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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【謀反―乱流】


 濃い霧の中に霞むように白亜の城が見える。霧に浮かぶそれは白い幽鬼のようにも見え、かえって不気味であった。陽光のもとにあれば、誰しもがそのまばゆいばかりの輝きと荘厳さに目を見張るだろう。天へと伸びた高い塔は、人々にその存在をしろ示し威光を振りまいてもきたであろう。かつては――。

だが今。その国は霧に包まれて幾久しく、人々はもう何年も太陽の恵みを与えられずにいた。植物はおろか家畜も育たず、日々の食べ物でさえ容易に手に入らない。それだけではない。疫病が流行り、真っ先に抵抗力のない子供の命が奪われているのだ。

国王への嘆願は年々増え続けてはいるが、城は固く門を閉ざしたまま民へ手を差し伸べようともしない。人々の不安と疑心はますます募り、誰が言い出したのか、また、どこから流れてきたのか奇妙な噂が流れ出したのだ。


 現国王は、玉座を簒奪したのだと――。

 真の王をないがしろにしたが故に、天が怒っているのだと――。


 それは、驚くべき速さで国中に広まり、日をおうごとに確実に人々の心に根づいていったのである。そして彼ら、ローブミンドラ王国の民は、永の年月を経て初めて統治者たる国王へと疑惑の目を向けはじめたのであった。



 市庁からの嘆願書のみならず、市に点在する神殿からの諌暁書(かんぎょうしょ)までが王城へ投げ込まれ、城の高い塀の中で惰眠を貪っていた王族・貴族らも無視することは適わなくなってきたのである。

王城の外に住まう貴族らの中にも、民のために奔走する者はいた。だが、それはごく少数にすぎず、国全体を覆う飢饉と疫病は人々を嘲うかのように猛威をふるっていた。

「これは由々しき事態ですぞ!」

「民が国王を疑うなど、あってよいはずがありませぬ!」

激した男がテーブルを叩き、乗っていた蜀台が大きく揺れる。

白亜の城の奥深く、外見の白さとは裏腹にそこは薄暗く、厚いカーテンが引かれて外界との接触を拒絶しているようだった。

巨大な円卓を囲むように座る人々は、それなりに身分のある者のように見えたが、機嫌のよさそうなものは一人も居なかった。あるものはむっつりと黙り込み、あるものは眉間に縦皺を刻んで腕を組み、あるものは不機嫌そうに目を閉じていた。

「落ち着きなされませ、文官長」

かすれた声が入り、卓についていた人々は視線を動かした。声の主は血色の悪い顔をした、白い法衣を纏った初老の男だった。

「所詮、無知蒙昧な民の流す噂。ほどなく消えてまいりましょう。ですが、無知ゆえに暴動が起きるとも限らず、その備えは怠ってはまいりませぬ……」

「何を寝ぼけたことを言っておるのだ、神官長! 事はそんな域をとうに越えておるのだ! 暴動になるのは、喰う物がないからだっ!」

耳障りな神官長の声を吹き飛ばすような怒声が響き渡った。

黒い蓬髪にいかつい相貌。鍛え上げられた巨躯に鎖帷子を纏い、左腰には長剣を佩いている。男はひょろひょろの神官長から傍らの男へギョロリと目を移し、舌鋒鋭く詰問した。

「陛下、直答ご無礼仕る。民の噂云々はさておき、何故に城下の民にさえ穀倉を解放してやらぬのですか。民を救わずして、王の王たる所以が奈辺にありましょうや」

「ぶ、無礼ですぞ、武官長!」

「だまらっしゃい! 神殿を捨て置いた神官が何ゆえ城の穀倉を食い荒らす権利がある! 天の怒りは祈りを忘れた己らの所業も含まれておろう! 道を説かねばならぬ身でありながら、あまつさえ賢しらぶって国政に関与し、国王を誑かしたその罪、己が身をもって民にあがなってくるがいい!」

武官長の怒声が神官長の痩身を震え上がらせた。直後、部屋の外からなだれ込んできた兵たちが神官長を取り抑える。兵らは部屋ぐるりを取り囲み、国王の背後にも数人が半包囲した。

仰天し、腰を浮かせた人々を片手で制した男は、蒼白になっている国王に向き直った。

「陛下。再三、申し上げてきましたが、今一度進上申し上げる。水華蓮国におわす皇子殿下の帰還を願い召されませ」

国王の肩が大きく揺れ、兵に囲まれた神官長が金切り声をあげた。

「タ、ターガナーダ殿下を……!? なりません! なりませんぞ……あの方は……あの方は……っ!」

人々は神官長の剣幕に呆気に取られ、今にも倒れこみそうなほど顔色を失った国王に目を移し、そして泰然とたつ武官長へと視線をもどした。

しんと静まり返った部屋に武官長の低く重々しい声が、審判を下すように響き渡った。

「左様。あの方は、聖域のローブインバラよりご降臨なされた御子。ターガナーダ様は始原の竜王、その小王にして、わが聖ローブミンドラ王国第六三代の真王たる方なのですぞ」

「ならぬ!」

激しい声が武官長の声を遮った。一同が瞠目して注視した先に、青ざめ、身体を震わせて両の拳を握りしめる国王の姿があった。その目はぎらぎらと異様な光を放ち、時おり痙攣するように大きく身を震わせながら王は言った。

