【ヒラカレタゴマ】
矢島ハナは長い髪を無造作に束ね、ハード系の黒いロングコートをはおった。肩や上腕部についた銀のアクセサリーが動くたびにチャラチャラ鳴る。
ずいぶん昔の夢をみた気がする。
ぼんやりそんなことを思っていると、
BBB……
ポケットの携帯電話が振動した。
「はい」
『こちらリョウヘイ。もう出られるか?』
「おっつ〜。今から出るとこ」
電話の向こうから田無亮兵の低い美声が流れてきた。
亮兵はハナとは中学からのつきあいで、いわゆるオタク系。
ルックスはすこぶるイケてるのに色味のある話にはまったく無関心の男だった。彼女もどちらかといえばその手の話には疎い。似た者同士というのか、今でもこうして会っている。
ハナはショートブーツに足を突っ込み、ショルダーバックを肩に引っ掛けると玄関のチェーンロックを外した。
「亮兵、何か食べるもの買って行こ…」
――助けて…っ!
ふいに、ドアの向こうから切迫したような声が聞こえ、彼女は耳をすます。
『ハナ、どうした?』
「しっ! いま、悲鳴が聞こえた…?」
――助けて、ハナ!
「――っ!」
はっきりと自分を呼ぶ声が聞こえる。ハナは慌ててドアノブを握った。
だが、その手が掴んだのは冷たい空気だった。
訝って見下ろした彼女は「ひっ」と息を呑んだ。
「亮兵っ! て…っ! 手が、手が…っっ!」
『ハナ? 何言ってんだ、手がなんだ』
少し苛立ったような男の声に、だが、ハナはもう返事もできなかった。
ロックを外そうとドアに触れた手首から先が消え、ずぶずぶとうまっていくように体が引っ張られる。身を引こうとするがかなわず、腕全体をからめとられたかのようだった。
「り、りょうへ……」
『おい、ハナ! どうしたんだ!』
自分の体が消えていくのを見るのは気持ちのいいものではない。ハナはドアに埋まる寸前、固く目を閉じて携帯を胸に抱きしめた。
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――助けて、ハナ!!
「誰!」
再び聞こえた声に叫び返す。だが、それには応えはなかった。
「誰なの?! 返事して!」
誰の声なのか思い出せない。ただ、相手が必死に叫んでいることだけは感じ取れる。
しかし、どうしても怖くて目を開けられなかった。
体は否応無しにぐいぐい引っ張られている。まるで水の流れに翻弄されているようだった。
そして突然、彼女はぽーんと放り出された。
「――え…っ?」
一瞬の浮遊感のあと今度は下に引っ張られる。思わず目を開き、迫る底に絶叫した。
「ぅわああ!」
着地態勢を整える間もなく、固い地べたに激突。
「いっ…」
身体中に走った電流にしばらく硬直する。
「いったぁ……」
うめきながら、そろそろと身体を起こし、お尻をさすった。
「はっ! ケータイはっ?」
ハナは、慌てて携帯電話を探す。1メートルほど離れたところに転がるそれを見つけた。痛みも忘れて飛びつくように拾い上げ、開いて液晶画面を確認する。
「液晶は……大丈夫。音は……」
ボタンを押そうとして電話が震えた。
着信通知。相手は亮兵だった。
「あっ! もしもしっ! 亮兵っ?」
『ハナ、お前いったい何やってんだ?』
「いやそれが、何かヘンなことに……」
ふと顔を上げると、大きな円卓に座っていた人々が目をまんまるにしてこちらを見ている。ハナの目も負けないくらいまん丸になった。
何とそこはどこかの広い室内で、日本人ではない、
「…ヒトがいる…」
『は?』
ハナはちょっと引きつったように笑い、呆然とする彼らに片手をあげてみせた。
「ええと…、お邪魔します。ここはドコですか…?」
『はあ?』
携帯の向こうから亮兵の素っ頓狂な声。
人々は呪縛から開放されたように騒ぎ始めた。
誰何するような声音で喋っているが、ハナには何を言っているのか全くわからない。
殺気立ち始めた人々を制し、一人の男がこちらに歩いて来る。腰に佩かれた長剣が不気味な輝きを放った。
どうやら、あまり喜ばしい状況ではなさそうだ。
「なんかやばいかも…亮兵、ごめん、また後で」
『おい、ハナッ…』
携帯電話を切ると、コートのポケットに入れた。
ほこりをはたいてゆっくりと立ち上がる。
男はさりげなく左腰の剣に手を添えながら、ハナの前に立ち塞がった。
まだ若い。えらく背の高い男だ。
7.5センチのヒールでハナの身長は優に170センチを超すはずだ。その彼女より20センチは背の高い男は、底の見えない湖のような目でハナを見下ろした。
【何者だ?】
群青の髪に青銀の瞳というありえない色彩をもつ美丈夫から流れてきたのは、氷のような冷たい声音だった。
だが、やはりハナには何を言っているのかさっぱり解らなかった。
文字通り兵に囲まれ、引っ立てられて連れて来られたのは、先の部屋より広く豪奢な造りの広間だった。
