【眩人】
※
世界は黒い嵐にみまわれ、人々はどうすることもできませんでした。
ある日、ひとりの若者が黒い魔物に立ち向かうことを決意します。若者は旅の途中で崖から足を滑らせ、谷の底に転がり落ちてしまいました。
不思議なことにそこは澄んだ泉のほとりでした。その泉の真ん中に大きな蒼い蓮の花が一つ咲いていました。
若者が蓮の花にみとれていると、泉の中から大きな竜があらわれて言いました。
「人の子よ、なに用あってここへ来たか」
「私は魔物を退治するために旅をしていました。途中、崖から落ちてしまったのです」
若者は人々がとても苦しんでいることを話し、魔物を倒す方法を大きな竜にたずねました。
竜はしばらく考えると言いました。
「人の心が乱れれば、泉の水が濁る。ここのところの濁りはそのせいだろう。よかろう。魔物を封じるのを手伝ってやろう。その後は、お前が人々をよく治めるのならば」
若者は大喜びで竜にお礼を言い、よい王になることを約束しました。
そうして、若者と大きな竜は黒い魔物と戦い、地下深く封印をしました。
竜は蓮の泉にもどっていき、若者はよい王になり、人々は末永く幸せにくらしました。
――――「衡漢王と大きな竜」より
※
建国王再誕の報に、王城は上を下への大騒ぎだった。
中務省の一官吏が女王に奏上しただけであったなら、ここまでの騒ぎにはならなかったろう。その場に貴族等がいたとしても、ただの流言で終わったはずである。それは、ひとえに神祇庁長官である青慧が異邦の女を建国王・衡漢の再誕であると認めたことによる。
「……ホントなのか、例の話……?」
「だって、青慧様がそうお認めになったんだろう?」
「やはりなあ……只者ではないと思ってたよ。なんてったって、竜を呼び出したお方だからなあ……」
王城のあちらこちら、官吏や兵等の間でこんな会話が交わされた。
一方、その決定を苦々しく思う人々も存在していた。無論、あの場に居合わせた面々である。その中心人物は何代か前の王の血族である、兵部省長官・鄭海。それに連なる貴族等が豪奢な一室に寄り集まって卓を囲んでいた。
「……一体、神祇長官も何をお考えなのか……」
「しかし、これが本当なら由々しき事態ですぞ。あやうく、我々は始祖を追放するところだったのですからな」
「だが、本当にそうなのか……?」
「あの方がそう仰るのなら、我々が違うと言い立てたところで、太刀打ちできますまい」
重苦しい溜息をつき、口を閉ざしてしまう。
「……ともあれ、あの異邦人には一刻もはやく国外へと旅たってもらうのが一番だろう」
「酔狂な……。ホウライヌの暗黒世界だなどと……。おそらく生きては帰れまい……」
ひとりが呟く。頷いたものの、別のひとりが低く懸念を吐露した。
「……異国で死んでくれるなり、元の世界に帰るなりしてくれれば問題はないが……万一、無事に戻ってきたら……?」
「…………」
黒い沈黙が部屋を支配した。
テラスに潜んでいた影が、音も無く立ち去って行った。
ハナは青慧の顔をまじまじと見つめ、首を傾げた。
「こうかんおう?」
「はい。わが水華蓮国の始祖です。竜王とともに魔物を退治した大昔の王です」
にこにこ笑う神祇官長を見つめ、その後ろに控えて立つ副官に目をやる。しかし、彼の無表情からは真意を読み取ることはできなかった。
神祇庁の奥殿、青慧の執務室である。
先刻、ホウライヌへ行ける算段がついたと言われ喜んだのも束の間、糸目の神祇官長からとんでもないことを告げられたのである。それが、ハナがこの水華蓮国の始祖・衡漢王の再誕であるというものだった。無論、彼女は衡漢とかいう人物など知らない。当然のことながらそんな記憶はない。
「あのう……一体、なぜにそんなことに……?」
