【逢】
文官長の私室で和やかな歓談を楽しんだ後、それぞれの執務室へと分かれて行った。
宰相の執務室へ戻って数時間、ふと顔をあげると玻璃の向こうはとっぷりと日が暮れていた。
「もうこんな時間か……お前達もご苦労だった。今日はもう退がってよい」
官吏たちに声をかける。
「はい」
書類をまとめ、文箱に筆をきちんとしまいこむと、官吏たちは一礼してさがっていった。
宰相自身は執務机から離れず、しばらくは書類に目を通していた。
すっと湯呑みが差し出され、ふわりと香った柔らかい湯気に瞬きして顔をあげる。
「……峰牙」
「あまり根を詰めると身体がまいってしまいますよ、ターガナーダ様」
巨漢の男が人懐こい笑みを浮かべている。
磊落な物言いをするが宰相の筆頭補佐官であった。
下級兵士であったのを宰相が抜擢したのであるが、およそ文官とは思えないほどの体躯である。おまけにたいそうな色男で宰相に負けず劣らず、これまた王城の女官たちの秋波の的でもあった――この男のほうは宰相と違い、彼女達の秋波を拒むことはなかったようだが。
腰に大剣を佩いているところをみると、文武両道の才を有しているのであろうことが覗える。そればかりではない。
この男は足音をさせず歩く。時によって宰相の後ろに控えていながら一切の気配を消すこともあり、よからぬことを企む連中の肝を冷やしたことも少なからずあったのだった。
文官長が数少ない信のおける官吏だとすれば、宰相にとってこの男は腹心の友ともいえた。
「うむ……」
宰相は湯呑みを両手で包むようにして、ひとくち口に含んだ。甘味と苦味が調和し、後味はさっぱりと清々しい。
「お前は茶を淹れるのがうまいな」
「それはどうも。――閣下、明日はお休みなさってはどうです。神殿のお方とのお話もありましょう」
峰牙の言に、宰相は青銀の目を大きく見張った。
「驚いたな。なぜ知っている?」
だが男のほうはひょいと肩を竦め、ひらひらと手を振ってみせた。
「別に探ってたわけじゃありませんよ。かの御方から言伝があったんです。宰相閣下がお話があるようだから、そちらの急用がなければ明日は神殿においでくださいってね」
思わず頭を抱えた宰相は、やがてふっと吹き出した。
まったく、いつの間にそんな言伝をよこしたのか……。こちらの知りたいことを充分承知した上で、敢えてこちらから切り出させようというのか。
「……まったく、あの方にはかなわないな……」
翌日、朝議のあと神殿へと向かった宰相は、青慧の使いに迎えられた。
「おはようございます、宰相閣下。神祇庁長官・青慧様の命によりお迎えに参りました」
一礼した神官に苦笑を隠して頷いてみせる。
宰相を乗せた馬車は森を抜け、白い石柱の立ち並ぶ巨大な建物の真下で停まった。
案内の神官について中へと入った。すれ違う神官たちが恭しく一礼して歩いていく。
宰相を案内していた神官は、奥殿へ入る地点で交替された。
ここから先は一般の神官は立ち入れないのである。
「おはようございます、宰相閣下。どうぞこちらへ」
青慧の補佐官は深く一礼し、宰相を促して歩きはじめた。
背後で重々しく扉が閉められる。不思議なことに、窓はひとつもないのにどこからか明かりが差している。神殿の白い石が光を反射して更に明るさを増していた。
その不思議な光の廊下を抜け、補佐官はある扉の前で止まった。
「どうぞ、しばらくこちらでお待ちくださいませ。ただいま官長を呼んでまいります」
そして、宰相は一人部屋に残された。
