆっくりと上へあがっていった……
「………さて。思うたより事は早そうじゃ……。花の都の蒼き御方も動かれたか……」
笑い含みのしわがれた声は老婆のものだった。よっこらしょと立ち上がった身体はずいぶんと小さい。皺だらけの手が天井から垂れ下がっていた紐を二、三度引っ張る。
ほどなく、少女が扉を開けた。
「いかがなさいましたか、大婆さま?」
「アレシア。長老を呼ぶのじゃ。それから、ムラト、サンダー、ゲオルゲの三人組もな」
少女は元気よく返事をして庵から飛び出すと、深い森の中を駆けて行った。
ホウライヌへ旅発つのは三日後となった。海門の守人の一族に海を船を出すよう尽力してくれたのは宰相らしい。青慧は海門まで同行するものを吟味している最中で、それは当然のことながら極秘裏に進められていた。
そして、先日、神殿に押しかけてきた藍華はハナの同行者として青慧に認められた。これにはハナの方が難色を示したが、藍華は強く希望し、かつ同行する者として相応しい力量を示した。
彼女は武芸の達者だったのである。
衛兵の一人をテラスに呼んで、藍華と兵との手合わせを見たのだが(無論、ケガをしないよう得物は棍棒で行われた)、武術道場の跡取りであるハナをして驚嘆せしめたほどの腕前だったのだ。
これほどの武術の腕前ならハナの足手まといとなることもなく、かつ、こまごまとした身の回りの世話もできるだろう。満足そうに頷いた青慧はハナの同行者として認可を与えたのである。
奥殿の一角にあるひと気のない踊り場は、天井が高く面積も相当なものだった。大きな玻璃の扉を開け放つとテラスに出る。
ハナの手刀が空を切り裂いた。間髪いれず蹴りが弧を描く。
流れるような動きながら、鋭く、たわめられた力を感じさせる。
道場の跡取りとはいえ、敬愛する兄の力量にはほど遠いと自覚しているハナである。ここのところの騒ぎで鍛錬を怠っていたのだが、女二人で海を渡り、北の大陸ホウライヌへ行かねばならないのである。自分こそ藍華の足手まといになるかもしれないという忸怩たる思いに突き動かされたのだった。
素手の鍛錬の後は棍棒、その後は模擬刀とこなし、やっと休憩に入った。
「……兄さんがいてくれたら、もっといろいろ教えてもらえるのに……」
ぶつりと洩らしてしまった独り言に、笑い含みの穏やかな声が応えた。
「ハナ様のお兄様はそれほどの武芸の達人なのですか?」
びっくりして振り向いた先、蒼い法衣の神祇官長が立っていた。ハナは独り言を聞かれてばつが悪そうに笑い、それでも嬉しそうに頷く。
「兄は、私など足元にも及ばない人です。だれよりも尊敬している人です」
「それはそれは。ハナ様がそれほどまで心酔なさっている御方ですか……私も一度お会いしてみたいものです。……ところで、少しお時間をいただけますか?」
踊り場から出て、長い廊下を歩き、いくつかの角を曲がり、階段を上がって……そうして青慧に連れられて来たのは、ハナが一度も入ったことのない部屋だった。
棚が何十も立ち並び、冊子や巻物がぎっしりと詰まっている。紙のものか独特の匂いがした。
「ここは水華蓮に伝わる古文書や、代々の神祇官長が書き溜めたものが納められています」
青慧は部屋の奥に設けられた祭壇にハナを誘い、ごく微かな声で何かを呟いた。途端。
ずずず……
祭壇が重い音をたてて奥へと引っ込んでいく。そして後退が停まったとき、ゆっくりとそれが回転した。
「あ……」
現れたのは通路、そしてその奥に一つの扉があった。
神祇官長はハナの手をとり、その通路へと入った。わずかに風を感じる。天井は見えず、真っ黒な闇がおそらく上へと続いているのだろう。青慧が懐から出した鍵を差し込むと、かちりと微かな音がして扉が開いた。
どういうわけか、部屋に入った途端にぽっぽっと明かりが灯り、大きくもないその部屋を淡く照らし出した。
何もない部屋……ただ、正面に祭壇がしつらえられ、そこに一振りの長剣が寝かされていた。
青慧は祭壇に近づき、恭しく剣を捧げ持つとハナに向き直った。
「……ハナ様、これをお持ちください」
「え……でも……」
差し出された長剣と青慧を見比べながら、ハナは当惑した。