困惑の極みに達している異邦人に、青慧はにっこりと笑った。そして、簡単に経緯を説明してやると少し声を低めた。
「無茶は承知しております。……無論、これは茶番です」
「へっ?」
「だって、貴方が建国王の再誕かどうかなど、誰にもわかりはしませんよ。ただ、ホウライヌへ渡るには都合がよい肩書きだと思いませんか」
言われて、ハナは思わず手鼓を打った。確かに、建国王の再誕だという肩書きがあれば、守人の一族との交渉もしやすいかもしれない。ただ、相手がそれを信じるかどうかはわからない。信じない方が確率が高いのではないか。
「……ですから、僭越ながらわたくしが認定いたしました。こう見えても神祇庁の長ですのでね。多少の箔はつくと思いますよ」
ハナの懸念を察した青慧が笑った。
実際は多少の箔どころではない。王城ではすでに、彼女は建国王の再誕だと決まったも同然だったのである。知らぬは本人ばかりなりとはこのことだった。
その頃、神祇庁の門前でささやかな悶着が起きていた。
年若い女官が異邦の女に面会を求めてきたのだが、神祇官長がハナを建国王の再誕と認めた今、万一に備えて神殿への出入りが厳しくなったのである。
「……では、せめて、女官の藍華が来たとお伝えいただけませんか? 先ごろ、ハナ様のお世話をさせていただいた藍華でございます」
女官は必死に訴え、ほとほと困り果てた門番のひとりが神殿に入り、神官に伺いをたてた。
しばらくして、門番と一緒に初老の神官が現れた。
「藍華どの?」
「はい!」
「こちらへ参られよ」
神官はそれだけ言うと、歩き始めた。
少女が通されたのは広いテラスだった。その広さと景色の美しさに感嘆していると一つの扉から蒼い法衣を纏った男と、蒼い長袍を着た女が歩いてきた。
「ハナ様!」
少女が嬉しげに声をあげる。蒼い長袍を着た女――ハナは、既知の顔を見て華やかに笑った。
「藍華、久しぶりだね! 元気だった?」
「はい! 押しかけて申し訳……きゃっ! 青慧様!」
藍華は女の傍らに立った人物に気付き、悲鳴をあげると慌てて跪いた。
「ああ、いいからお立ちなさい。わざわざ訊ねて来られたのには何か訳があるのでしょう?」
柔らかな声に少女は顔を上げ、こっくりと頷いた。
「……あの……。ハナ様がホウライヌへ旅発たれるとお聞きしました。それで……。……あの、どうかお願いです! わたくしも一緒にお連れください!」
青慧とハナはぽかんとし、思わず顔を見合わせた。
首都・華蓮の繁華街。ある大店のわき道を入ると細い道が縦横に走る。ちょうど表にならぶ店々の裏道にあたるわけだが、入り組んだ細い道を右に左に入っていくと、小さな店が並ぶ通りに出る。だが、今にもつぶれそうなほどさびれた印象を受けるここには、観光客はおろか町の人間の姿さえない。
その、しんとした小路を獣のようにしなやかに歩く青年は、一軒の酒場に身を滑り込ませた。
「よう、来たな」
扉を閉める音さえしなかったというのに、店の奥から太い声がした。
「仕事か?」
青年はかぶっていた布を取り外した。現れたのは息を飲むほどの美貌だった。娟麗という言葉にふさわしい美を持ちながら、冷厳な光を放つ瞳が近寄る者を許さなかった。
奥から無精ひげを生やした大男が杯を手にして出てきた。
「そうだ。お方様から腕の立つものを二人ほど用意しろとの命だ」
大きな杯に酒をなみなみついで、青年の目の前に置く。
「だが、今回ばかりは命を捨ててもらわねばならん。どうだ、光麟。行ってくれるか」
酒場の親父は真っ直ぐに青年を見つめた。
青年の美貌が艶やかに笑みを形作り、杯の酒を飲み干した。
「いいだろう。受けよう、その仕事」
大男は何も言わず、にやりと笑うと青年の肩をひとつ叩いた。