長椅子にゆったりと腰掛け、何気なく部屋の中を見渡す。
こぢんまりとした部屋だ。明るさも、調度も、高貴な客を迎えるほどではないが整っている。
どちらかといえば、休憩室か控え室のようだった。
そこまで考えて、はっと顔をあげた。
知っている――。
宰相は立ち上がり、入ってきた扉を振り返った。シンと静まり返った扉の向こうに人の気配はない。
向き直ってもう一つの扉を見つめる。
(ここは、まさか……)
宰相はしばしの逡巡の後、扉の取っ手を掴んだ。
官長室では、客を迎えているにしてはのんびりとした様子で部屋の主が窓の外を眺めていた。
「行きましたか……」
ぽつりと呟き、唇に笑みを刷く。
「……青慧様、本当にあの部屋にご案内してよかったのですか?」
戻って来た補佐官はいくぶん心配そうに言った。何しろ、相手はこの国の宰相である。国の重鎮を案内するにはいささか場違いな部屋なのだ。
だが、青慧は笑って大丈夫だと言った。
「ああ、そうそう。宰相閣下はしばらくお戻りにはならないでしょうから、筆頭補佐官に伝えなくてはね」
「……はあ……」
神祇官長補佐官は目をぱちくりさせて頷いた。
わけがわからずとも言われたことをきちんと成すのが青慧の副官の、副官たる所以である。
聞いてもわからない理由ならば、聞かないに越したことはない。――なぜなら、聞いたとしても自分には理解できないとわかっているからだ。
星々が彼を追い越し、すり抜け、目の前を横切っていく。だがけしてぶつかることはなく、感じるのは否応なしに流される感覚だけであった。
水華蓮へ赴いたときに感じた感覚である。この流れの先がどこに行き着くのか、嫌でもわかる。
それは彼の心の奥底を苦いもので満たし、引っ掻きまわす。忌まわしい記憶の塊でしかない国。
ローブミンドラ王国への道であった。
流れの終着は多少の浮遊感を伴う。ふと、あの異邦人が絶叫を放って落ちてきたことを思い出した。
なるほど、あんな高さから放り出されたのでは叫びたくもなるか……。
直後、あの女は近衛兵数人を相手取って大立ち回りを演じてみせた。
それに思い至り、こんな場ではあったが思わず吹き出しそうになりながら、ゆっくりと身体をおこす。
「皇子……」
驚愕したような老人の声がターガナーダの耳を打った。顔をあげ、思いがけない人物を見て彼は瞠目した。
「何ゆえおぬしがここに居るのだ、宰相? 今は政務の時刻ではないのか……?」
ここは神殿の奥殿のはずである。水華蓮と同じく、この扉のある空間は最奥に位置しているはずであった。少なくとも己が水華蓮に行くまではそうだ。
こんなところに何故、先代の水華蓮国宰相がいるのだ? 神官が一緒にいるわけでもなし……。
ターガナーダが奇異に思ったのも無理はなかった。本来ならこの人はローブミンドラ王国の国王の側近として勤めているはずだからだ。
目の前の老人はどう応えるべきか悩んだようだったが、意を決してターガナーダの腕をとった。
「皇子、ここにいてはいけません。どうぞこちらへ!」
ターガナーダは大きな布を被せられ、わけがわからぬまま老人の後を追った。
部屋を出ると石造りの廊下が伸びている。ここは彼の記憶にもあるが、こんなに暗かったろうかと首を傾げた。
ずばぬけて長身の皇子だ。マントを被っても目立つことこの上ないが、神殿は誰一人おらず閑散としていた。礼拝堂の大広間にさえ人っ子ひとりいない。だだっ広い石の床がのびているだけで、いっそ寒々しい。
(これはまた、どうしたことだ……?)
