【流言】
女王は居並ぶ諸侯を前にしてもいつもどおりに超然と、泰然として座り、彼等の話が終わるまで一言も口を開かなかった。
頭に血がのぼっていた彼等も、凍った湖のような沈黙に瞬間冷却され、幾人かは気恥ずかしさに口をつぐんでしまった。だが、婦人達のほうは恥じるどころか、自分たちの激した言葉にみずから煽られさらに激化していく。
「……陛下、この国の安寧のためにも申し上げます。どうか、あの異邦の女を追放なされませ!」
「綜婦人の仰るとおりですわ! あの者が現れてから国が騒がしゅうなりました。この騒ぎに乗じていつ不貞の輩が城を侵すとも限りませぬ」
覇権を争う二人の夫人を筆頭に、数人の夫人たちが頷く。
女王の唇が笑みを形作った。
「そなたらの心配は、国の安寧ではなく、そなたら個人の安寧のことでしょう」
女王の柔らかな声音とは裏腹な刃のような言葉に、一同は絶句した。そんな彼らにお構いなく、女王は艶やかな笑い声をあげて言った。
「誰しも我が身はかわいいもの。そなたらの懸念も無理からぬ。心配せずとも、かの者はこの国に用はありはしませぬ。かの者が見据えているのはホウライヌに繋がる暗黒世界のみ。――未だ尚早かとそなたらには伏せておりましたが、この際伝えておきましょう。この国……いいえ。世界はすでに暗黒世界からの瘴気にさらされているのですよ」
絶句して動けない貴族等の上に、女王は巨大な爆弾を投下した。
「な……」
「何ですと……!?」
瞬時に息を吹き返したのは男たちである。国の中枢にいると自負する自分たちが、国の存亡に関わるそんな重大事を聞かされていなかったという事実に驚愕し、誇りを傷つけられたのだ。
「何故そのような重大なことを……!」
一人が怒りもあらわに女王に詰め寄った。
「数年前の時点でわかっていれば、そなたらにも伝えたでしょう。ですが、わたくしさえ、その事を知ったのはつい先日なのです。今、宰相と両大臣、神祇長官、仙界の博士のお力も借りて対処を協議しております。異邦人一人の問題ではないのです。目に見えぬ脅威に備えるよう各国にも呼びかけねばなりませぬ。それだけに、このことは慎重に進めなければならぬのです。以後、そなたらにはいかなることにも柔軟に対応してもらわねばなりませぬ。そのこと、重々承知しておくようお願いします。――わが水華蓮国のために」
再び驚愕に絶句した貴族らは、もはや一言も発することもできず、項垂れ悄然と謁見の間を退出していった。そのとき、貴族等の最後尾にいた若い官吏が意を決したように身を翻し、女王の前に跪いた。
「――陛下、どうか差し出口をお許しください」
「……なんですか、了苑?」
文官長が統率する中務省に所属するこの青年官吏は、どうやら貴族等のように直談判にきたのではなく、女王と直接話したかっただけのようだった。出て行きかけた貴族等も立ち止まり、怪訝そうな顔をした。
「何だ、あやつは?」
「どこにいたのだ?」
息巻く自分たちの後ろに青年官吏が着いて来ていたことなど知らぬ彼等は、低頭する官吏を胡散臭そうに眺めやった。
「はい。わたくし、ここのところの出来事を考え、いろいろ文献を探ってまいりました。それで……その……、一つの結論に達したのでございます」
恐る恐る女王を見上げると女王は泰然と了苑を見つめており、彼は思い切って一気にそれを吐き出した。
「木彫りの鳥を蘇らせ、大地から白竜を呼び出した尋常ならざる力……。あの異邦の方は、わが水華蓮国の建国王――衡漢王の再誕ではございませんか?」
神祇庁では神官たちはいつもどおりにそれぞれの勤めを果たしていた。
客人のために嬉々として腕をふるう料理長の朝食をおいしくいただき、部屋に戻った異邦の女は自分の持ち物の前で溜息をついた。
女王の言うように、ハナはホウライヌに渡ることしか考えておらず、一体どうやって守人の一族と話をつけるか悶々と悩んでいたのだ。持ってきたのは会社に行くためのショルダーバック一つきりで、だいたい、部屋から引きずられるようにして『穴』に放り込まれた人間に靴を履く時間があるはずもなく……。
携帯電話の電源を入れてみる。当然のことながら圏外の表示が鮮やかに浮かび上がった。再び溜息をついたハナは電源を切り、電話をバックの中に仕舞いこんだ。そう、そしてもう一つ持って帰ってきた物があった。
ターガナーダがくれた香水である。
あの騒ぎで木箱はあちらに置いたままだ。なんとなくバックに入れるのも憚られ、シャツの胸ポケットに入れることにした。
「……さてねえ、どうしようか……」
彼女は途方に暮れたように呟く。
その部屋の前を、静かな奥殿には珍しくドタバタと足音が走りすぎて行った。
「ハナ様が……? 建国王の降臨……?」
青慧は絶句し、珍しくぽかんと口をあけた。
神祇長官青慧の執務室。駆け込んできた補佐官はぜえぜえと肩で息をしている。同僚がそっと差し出した茶を受け取り、ぐいと飲み干すとやっと一息ついた。
