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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【守人】


 北の海に浮かぶ大陸・ホウライヌ。

広大な大地の最北に深い針葉樹の森と巨大な湖が点在する土地が広がる。

暦は初夏といえども気温は低く、垂れこめた厚い雲が陽光をさえぎるために雪さえ降る。冬ともなれば雪の壁に囲まれ、白銀の静寂に支配された。

それでも、凍てつく冬を越えてきた生きものたちはほんの少しの温もりも敏感に察知し、時は今とばかりに青々しい芽をふき、眠っていたものは土の中から顔を出す。一瞬で通り過ぎてしまう短い夏を繋ぎとめようとするかのように、草木は驚くべき速さで芽吹き、花は一斉に咲きほこり、動物たちは次の冬のためにいそがしく動き回る。

ここに生きるものは、何百年何千年もの間そうして生命を営んできた。

 その極寒の地にも人はいた。

通う者もない針葉樹の森の奥に、ひっそりと寄り添うようにたたずむ集落があった。

どの家も急斜な屋根で一階部分には窓もなければ、ドアもなかった。降り積もる雪と、屋根から滑り落ちてくる雪で埋ってしまうためだろう。玄関は石の階段をのぼって二階にあった。

ところどころ雪が残ってはいるが、淡い陽光にほとんどが溶け去り柔らかな草が絨毯のように広がっている。

農作物が育たないこの地では森に自生する果物や芋類、そして男たちが狩ってくる獣や湖の魚が食物であった。

次の冬のために魚や肉の塩漬け、燻製などの保存食を作る女達の傍らで、子供達は元気いっぱいに駆け回っている。

老いも若きも男も女も、夏は総出でいそがしく働くのだ。

この深い森の中で生きてきた人々こそ、結界守(けっかいもり)――ホウライヌの守人の一族であった。 


 「ほんじゃあ長老。わしらもちょっくら森に行ってくるで」

「おう、雪に滑るなよ、ムラト」

「ぬかせ。わしゃまだそこまで耄碌しとらんわい」

呵呵と愉快そうな笑い声に送られ、ドアから出てきたのは三人の老人だった。いずれも柔らかな毛織のシャツの上に毛皮の袖なしチュニックを着、二枚重ねの毛織のズボンに膝下まである厚い皮のブーツを履いている。

ムラトと呼ばれたのは大柄でギョロリとした目の、髪も髭もふさふさとして熊のような男であった。

いまひとりは中肉中背の、真っ白な頭髪に灰色の口髭と小さな丸い目をしたゲオルゲ。

最後に出てきたのはひょろっと小柄で、禿頭に毛糸の帽子をかぶり、奇妙なゴーグルをかけているサンダー。

三人は老人とは思えぬほどの足取りで階段を下りると、脇においてあった斧や皮袋をかつぎあげる。

ゲオルゲがふと空を見上げ、呟いた。

「もう手紙は水華蓮へ着いたかのう?」

「着いておるはずだがな。わしの発明した空飛ぶ船を試してみたかったんだがな。アイオロスも年だ。空の長旅はそろそろ引退せねばならんじゃろ」

ずれたゴーグルをかけなおしながらサンダーが言えば、

「せめて南海くらいまで飛べにゃ、話にならんわい。アイオロスにはもちっと頑張ってもらわにゃならん。雛が使えるようになるまではもうしばらくかかる」

ムラトが呆れたように肩をすくめた。

 ちなみに、アイオロスとは水華蓮の守人の一族に手紙を届けた『大鷲』のことである。

 

 針葉樹の森には、彼らの道が縦横に走っている。とはいっても道らしい道ではない。彼らだけがそれとわかる程度のものだった。

そのうちの一本は北へまっすぐのび、黒い森の中に消えていた。

ムラトはふと足を止め、その黒い森を透かし見るように目を眇めた。

「……あれから出て来んのう、白竜は……」

ゲオルゲの気遣わしげな呟きに、サンダーが頷いた。

「封印が破られたかと思うたが、一体何があったんだか」

「うむ。長老は何か知っとるようじゃが、森のお婆に聞いても今しばらく待てと言うばかりじゃ」

ムラトは言い、しばし佇んでいた三人だったが荷物を抱えなおすと再び歩き始めた。

なにしろ、夏は短いのだ。




 水華蓮国の首都、華蓮。その中央には美しい女王のおわす城が屹立している。

 王城の広い一室、 しばらく滞在していた三門の長たちは、それぞれの場所へ戻るために準備していた。――とはいえ、そもそも手荷物一つで訪れた者たちだ。しまうものなどありはしない。

