【象水】
外海から来た帆船は一旦、出島の港に停泊する。そこで積み荷や船の点検を行い、水華蓮本土の内港――早良港に入る。
甲板から出島を初めて見た者は、その威容にまず驚くだろう。連想するのは要塞。
水華蓮国の盾になるような形で横に広がった港の片端は切り立つ断崖。反対側は内港の様子が遠く覗える。ただし、手前には荒々しい波に削られた岩がいくつも海面から突き立ち牙をむく。牙岩の傍には断崖絶壁が聳え、打ちつけられた波が高くしぶきをあげていた。
門を通らずに水華蓮に行こうとすればここしか道はないが、帆船は言うに及ばず小船ならば岩に叩きつけられ木っ端微塵になるか、泳いでいこうものなら波にのまれて海底に沈むだろう。あわよくば水華蓮に入ることができたとしても、その時にはボロボロの死体となって海面に浮いていることは間違いない。
出島の港には倉庫らしき建物がいくつも並び、警備人の詰め所が点点と存在する。一方で飯屋、酒場、宿屋、みやげ物まで売っている店がずらりと並び、船乗りたちの賑やかな笑い声や、怒鳴りあう声が入り混じっていつも喧騒に包まれていた。
――ここは 『海門』 と呼ばれていた。
早良港へ進むには、この出島の 『門』 を通らなければならないからだ。
ここで積み荷と船自体の審査を受け、入港の許可が下りた船は門をくぐって水華蓮へと入るのであるが、その門の巨大さにたいがいは驚く。
鉄門のてっぺんは帆柱の先端はるかに高く、左右の門柱には二箇所ずつ監視窓があり、横からと上から入港する船を確認する。監視窓の下には砲台がずらりと並び、ここを通る者はありもしない腹を探られているような気持ちにさせられた。
門は海面から下は鉄格子となって水深六間(約十メートル)の海底に達している。海中からの侵入者を防ぐためであるが、実際に潜ってみる者があればあることに気付くだろう。
その海底もまた、門の一部であるということをだ。――門柱に入る前に長さ六十間、入ってから六十間、幅三三間の範囲で大岩が海底に敷きつめられているのである――これ以上の船は門前で足止めをくらうことになる。また、軍艦は喫水が浅く、快速だが転覆しやすい。まんいち浸入され、水華蓮の内港に砲撃でも加えようものなら、後方にそびえる海門の要塞から爆撃されることになる。
この徹底した防御は、過去なんども侵攻の危機にさらされた結果ともいえた。
門と外海から来る船を睥睨するように聳えるのが、守人の一族の城塞である。
武骨な石造りのそれは華美な装飾など一切なく、あくまで実用一辺倒。高い塀の上には警備が交替で回っている。外からでは見えないが、城塞と塀の間はありとあらゆる物騒なものが整然と並べられており、いつなんどき事が起こったとしても瞬時に戦闘態勢に入れることを意味していた。
それは門の内側――水華蓮側でも同じだが、外と違うのはあからさまに砲台が設置されていることである。早良港に停泊している外来船への威圧と、罷り間違えば水華蓮国への宣戦布告ともとれる。無論、城塞から放たれた砲撃が女王の住まう王城へ届くはずもないが。
「アイオリアの親父はいるかい?」
威勢良く扉があき、獅子の鬣のような髪をなびかせて巨漢が入ってきた。
ずんずん進む男の正面、大きな机の上に所狭しと積み上げられた本の中から、青年が顔をあげた。入ってきた男とは対照的に学者然とした風貌である。
「親父なら城へ行ってる。子供連れて」
「白竜の件でか? チビどもも?」
獅子の男は、頷く青年の傍らにあった茶器から勝手に茶を注ぐと、ぐいとあおった。
海門の長アイオリア・ガナの書斎である。
外海に面して窓が並び青い海が一望できた。ただ、日差しがあまりに強いため、半分以上の窓には薄い布が垂らされている。
青年は茶器の蓋をあけ、肩をすくめると湯を淹れるために立ち上がった。
たいそうな長身だった。横幅は獅子の男の半分ほどしかないが、白い長袍の上からでもその身体が鋼のように引き締まっていることはわかる。
左腰の長剣がかちゃりと鳴った。彼は書類と向き合っている時でさえ剣を外さなかったらしい。
「ダレイアス、親父に何か用があったんじゃないのか?」
青年は茶を注ぎながら巨漢の男に訊いた。
