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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【緇素】


 「王は、王位を継いだ時に真王のなんたるかをお知りになったはずなのです。この古文書の写しは、全てではないにしろ王位継承の儀式にも使われているはずでございますから……皇子がご降臨なさったとき、王は……それは動転されたでしょう。ここ数十年、いえ、数百年の間ウバラから生まれる御子(みこ)さえいなかった。それがよりにもよって聖域のローブインバラが花開いたのですから。権力を握った人間が何を考えるか―――幸いこのことを知る者は神官長と王ご自身のみ。王は玉座を手放したくなかったがゆえ、あなたを幽閉したのです」

前宰相の老いた顔に、更に皺が刻まれたようだった。文書館館長として封されてから、彼はあの建物の中にある書物という書物を読み漁ってきたのだろう。

そうして出た結論が、それだったのだ。

先刻の青慧の言葉――水華蓮の神殿に保管されている文書から明らかにされた二千年前の事情――。

ローブミンドラ王国の古文書が作成されたのも二千年前だ。

この符号は決して偶然ではないだろう。

しかし、何故、水華蓮国は別世界の国の皇子を救うことになったのだろうか……?

ターガナーダの脳裏に、文書館で見た古い肖像画がよぎる。

千年前の水華蓮国宰相と、神祇官長・青慧(・・)の写し絵。


 ―――あの方の力なくして、水華蓮へ赴くことはできないのです


現・水華蓮国宰相は、向かいにゆったりと腰掛けている若い神祇官長に目を向けた。


 ―――あの方のことは、詮索なさってはいけません


 たとえば、彼に 「貴方は今いくつですか」 と問い掛けたところで、「いくつに見えますか?」 と問い返されるのがおちだろう。

だからといって、五千七百五十六歳ですとか言われても困るし、逆にどんな返事をすればいいのかわからない。

ターガナーダの困惑したような視線を受け止め、蒼い法衣の神祇官長はにっこりと笑いかえした。こちらの混乱も戸惑いも、全てを見透かすような柔らかな微笑みだった。

宰相はもう相手を普通の、見た目どおりの人間だとは思わないことにした。そう決めた途端、驚くほど肩が軽くなった。

意を決し、居住まいを正して真っ直ぐ青慧を見据えた。

「青慧殿……あなたは、私が人の生まれでないことをご存知だったのか……?」

「ええ。知っておりましたよ。ですから、私は貴方を皇子とお呼びし、この国の宰相としてお迎えしたのです。ウバラか、千年に一度花開くローブインバラより生まれた御子こそが、神聖ローブミンドラ王国の国王たる証でしょう? 基本的に、水華蓮国はローブミンドラの皇子を宰相に迎えるんです」

まるで、 「太陽は東からのぼるんです」 とでもいうような、そっけないほどの応えが返ってきた。

一瞬前にこの男を普通の人間とは思わないぞと決意した宰相だったが、あまりにもあんまりな返答に頭を抱えた。

何故といって、自分はほんの数刻前まで 『それ』 がローブミンドラ国王の証だと知らなかったのだから!

「……ご存知だったのなら……」

「教えてくれてもよかったじゃないかと?」

恨めしげに自分を見つめる若い宰相に、青慧は面白そうな顔をした。

「教えてもよかったですけどねえ、貴方、あの当時ひとの言葉を信用できましたか?」

肘掛に頬杖ついて覗き込んでくる青慧の言葉に、文字通り 「うっ」 とつまり黙り込む。

 ターガナーダが幽閉されていた離宮はきらびやかではあったが、冷たく、無機質なものだった。彼の世話をしてくれる者は大勢いたが誰も口をきかず黙々と従事するだけ。中には彼を不憫に思い優しさを見せてくれる者もいたのだが、そういったものは程なく離宮から姿を消してしまった。彼の問いに応える人間は一人もおらず、書物にのみ没頭していくしかなかったのだ。