どう考えても、ただの剣ではない。こんな神殿の奥深くに安置されているようなものは、たいがい国宝に決まっているのだ。果たして。
「これは、ハナ様が持つべき剣です。……その昔、建国王・衡漢が竜王よりつかわされた伝説の剣だと言われています。建国王の再誕として旅立つなら、これが必要でしょう?」
青慧はにっこり笑って剣を差し出す。
ハナは眩暈をおこしかけた。
彼の言うことはわかる。はったりでも衡漢王の名を騙るなら、この剣は大きな力を発揮してくれるだろう。だが、何があるかわからないのに、こんなものを借りて返せなかったらどうするのだ。それ以前に、そんな大昔の剣を衡漢王の剣だと言って誰が信じるのだろう? それに………
「まあ、この剣を見たところで、建国王の剣なのか誰にもわかりはしないですけどね」
青慧はいとも簡単にハナの懸念に応えた。何と言うべきか口を開いたり閉じたりする異邦人を面白そうに眺め、ふと笑いを納めると真面目な声音で言った。
「この剣をお渡しするのは理由があるのですよ。……これは魔法の剣ですからね」
「…………は?」
このひとは、ひょっとして自分をからかっているのかと疑心がもたげたとき、その彼女の心を読み取ったように青慧が苦笑した。
「剣は人を選びます。ハナ様がこれを手にすれば、わかるでしょう。魔法の剣たる所以は、その後でお見せできるかと――」
なるほど。選ばれなければ持ち出さなくともよいわけだ。彼女は自分が剣に選ばれるなどとは塵とも思っていない。
それならば、とハナはその剣を受け取った。思ったより軽い。
「どうぞ、抜いてみてください」
青慧に言われるまま、彼女は竜が彫り込まれた柄を握り、ゆっくりと剣を引いた。
剣は涼やかな音をさせ、その刀身をあらわにした。鞘から完全に抜かれた瞬間、それは新雪のごとき強烈な白光を放ち部屋の中を真っ白に染め上げた。
あまりの眩しさに閉じていた目をゆっくり開けると、先ほどの強い光ではないにせよ、手の中の剣は淡い輝きを放ったままだった。
「こんな……あっ!」
ハナは更に仰天して手の中の剣を見つめた。
その剣は長身の男性が吊るしてちょうど良い長さだった。それがいまや長さ四〇センチほどの短刀に変身していたのである。
驚愕に剣を放り出しそうになったハナの手を、青慧は両手で上から包み込むようにしてしっかりと柄を握らせた。
「……魔法の剣と申し上げたでしょう? この剣は持ち主にあわせて姿を変えるのです。剣は、あなたの手にあることを望んだのですよ」
「せ、青慧さん……でも……でも、私はこれを使えません……」
青慧は小首を傾げるようにしてハナを見下ろした。
「私は……私は、人を切ったことがありません……殺すことができません……」
彼の手の中で、ハナの手が小さく震えていた。そして、心ならずもといった微笑が青慧の相貌を彩った。
「ハナ様。誤解なさってはいけません。剣とは、人を傷つけたり殺めるためにあるのではありません。生かすためにあるのです」
「……生かすため……?」
「そうです。確かに、戦では武器として持たれます。こちらでは、剣は神器と見なされているのですが……、ああ、ハナ様の世界でもそうですか。なら話しは早い。何故、剣が神器とされるのでしょうか。――剣とは己自身を断ち切るものではないかと思うのです。己の中に存在する 『悪』 とされるものを……。もちろん、これは私論ですので絶対とはいえませんが」
じっと彼を見上げているハナに微笑みかけ、青慧は囁くように言った。
「その剣は、ハナ様の心を受けて相応しい姿になるでしょう。お忘れなさいますな。剣は人をして、活かすものなのです」
※
―――その剣は、使い手の心次第でどんな姿にもなりました。
あるときは長く、あるときは短く、またあるときは槍のように、そのまたあるときは手の平に入るほど細く小さく……
大きな竜は、魔物に苦戦している若者に、そのすばらしい剣を授けました。
「衡漢。これをお前に与えよう。そして魔物を封じ、人々を導け」
若者はうやうやしく剣を受け取り、竜の姿が刻印された柄や鞘にしばらく見とれました。そして、鞘から抜いた剣は、眩しいほどの光をはなちました。
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