記憶にあるのは、ひっきりなしに入ってくる街の人々、忙しげな神官たち、そして出入り口に立つ警備兵、そのうんざりしたような顔の兵の足元で遊びまわる子供たち――そんな賑やかな神殿であったはずだ。それがいま、死んだように静まり返り、神官の姿さえない。
彼らは神殿の裏口から外へ出た。深い森が右手に見え、左手には白亜の城が聳えている。あの本宮から離れた場所に立っている離宮に、彼は幽閉されていた。
今この一帯は霧に包まれ、城の向こうに見えるはずの町並みも、山々も隠されている。
「霧とは珍しい……」
低く呟いたターガナーダを促し、老人が案内したのは森の中にある古びた塔だった。
「文書館……?」
「さ、こちらへ」
老人はターガナーダを招きいれ、扉を閉めると恭しく跪いた。
「皇子、お久しゅう存じます。何という天の采配か! 誠に……まことに嬉しゅう存じます!」
「さ、宰相。一体なにを言っている? とにかく立ってくれ」
いささか面食らいながら老人を立たせる。驚いたことに老人は感激に目を潤ませ、肩を震わせていた。
「宰相、一体どうしたのだ……?」
訝しげな青年の顔を見上げ、老人は涙を拭うときりりと背筋を伸ばした。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。すべてご説明申し上げます……皇子、その前に一つお伺いいたしますが……こちらへは、青慧殿に送られてらっしゃいましたか?」
「まさか。一人だ。……だがまあ、こうなってみると青慧殿はこれを目論んでいたような気もしてくるがな」
やれやれと肩を竦めてみせた青年を、老人は穴があきそうなほどまじまじと見つめた。
「ん?」
不思議そうな顔をしたターガナーダに会心の笑みをむけ、言った。
「お変わりあそばした……逞しゅうなられましたな。……離宮から出られたときのあなた様は、刃のように鋭く、ゆえに脆くお見受けしました。ですが、今のあなた様を拝見していると、この国も、あの城も、もう皇子を痛めつけることは無いように思えます」
老人に言われて「おや」と気がついた。
たしかに、白亜の城は彼に何の感慨も与えなかった。
つい先程、星の飛び交う道を流されながら、心の奥を苛んだ記憶はなんだったのか……?
それが跡形も無く消え去っていることに気がついた。
首を捻り、一つの理由に思い至る。
(ハナ、お前か……)
ふと、ターガナーダの秀麗な相貌に微笑が浮かぶ。
そして次々と脳裏に現れる人々の顔。美しい女王、仙人の博士、糸目の神祇官長、腹心の補佐官や頼もしい近衛の二人、茶をともにした文官長……。
生国であるこの国で持てなかったものが、水華蓮にはこんなにもある。
「……何一つ、とは言えないがな。水華蓮は、色々と騒がしい国だからな。いちいち切れておっては身がもたんのだ」
ターガナーダはそう言って己の頭を突いてみせた。その様子に、老人は声をたてて笑った。
文書館は地上五階、地下三階の石造りの円柱塔である。
王族や貴族が所蔵する書物とは別に、ここには古文書が中心に保管されていた。
神話の類から、口伝にいたるまでローブミンドラ王国に存在する古い文献がここに集められているのだ。
「まずは、お見せしたいものがございます」
そう言って地下のひと部屋に皇子を案内した前宰相は、大きな絵の前に立った。掛けられていた布が取り払われ、現れたのは二人の男性の肖像だった。
「これは……!」
一人は見知らぬ、きりりとした風貌の若い男であるが、いまひとりはなんと、水華蓮国神祇庁長官・青慧そのひとであった。
「この方も、水華蓮の宰相だったのでございます」
老人が青慧の隣に描かれている男を指して言う。
「……? お会いしたことはなさそうだが……?」
ターガナーダの不思議そうな声に、老人はくつくつ笑った。
「無論でございます。何しろ、この方は千年ほど前に水華蓮にいらした宰相でございますからな」
「千……? では、青慧殿に似た方は、ご先祖ということか?」
「はて……どうでございましょう? 千年前の水華蓮の神祇長官殿の名は、青慧とおっしゃるそうです」
「なにっ……?」
皇子は恐ろしいような表情で振り返る。
老人は深く頷き、重々しい声音で告げた。
「皇子。青慧殿ご自身のことは、詮索なさってはいけませぬ。そしていま一つ。よろしいか。これは厳然たる事実なのですが――わが国から水華蓮へ宰相として赴く際、かの方のお力なくば、あの『道』を通ることはけして適わぬのです。……ひとつの例外をのぞいては……」