ダレイアスは表情を引き締め、長アイオリア・ガナの代行である青年に一通の書状を差し出した。
「ホウライヌの、結界守からだ。……オリオン。伝説は、伝説じゃなくなるかもしれねえぜ」
――戦闘集団である守人の一族が自治を保ちつつ、かつ水華蓮国の盾となっているのは、ひとえに竜王の存在があったればこそ――
「やあ。お帰りなさい、宰相。思ったよりお早かったですね」
ターガナーダが扉を開けると、蒼い法衣の男が微笑いながら立っていた。青銀の瞳の皇子は、何と言うべきか迷い複雑そうな表情を浮かべた。
青慧はその心中を見通したように笑い、ターガナーダに座るよう促す。
来たときと同じに、水華蓮国の神殿の奥部屋はしんと静まり返り、明かりが灯されていた。卓の上にはお茶の用意までしてある。青慧の茶碗から湯気が立ちのぼっているところを見ると、神祇官長がここへ来てさほどの時間はたっていないらしい。
「まあ、一服どうぞ」
青慧は茶を注ぎ、宰相に差し出す。言葉が出ぬまま、ターガナーダは茶碗を受け取った。しばらく、二人の男は黙ったまま向かい合って茶を飲んでいた。
やがて、変わらない柔らかな声で青慧が言った。
「……かの国は、お変わりありませんでしたか?」
「――ええ……。いえ……いいえ、青慧殿。あの国は………」
言いかけ、口を閉ざしたターガナーダだったが、それは話すべきことを必死に選んでいるように見えた。
前宰相から聞いたすべて、自分が気付いた事すべてをぶちまけてしまいたい衝動を抑えながら、やっと搾り出した言葉は。
「青慧殿……これを、貴方のもとで預かってくださらないか」
ターガナーダは抱きかかえるように持っていた古文書を差し出した。
神祇官長の糸目が驚いたように、ほんの少し、見開かれた。
瞼から覗いた眩しい空のような青い目を、ターガナーダは真っ直ぐ見つめる。
「……これを? 私がですか?」
「はい。……あちらに置いていたのでは、いつ紛失するかわかりませんので」
青慧は首を傾げ、おかしそうに言った。
「紛失して困るようなものなら、宰相がお持ちになっていたほうがよいのでは?」
だが、ターガナーダは頑固に首を振り、青慧に頭を下げた。
慌てたように顔をあげさせた神祇官長は、困ったように溜息をもらす。
「まあ、宰相がそう仰るなら、構いませんけれど……」
「――というより、前宰相のたっての望みですから。後輩としては、これが最善だと言われれば納得するしかありませんので。……できれば、お読みになってぜひとも私にあなたの解釈を聞かせていただきたい」
笑みを浮かべながら、さらりと言ってのけた青年宰相を、青慧は今度こそ驚いたようにまじまじと見つめた。
「……皇子、あちらで何かございましたか?」
「…………。ありすぎて、少々混乱気味なのです。実は。」
淡々と返す宰相の顔は、混乱しているようには見えなかったのだが――。
ターガナーダが 「少々混乱気味」 だと言ったのはどうやら本当らしい。
通常、この青年は朴訥ながらも言うことははっきり言うし、時によって、虚飾を好む宮廷人たちが鼻白むほどの毒舌を披露することもあるのだが、めったにないほど気難しい表情で考え込んでいる。
手渡された古文書をぱらぱらとめくっていた青慧は、そんな悩める宰相に糸口を与えた。
「宰相。先日、守人の長たちにローブミンドラの皇子を宰相に迎えるのは倣いだと言ったのを覚えておいでですか?」
「ええ」
「なぜそんな倣いになったのか、ご存知ですか?」
「いいえ……」
思いがけないことを言われたというように、ターガナーダは瞠目する。
青慧は頷き、続けた。
「この神殿に伝わる文書から知ったのですけどね――そもそもの発端は約二千年前。ローブインバラから生まれた真の国王となるべき方を、ローブミンドラ王国の国王代行、あるいは執政官ら……つまり王族、貴族と呼ばれる人々の凶刃から守るためだったんです」
ターガナーダは、彼にしては珍しいことにぽかんとして相手を見た。
「歴史とは権力を持ったものが作る……当然、自分達の都合の悪いことをそのまま記載されては困るのです」
文書館館長となった老人の、苦渋と皮肉に満ちた哀しい笑みが、ターガナーダの脳裏に浮かんだ。