女王の接見の(とき)までめいめい好き勝手に過ごしていた。

扉が叩かれ、駆けて行ったリュオンがそっと開くと、長身の男が立っていた。

「宰相様!」

びっくりして叫んだ少年は、目の前の美丈夫を恐る恐る見つめる。

相変わらずターガナーダに表情はなかったが先日のような厳しさは無く、ゆっくりと少年に頷いてアイオリア・ガナはいるかと訊ねた。

慌てて駆け寄ってきた長たちを制し、宰相は堂室にすべりこむと、きっちりと扉を閉めた。

「宰相閣下、いかがなされましたか……?」

「出立前にすまぬが、確認したいことがあった。アイオリア・ガナ、北のホウライヌに変わりはないか」

宰相の質問に三人の長たちは顔を見合わせる。

「――? これといっては……」

「ホウライヌの、守人の一族にもか?」

アイオリア・ガナは怪訝そうに宰相を見つめた。だが、宰相の無表情からは何も読み取ることはできず、

「はい。少なくとも、海門を出るまでは何も聞いておりませぬ」

そう答えるしかなかった。

「……そうか。邪魔をしてすまなかった。陛下にはもうじきお目にかかれよう。道中、気をつけてゆけ」

「は。有難う存じます」

一つ頷いて堂室を出て行く宰相に、長たちは慌てて頭を下げた。だが、何を思ったかターガナーダは立ち止まり、振り向いた。

「……そう言えば、青慧殿に白竜を呼び出した者のことを訊いていたな。――矢島ハナという異界の女だ。ホウライヌに捕らわれているらしい従弟を救うために竜を呼び出したのだ」

「異界の女……!?」

「と、捕らわれているとは、ホウライヌにですか!?」

マルテリオンとウラノスが仰天したように同時に口を開く。

「ホウライヌに、というよりは、そこに繋がる暗黒世界に、と言ったほうが正しいのだろう。本当なら、竜など呼び出さずに自分が行きたかったようだがな」

長たちの驚愕をよそに、宰相の凍った表情にほんの少し、春の日差しのような微笑が浮かぶ。

「……宰相様は、その方にお会いしたいの……?」

足元からはじめて聞く声が聞こえた。

青銀の瞳が驚いたように見開かれ、双子の兄の陰に隠れるようにしている少女をみとめた。

少女は思わず口走ってしまったというように口元を手で抑え、怯えたように宰相を見つめる。

兄のリュオンのほうは不思議そうに妹と宰相を見比べ、長たちはなんと言うべきか目を白黒させていた。

そして――ふ、と小さく吹き出したターガナーダは、

「そうだ、レイティア。私はハナに逢いたいのだ。――必ず、また逢えると信じている」

人々に忘れられないような微笑の残像を残し、扉のむこうに消えた。


 女王への退出の挨拶をすませ、守人の長たちは各々の帰途についた。

それぞれに思うことはあったにせよ……正直、肩透かしをくらったようでもあったのだが、元の生活に戻るだけの話なのだと納得することにした。否、せざるを得まい。あの白竜は異界の女が従弟を助けるためだけに、自分の代わりに呼び出したのだ。

事情を知らなかったとはいえ、早合点して城へ押しかけてしまったことを思うと羞恥に身が縮む思いだった。

だが――。

(ホウライヌの暗黒世界に捕らわれた従弟を救うために呼び出したのが、たまたま白竜だったというのか……?)

アイオリア・ガナは首を傾げた。

自分たち守人の一族の起源は、まさしく『はじめの竜王』と水華蓮の建国王が封じ込めた魔物の封印の守りによる。ホウライヌの結界守一族とは数十年前に一度だけ、書簡を交わしたのみだ。その頃の書簡にはこれといって大事はなかったはずだ。

それが今になって……

暗黒世界の実在――!

「……なんということだ……」

思わず唸るように呟いたアイオリア・ガナを、孫二人は心配そうに覗き込んだ。

「どうしたの、おじい様?」

「ご気分が悪いの?」

「ああ、いや。なんでもない。急ごう」

「はい!」

元気よく歩きはじめた三人だったが、前方から土煙を蹴立てて向かってくる騎馬を認め、アイオリア・ガナは孫をかばうように端に寄せた。

 港から街を抜けるまでは大きな通りが整備されており、その分人通りも多い。そして街から城にあがるには、まず一の門を通り円を描くように坂を登っていく。二の門を過ぎたとき、道幅はぐっと狭くなり、三の門から城門に登る頃には道幅は半分ほどになっている。円を描くように上へと登る道は体力も気力もひどく消耗させられた。

城から下へ降りてゆくのは不思議と開放感があったが、全力で駆け登ってくる騎馬とすれ違うには少々危険な道幅である。壁際に祖父の陰に隠されるようにへばりついた子供達は、だが、向かってくるその人物をみとめた途端、歓声をあげた。

「父様!」

鮮やかな手綱さばきで馬を減速させ、白い長袍を翻して長身の青年が飛び降りてきた。

「リュオン、レイティア!」

学者然とした相貌が華やかにほころぶ。

少年少女は数日振りに会う父親に体当たりでぶつかっていく。

「母様は?」

「うちで待ってる。ご馳走みたいだぞ」

「きゃあ!」

さらに歓声をあげる子供達に微笑み、オリオンは懐から書簡を出すと父親に差し出した。

「親父、ホウライヌから届けられた。――白竜が現れたそうだ」

アイオリア・ガナは息子が乗ってきた馬をぶんどって、もと来た道を全力疾走で駆けて行った。

オリオンは呆れたように父親を見送ると肩をすくめた。

「……まったく、あのトシで馬を全力疾走させるなんて、親父くらいのもんだぜ……」

「そりゃあ、父上の父上だもの」

「…………。どういう意味だ、そりゃ?」

「どうって、そういう意味だよ」

「はあ?」

「くふふ」

父と息子の会話に、レイティアがおかしそうに笑った。





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