こうして育ってきたターガナーダに、どうして人を信用するということができただろうか。

そしてあの日、離宮から連れ出されたと思ったら、いきなり貴方は水華蓮国の宰相になるのだと言われ、籠に入れられたシュリーマデビイとともに神殿の奥殿に放り込まれた。

国王は彼らの前に姿を現すことさえしなかった。


シュリーマデビイ……そうだ、あれもまた……


深い思いに沈んでいきそうな宰相に声がかかる。

はっとして顔をあげたターガナーダに、青慧がにこりと笑った。

「そろそろ行きませんか。お部屋を用意しましたので今日は神殿に泊まっていかれるといいですよ。料理長もたまには腕を振るいたいでしょうからね」



 青慧が言ったとおり、神殿の料理長はここぞとばかりに己の器量を発揮したようだった。

日ごろ、質素としか言いようのない料理を作らされていた彼は、国の重鎮である宰相の晩餐と朝食を作るよう命じられたとき小躍りして喜んだ。

大きな食卓に並べられた料理の数々を見たとき、さすがにターガナーダも絶句した。

卵の汁物(スープ)に始まり、和え物、煮物、揚げ物、炒め物、色拉(サラダ)甜食(デザート)。各三品から四品ずつ。

食についてはターガナーダも神祇官長と似たり寄ったりで、特別こだわりはなかったものの、出された料理はどれも美味しく、料理長の技量を誉め、その心づくしに礼をのべた。そして、せっかくだからと他の神祇官たちにもふるまってやるよう口を添えた。 (青慧とターガナーダ二人で食べきれる量ではなかったのだ) 無論、常日頃から質素な食生活をしている神祇官たちは大喜びして相伴にあずかった。

 その夜は、綺麗にしつらえられた神殿の宰相の間に身を横たえた。めまぐるしい出来事にさすがに疲れていたらしい、ターガナーダはぐっすりと眠りこんだ。

 

 翌朝、控えめな量ながら栄養のバランスを考えられた朝食を楽しみ、神殿を出る時には、神祇官らと料理長までが見送りに出てきて 「またお泊り下さい」 と宰相に頭を下げた。思わず苦笑を洩らして官長を見れば、青慧は素知らぬ顔でさっさと馬車に乗り込んでいた。

 一晩明けて多少余裕がもどってきたターガナーダは、いくつかの疑問を青慧に向けた。

「先代の宰相ですか。確かに彼は王族でも皇子でもありませんでしたが、宰相としてすばらしい素質をお持ちでしたからね」

青慧はそう言ったが、果たして本当にそれだけなのかは疑問だった。

実直な老人の顔を思い出し、ひょっとして彼がこの国へ来た時、彼自身さえ知らない危険が迫っていたのかもしれない――それはいくらなんでも思い過ごしだろうか……?

そして、自分が生まれたとき、王位継承の儀式に立ち会った神官長はどうしたのだろう?

それについては前宰相も語らなかったし、青慧も知らないようだった。

しばらくの沈黙の後、青慧がぽつりと呟く。

「その神官長が神官として存在していたならば、もう生きてはいないでしょう。あるいは、貴方のように、どこかに幽閉されているか……逆に、王族や貴族と同じであれば、今でも生きているでしょう」

ただ、それは宰相がはじめて耳にする冷たく、乾いた声音だった。

 馬車は王城の門をくぐって停まった。

青慧は礼を言って馬車を降りようとする宰相を呼び止め、

「皇子、ひとつ予言を差し上げましょう。――かの国の方々はいまに貴方の力を頼み、助力を請わざるを得なくなるでしょう。必ずね。ですから、せいぜい売れる恩は出し惜しみせずに高く売っておくことです。借りは作っちゃいけませんよ。不利な条件でも出されたんじゃ、割にあいませんからねえ」

意味深な微笑みを浮かべている顔を、しばし、ターガナーダはまじまじと眺め―――なんともいえない表情(かお)をした。

「……まったく……狸のような方だ……」

ぼそりと呟かれたその言葉をしっかり聞き取った青慧は、盛大に吹き出すと手を打って笑い転げた。






 その日、東京は豪雪だった。

テレビをつけると、JR線も地下鉄もまったく機能しなくなっていると報じられていた。

窓の外を見れば、雪はまだ降り続いている。

「うわあ、これじゃあ行っても駅で足止めされそう」

ハナは嘆息し、いちど肩にかけたショルダーバックを下ろした。尭は窓際に立ち、重くのしかかるような空を見て呟く。

「今日は一日降るな……」

「本当? 兄さんがそう言うんなら止まないね……一応、会社に電話してみようかな……ムダだとは思うけど」

ぶつぶつ言う妹に微笑を向け、再び窓の外に視線を戻した。

異常なほどの雪だ。

東京はこんな大雪には慣れてない。交通機関はおろか、下手をすれば水光熱にまで支障をきたすことになる。

後ろで同僚に電話しているハナの声を聞きながら、尭は窓越しに空を見ていた。

常人には見えず感じないものを感じ取れる彼だからこそ、灰色の空に走ったその 『うねり』 を捉えられたのかもしれなかった。

(なんだ、あれは……?)

窓をあけ、雪の降り続く外へ身を乗り出すように空を見上げる。

「兄さん!?」

仰天したように叫ぶ妹の声も、そのときの彼には届かなかった。

尭は黒いセーターに雪が染み込んでいくのもかまわず、しばらくの間、厳しい目を空に向けていた。

それは予感にも似て―――。





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