【青蓮華の王】
呆然と立ち尽くすターガナーダはやっと得心がいった。
ハナが帰った後、青慧は神殿に届いた守人の一族の書状を文官に渡した。
それはもう絶妙なタイミングで。
そもそも何故、彼女は帰る時間を正午に、と断定したのか。今まであの空間のゆがみはひどく不安定で時間を特定することなどできなかったはずだ。
前宰相の言葉を鑑みるならば、それは、つまりあの次元の入口は、青慧があけたのだということになる。
女王は無論、知っていただろう。若く見えても一国の女王だ……本当に、見た目どおりの若さならば、だが。
ターガナーダの口元に苦笑が浮かぶ。
自分はひょっとしてとんでもない国に居たのかもしれないと、今更ながらに思ったのだ。
しばし、自己嫌悪にも似た思いに凝然としていたターガナーダだったが、気持ちを切り替えるように疑問を口にした。
前宰相は一瞬なんともいえないような微笑を浮かべ、淡々と語り始めた。
水華蓮国の宰相を勤め上げ、退任した彼は、当然のことながら揚々としてローブミンドラへ戻って来た。老いたとはいえ、命が尽きるまで生国の国王のために働くことができる。
そう思っていた。
だが、戻って来た彼を待っていたのは文書館の館長という信じられないような待遇であった。もとより、出世などちらとも考えていなかった彼だが、それでもこの人事には怒りを感じずにはいられなかった。
王に対し控えめながら意見する者もいたようだったが、国王は頑として受け付けなかったという。
彼をここまで案内した古い友人は、声をひそめこう言った。
「王は、変わられてしまった」 と。
「ひどく何かに怯えておられる」 と。
「怯え……?」
ターガナーダは訝しげに呟いた。
前宰相は頷き、皇子を手招きして地下三階まで案内した。
「わたくしもどういうことかと友人に尋ねましたが、首を振るだけで……ただ、去りぎわにこう言ったのです。その理由はもしかしたら此処にあるやもしれぬ、と」
問うような視線を受け、前宰相は頷いた。
「……あったのです」
物置然とした部屋には一冊の文書さえなく、前宰相がここで暮らしていくために必要な食料や備品などが少しく置かれていただけであった。あとは何の役に立つのかわからないようなガラクタが乱雑に放り込まれている。
石壁につけられた蝋燭がゆらゆらと揺らめき、風の流れを示した。
前宰相は部屋の角、無造作に置かれていた木箱を取り除くと、小刀を敷き詰められた煉瓦の一つに突き立てた。正確には煉瓦と煉瓦の隙間に、である。浮き上がった煉瓦を取り外し、一つ一つ取り外していく。
ターガナーダが手伝うほども無く、九個の煉瓦が取り除かれた。
驚いたことに煉瓦の下から真四角の石が現れた。
「これは……?」
「皇子、たいへん恐縮でございますが、この石の蓋を持ち上げてくださいますか」
「ああ」
ターガナーダは長身をかがめ、その蓋を少しずらしてみた。
かなりの重量である。それでも片手でなんとか外すことができた。
石の箱から出てきたのは数冊のおそろしく古い文書だった。
「……それこそが、王の心を苛んだ元凶でございます」
皮肉げな声音が前宰相の口から洩れた。
「この古文書を見た時わたくしは身体が震えました。先程、わたくしはあなた様にお聞きしました。ここへは青慧殿とご一緒かと。あなた様は一人だと仰った――当然のことでございます」
「ま、待て、宰相。それは、青慧殿はどこか別の部屋から力を発揮されたかもしれんのだ」
ターガナーダは言い知れぬ不安を吹き消すように言った。実際、ハナが戻ったときには彼はあの場にはいなかったのだから。
だが、前宰相は頑迷ともいえる態度で首を振った。
「皇子……上へまいりましょう。こんな地下に長く居てはお体に障ります」
前宰相がささやかなもてなしを用意している間、ターガナーダは古文書をめくっていた。
古い文体だ。現在のローブミンドラでは使われていない文字も入っている。だが、幽閉時代に本という本を読みあさったおかげか、何とか読解することはできそうだ。
「しかし、なんとも紛らわしい……」
「どうぞ」
呟いたターガナーダの前に、香ばしい香りのする茶が差し出された。
「……宰相手ずからの茶とは恐れ入る」
冗談とも本気ともつかぬ皇子の言葉に、老人は楽しげに笑った。
「なんの。今では文書館館長でございますからな。皇子のお世話を他人に譲るわけにはまいりません」
と、これも本気か冗談かわからないようなこと言った。そしてふと柔らかな微笑を浮かべた。
「皇子、わたくしは、ここに閉じ込められたことは幸運であったと思っております。今では打ち捨てられたようなところではございますが、ゆえに誰に邪魔されることもなく存分に模索し研究できます」
「宰相、ちと解せないのだが、王はこの古文書の存在を知らぬのか」
「だと思います。でなければ、わたくしをここへ放り込むことはございますまい。……あの隠され方を見た時、思わず笑ってしまいました。これを隠した古の、「王」と名乗る方は焼くに焼けず、かといってそのまま手にしているのも良心の呵責に日々悩まされることになりますゆえ」
さらりと言われた言葉であったが、ターガナーダはそのまま流したりしなかった。
自身の培ってきた「常識」が覆されそうなほどの言葉である。その反応を予期していた前宰相は、机の上に積み重ねられた五冊の古文書を順番に並べてみせた。そしてターガナーダの手にある巻の一をあわせて全部で六冊。
ターガナーダが見ていた巻の一は水華蓮の神話とほぼ同じ内容の神話である。しかもちらと見ただけでも恐ろしくややこしい記述で、普通なら数頁で投げ出しただろう。
「皇子、この古文書は巻の一から読んではなりません」
「え?」
思いがけない言葉に顔をあげる。
普通、本というものは一巻から読むものではないのか?