「あの者を城へ入れることは罷りならぬ! 穀倉の一つ二つ解放するなど、よきにはからうがいい。……だが、あの者は……」

国王の脳裏に青銀の光が蘇り、同時にそれは鋭い刃となって彼に襲いかかる。

 皇子が出現したとき外界との接触を一切排除し、隔離してその存在を抹消しようとした。だが、どこからどうやって知ったのか、ほどなく水華蓮国から皇子の存在を示され、いずれ宰相として迎えたいとの申し出があった。そして水華蓮国神祇庁長官の立会いのもと、国王直々に(めい)を与えるため離宮から連れ来られた幼いローブインバラの小王は、その青銀の瞳に苛烈な光を宿して真っ向から国王を射抜いた。国王の脳天から足先を恐怖という凄まじい電流が流れ落ちた。

それ以来、国王は皇子と対面することはなかった。――否、できなかったのである。水華蓮に送り出す式典の時でさえ、恐怖に足が竦み一歩たりとも動けなかったのだ。


 その皇子をこの国に、この城に入れよというのか!!


 再び襲いかかる恐怖に震えが走る。国王は必死であの青銀の脅威から逃れる道を探した。思いつくすべての道をさぐった。

そして、ぎらつき異様な光を宿したその目に、一瞬、喜色の炎が灯った。怪訝そうに見守っていた一同に、国王はゆっくりと顔を向け歯を剥き出して笑った。

「そち等が我の退位を望むなら、そのようにしてやろう。だが、第六三代国王たる王冠はわが皇女に譲る」

一瞬の無音。直後、愕然とした声が悲鳴のようにあがる。

「皇女ですと!?」

「何をおっしゃる!?」

「陛下、こ、皇女とは一体……?!」

「冗談ではすまされませんぞ!」

公的な言葉遣いさえ忘れるほどの驚天動地に放り込まれた臣下たちの中、彫像のように微動だにしない武官長に、国王は暗く狂気じみた嘲笑をあびせかけた。

「冗談であるものか。ローブミンドラ国王たる予と、后ヴィジュルの間に生まれた皇女ぞ。……竜の国に相応しく、竜王の似姿で生れ落ちたわ! は、は、は、は……」



 夜半、彼は慌しく扉を叩く音に叩き起こされた。

人が訪れるなど久しくない文書館の、私室にしている二階からゆったりと降りて扉をあけた館長の前に、既知の顔があった。

「おや、これはお珍しい」

「夜遅くすまぬ、バーダバグニ。すまんついでにちと人質になってくれ」

「……は?」

文書館館長=前水華蓮国宰相バーダバグニは、久しぶりに訪れた古い友人であり、ローブミンドラ王国武官長であるパドマバラのいかつい顔をまじまじと見つめ返した。




 「シュリー。君、ちょっと痩せたんじゃない?」

長椅子に腰掛け一息ついたハナは、膝の上で丸くなった碧のドラゴンを撫でながら呟いた。シュリーマデビイは金色の目で彼女を見上げ、キュルルと小さく鳴くとまた目を閉じた。

開け放たれた窓から気持ちのいい風が入ってくる。彼女もちいさな欠伸をひとつ洩らすと背もたれに頭をあずけ、目を閉じた。

 水華蓮国神祇庁の奥殿。青慧の私室の隣にハナの客間が用意された。

すぐさまハナを王城に連れ帰ろうとする宰相を押し止め、青慧は苦笑しながら、人々の混乱を招かぬためにもしばらくハナはここに滞在するべきだと主張した。宰相はしばしの沈黙のあと、しぶしぶといったように彼女の手を離した。ハナは宰相の背中しか見えなかったのだが、彼と女王が王城に戻ったあと青慧は、何度か突然、吹き出してころころ笑った。


 一方、ハナの出現はまたたく間に王城に広まり、少なからず城の人々に動揺を与えた。先日の守人の一族の騒動もあり、一部の人々を除き王族・貴族らは異邦人を忌避する者が多かった。

「一度ならず二度までも騒がせるとは……!」

「ですが、あの宰相が珍しく気に入っているご様子」

「ふん! ローブミンドラの皇子かなにか知らぬが、これ以上わが国を騒動に巻き込むのはやめてもらいたいものだ」

「左様ですな」

負の作用は比例線を描く。人々の不安と猜疑の根底には、伝説の暗黒世界の存在が浮き彫りにされていた。大地から出現した白竜。動き出した守人の一族。再び現れた異邦の女――それは、永の年月ぬるま湯につかってきた人々にとって、その繁栄を脅かす悪でしかないのであった。

豪奢な一室、金襴の衣を纏った貴婦人が決然と立ち上がる。

「長く平和を保ってきたわが国を脅かすものを許してはおけませぬ。陛下に陳情申し上げ、異邦の民の追放処分を申し立てます!」

「わたくしも参りますわ!」

「ええ。わたくしも!」

そうして。珍しく覇権を争う貴婦人たちが手を結び、珍しく早朝から化粧をしてそれぞれ数人の女官を連れて部屋を出たとき、申し合わせたように男たちの集団と合流した。そのきらびやかな一団が女王に謁見を願い出たのは、異邦人が現れた翌日の朝だった。





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