彫刻が施された柱が何本も立ち、壁や天上にも緻密な装飾絵がびっしりと描かれている。
じっと見ていると目が回りそうだった。
ズラリと並んだ兵士と、高級そうな生地の中国風の着物を着た人々がこちらを見ている。
よくよく観察してみると、服や建築は中国やベトナムなどアジアの国々の様式をまぜこぜにしたような感があった。
女はみな髪を長く伸ばし、高く結い上げて簪をさしている。袖も裾も長い着物を何枚も重ね、肌を見せることはないようだった。一方、男のほうも袖と裾の長いのは同じだが、長胞の下はゆったりとしたズボンを履き、臑までのブーツを履いていた。
(…しかし、なんだか肩コリそうな民族衣装…)
ハナは心中呟いた。
入ってきた扉の正面、まっすぐ進んだところに階段があり、その壇上の豪華な椅子に素晴らしく美しい女が座っていた。
「べっぴん…!」
思わずポカンと見惚れて呟いたハナの後方から低い声がした。
【歩け】
見上げると表情の消えた顔が自分を見下ろしており、先へ進めと軽く背を押す。
人々の前を通り過ぎると呆れたような声が洩らされた。
それもそのはず。彼女の顔や手には小さなすり傷やら切り傷がついており、彼女を取り巻く兵たちの顔や手も一様にキズだらけだったからだ。
無傷なのは長身のこの男だけだ。
【………】
居並ぶ官たちは、このひと暴れしてきたような一団を、目を丸くしながら見送った。
傷だらけなのにはわけがある。
先刻、身ぐるみを剥がされそうになり、兵たちと取っ組み合いのケンカをしてきたのだ。
※
問答無用で襲い掛かってくる男たちを相手に、殴る蹴るの抵抗をしていたのだが多勢に無勢、ほどなく彼女は取り押さえられ、コートのポケットに入れた携帯電話を兵の一人に取り上げられた。
彼もそこまででやめておけば良かったものを、あろうことか、まだ買ったばかりの――しかも新機種! ――それを叩き壊そうとしたのだ。
「壊したら弁償させるぞっ!」
ハナは凄まじい怒声を発した。兵はビクリと身を竦ませ、手を止めた。が、時すでに遅し。
怒髪、天をつく――とはこのことだ。
彼女は怒りにまかせて腕を押さえていた兵の急所を横から蹴り上げた。その攻撃で自由になった拳をもう一人の兵の顔面に叩き込む。
二人の男は「ぎゃっ」と叫んで床に転がった。
これでも実家は百年続く武術道場だ。だが、先ほどのように咄嗟に襲い掛かられて対処できないとは、跡取りとして情けなく面目次第もない。
しかしハナの赤面するような内心とは裏腹に、思わぬ反撃をくらった兵たちは肝を抜かれたらしい。
ハナは呆けたように立ち尽くす兵の手から槍をひったくると、腕を組んで一連の様子を眺めていた長身の男の喉もとに槍鋒を突きつけた。
【なっ…!】
【さ、宰相閣下…!】
【貴様!】
仰天した兵らは口々に叫んで色めきたち、遅ればせながらに得物をかまえた。
「動くな!」
ハナの鋭い一声に、兵たちはピタリと動きを止める。
言葉は通じなくとも、この状況で発せられる言葉の意味はそれしかあるまい。
はたして、隙をつかれた兵たちは憎々しげに口をゆがめ、ハナを睨みつける。
「…それを返せ。こんな槍よりか物騒なもんじゃない。だけど、私には大事なものだ」
槍を男に突きつけ、携帯を持っている兵に片手を突き出した。
【ぬっ…】
「か・え・せ」
槍鋒をさらに男に近づけ、もう一度ひくく繰り返す。
兵士らは口を真一文字に引き結び、コトとも動かない。
じっとりとした汗がにじんでくるような三すくみ状態だった。
だが突然、盛大に吹き出す音と、次いで場違いなくらい朗らかな笑い声が沈黙を破った。
【さ、宰相閣下……】
兵たちは仰天して目をぱちくりさせる。
ハナとて例外ではなかった。
槍を向けたまま、あっけにとられて見上げると、男は口元に拳をあてて目に涙さえ浮かべて笑っている。
何か激しくツボにはいったらしい。
【見事な反撃だな、異邦人どの。お前たち槍を引け。それを返してやるがいい】
男は突きつけられた槍鋒をちょいとつまんでハナの手から取り上げた。
兵がハナの手に携帯電話をのせる。
「………」
ハナはじろりとその男を睨むと、電話に異常がないか確かめ、コートのポケットにしまいこんだ。
【来い。陛下にご報告せねばならん】
目に笑いを残したまま、男はハナの腕を掴むとすたすたと歩き始めたのだった。
※
一行が壇上の手前で止まると傍らにいた長身の男が前に進み出た。隙のない所作で優雅に一礼し、低いよく透る声で進上した。
【申し上げます。女王陛下におきましてはすでにお聞き及びと存じますが、先刻、青海の間において中空より現れし人物をこちらに連れ参りました。言葉も通じませぬゆえ、事情も不明でございますが、この者の処置についてご判断をいただきたく存じます】
久々に連載をはじめようと思います。
ゆっくりマイペースで参りますので、どうぞ宜しくお願いします。