「左様です。通常の、物語であれば。……当初、わたくしも巻の一から読んでまいりましたが、これがまたいかんともしがたく、さっぱりわけがわかりません。要約すれば、ご存知のように竜王の神話なのですが、どうもごちゃごちゃとして支離滅裂です。正直、騙されたと思いました」
その物言いに吹き出しそうになるのをこらえ、先を促す。老人はちょいと一礼して巻の五を手にとった。
「――なので、巻の一は放って巻の六を開きました。巻の六は、用語集・索引と目次でございました。それも、この巻の六はほとんどが用語集であります。目次に到っては最後の最後にほんの二頁です」
「……つまり、巻の五からはじまるわけだな?」
「そのとおりです。お読みくださればおわかりになりますが、読むに値すると思われるのは各巻に一握り。しかも、巧妙に事実を隠して書かれております――先程、皇子は「紛らわしい」と仰いました。実はそれこそがこの文書の意図するところなのです」
「――――?」
「考えてみたのです……この古文書は、一体何のために作られたのかと」
時代ははるか遡って二千年ほど前だ。先刻の肖像よりさらに千年前になる。
古文書によれば、王はマードゥカーリーの治世。父王はマードゥカトラ、母は王妃リィダ。
マードゥカーリーは王位を継いだとき、史書を作るよう命じる。誇り高き竜王一族の歴史を残さんとして。
史書の作成はバトという名の文官を筆頭に数名と、ウスニという神官が任命された。
彼らは喜んでこの任を遂行した。それはもう、ありとあらゆる神話や口伝を集めたのだろう。
そして、出来上がったものを王に献上した直後、それに関わるすべての者が原因不明の病や、事故で死んだのである。
古文書は、書き手を替えて、言う。
誉れ高き命を賜ったにも関わらず命を落とした人々を、王は惜しみ嘆いたが、人知の及ばぬ何かに命を奪われた時、人は天の力を思い知るのだと。
「……表面上、それは天罰が下ったのだと言っております。わたくしも最初に巻の五を読んでいなければ、うっかり騙されていたかもしれません」
前宰相は巻の五を開き、しばし目を落としていた。
「皇子。皇子は、何処でお生まれか」
ターガナーダの肩がびくりと震えた。
真っ直ぐに、恐ろしいような光を目に宿して老人は目の前の青年を見据えた。
ターガナーダは石像と化したように動かなかった。否、動けなかったのである。
それは――それこそが、彼が忌まれ、幽閉される原因であったのだから。
「皇子は人の子にあらず。ターガナーダ殿下は、禁域であり聖地とされる蓮池の、千年に一度花開くローブインバラより生まれし御子――そうでございましょう?」
ターガナーダは頷くことも、老人から目を離すこともできなかった。その手は固く握り締められ、白く変色していた。青銀の瞳に激しい炎のような輝きを浮かべ、目の前の老人を睨み据えている。
前宰相は真っ向からそのまなざしを受け止め、手に持っていた巻の五を皇子に向きなおし、差し出して厳かに告げた。
「それこそが、このローブミンドラ王国の真の国王たるべき最大にして、必須の条件なのです。しかも、あなた様はただの王ではありません。はじめの竜王――『始原の竜』に付き従う小王のお一人なのです」
――――この地を統べる正王は、清浄なる蓮池の純白のウバラより生まる。ウバラより生まれし御子は、その地にしばしの安寧をもたらすであろう。
王国の最奥、なんぴとたりとも侵すことあたわぬ聖域より千年にいちど花開くをローブインバラという。
黒き汚泥の底より、一片の穢れも纏わず清浄の蒼きローブインバラより生まれし御子はこれ、はじめの竜王いずれかの小王の降臨なり――――
いつもありがとうございます。
やっと何とか少しばかり核心に触れられるところまできました。
これからもどうぞ気長にお付き合いいただけますように……。