「……かくかくしかじかで、女王の御前で中務省図書寮の官吏・了苑と申すものが奏上したそうです。折り悪く、貴族どもが……あ、いえ。諸侯らもその場に居りましたので、あっという間に城中に広まったようでございます」
補佐官の報告を聞き終え、しばらく考え込んでいた青慧はふいに、
「……なるほど……。建国王ですか……」
呟き、唇の端を吊り上げた。
「…………」
補佐官は一礼し、どんな指示が飛んできても対処できるよう、改めて肚をくくりなおした。
流言は、発信者の意図に関わらず口から口へ伝えられていく。
不確かなものであるからこそ、まして、人々の根底に一様の不安を抱えている状態で、蓄積された差別意識や『常識』などが土壌となり、受け手の心理状態によってそれはさまざまな形が加えられ、原型をとどめぬほどの巨大な怪物となりうる。だが、この城においてパニックに陥らずに済んだのは、人々に高い教養と見識があったればこそであるともいえた。
身分の高い、いわゆる高級女官は自室を持ち、女官付きの御小性(小間使い)を二、三人与えられる。
綜婦人に仕える彼女は数十人いる高級女官の中でも一、二を争うほどの美貌の持ち主だった。その彼女の心を掴んで離さない男との甘い時間を堪能したあと、極上の酒を振舞った。
逞しい胸から、酒を飲み干す太い喉をうっとりと眺め、女はそっと男に寄り掛った。
「峰牙様はあの噂をご存知?」
「噂?」
「あら、あんなに騒がれておりますものを。いいわ。教えて差し上げます。神殿にあの異邦人が現れたのはご存知ですわよね? だって、貴方のお仕えする宰相閣下のお気に入りだそうですもの――その異邦人について、図書寮の官吏が陛下に申したんですの。あの異邦人は建国王の再誕ではないのかと」
峰牙は目を見張って女を見つめた。彼女は驚いたような男の表情に満足し、艶やかに笑ってみせると今朝の謁見の間での出来事を話して聞かせた。
「あの異邦人は、暗黒世界などという恐ろしげな世界に行こうとしているそうですわ。……女伊達らにというべきか、さすがは建国王の再誕というべきかしら……?」
「……さてな。だが、さしあたり退屈するヒマはなさそうで重畳だ」
「ま、峰牙様ったら!」
言いながら、太い腕が女を抱き寄せ、彼女は嬉しそうに男に身を委ねた。
宰相の執務室へ戻ると、案の定、彼の主はまだ仕事をしていた。官吏たちはとうに退室しており、部屋は静まり返っている。
「ターガナーダ様、まだやってらしたんですか」
峰牙は苦笑しながら宰相の執務机を通り過ぎ、茶を淹れ始める。そう言う割には律儀に執務室へ戻ってくるこの男も、仕事熱心といえなくもない。
宰相は苦笑し、鼻先をかすめた微香にちょっと眉を顰めた。
「……峰牙。お前、何をしていた」
「何って、そりゃナニですよ。お楽しみ半分、仕事半分ってとこですかね」
しゃあしゃあと言ってのける部下に、ターガナーダは嘆息を洩らした。まあ、いつものことではあるのだが。
「ターガナーダ様、あの噂をご存知ですか?」
「……ハナの建国王再誕の流言か?」
「なんだ。知ってらしたのか」
つまらなそうに口を尖らせた大男は、茶碗を差し出した。宰相は礼を言って受け取り、口に運ぶ。
峰牙が女から聞いた朝の一部始終を話す間、宰相は無表情のまま聞いていた。やがて。
「……そして、追放から救世主へと名を変えるわけだな」
抑揚もなく呟かれた言葉は、豪放磊落な副官をさえ一瞬黙らせるほどだった。
もとより、異邦の女にこの国に留まる意志はない。あの日、再びこの地に現れたハナはこの世界の現状を聞いて項垂れていたのも束の間、女王、宰相、神祇長官を前に言い放ったのだ。
「ホウライヌへ行きます」
何が彼女にそうさせるのか、もどかしいようなチリチリした感覚を覚える。思わず、立場も忘れて自分も行くと言いそうになった。
しばらく黙りこくったままの上司を眺めていた峰牙は、鼻の頭を掻きながら呟いた。
「図書寮の了苑って小僧は、もともと神官だったらしいですよ」
「え?」
「神祇庁のではなく、華蓮のはずれにある小さい神殿に勤めておったそうです。頭がいいってんで、推薦されて官吏になったようですな」
宰相は少し納得したように頷いた。
図書寮に勤めているからといって、まさか伝説に類する書から導き出した考えではあるまいとは思っていた。そういったものは、図書寮の管轄ではなく、青慧のいる神殿にこそ収められているであろうから。だが、もとは神官だったというなら話は別だ。それがよりにもよって、不安を抱える人々の前で放たれ……現状に至ったわけである。
「まあ、どちらにせよ、ハナについては青慧殿にまかせるしかあるまい。……建国王の再誕などというふざけた肩書きを採用するとは思えぬがな」
ターガナーダはやれやれと溜息をつき、峰牙も同意してその日はそれぞれの部屋に引き取ったのだが、翌朝、彼らは驚愕に突き飛ばされることになる。
神祇庁長官青慧の名で、異邦人・矢島ハナは、建国王衡漢の再誕と認められ、ホウライヌに旅立つことになったのだ。




