【神祇長官 問答】
「竜王だと?」
極めて不機嫌そうな声音で言ったのは水華蓮国宰相ターガナーダだった。
足元に傅いた守人の長らは更に頭を深く垂れる。
宰相は溜息をついた。
――― 一体、何の冗談かと思った。
ハナが宙空に消え、その喪失から立ち直るのに彼にして、しばらくの時間が必要だった。
頭では理解していた。いずれは元の世界へ戻るであろうことも、そして彼女自身がそれを望んでいることも。
だが、感情のほうはそうたやすく納得してくれないのだ。
彼女が腕からすり抜けていったとき、彼は本気で後悔した。
なぜあの夜、香水瓶の蓋を開けておかなかったのか、と。そうすれば、せめて数日、数ヶ月なりとも手元においておけたかもしれないのに……。
そんな詮の無い後悔から立ち直るのにも少し時間を要した。
何度か大きく呼吸を繰り返し、吹っ切るように青海の間を出たところを官吏に見つかり、わあわあ騒ぎ立てる彼に引っ張られて連れてこられたところが――
「白い竜が出現して、何故わたしがお前達の言う 「竜王」 とやらになるのか、わけがわからんのだが」
鉄仮面の宰相から出た冷たい声音は、不機嫌さも手伝って氷霧が漂うかと思われるほど、その場の温度を下げた。
だいたい、あの竜はハナが従弟を救いたい一心で描いた絵に、命が吹き込まれたものではないか。
こんな事情はごく限られた者しか知らないにせよ、それが何故、守人の一族が登城して己が 「竜王」 なんぞに祭り上げられねばならないのか。
呆れてものも言えない。
「はっきりと言っておく。あの竜はお前達一族の抱える 「伝説」 とはまったく無関係に現れたものだ。それを――」
「宰相」
つい、と蒼い光が目の前をよぎる。
気付けば、蒼い法衣の男が立っていた。
「……青慧どの……?」
青慧はにこりと笑い返し、跪く守人の長たちに向き直った。
「神祇官長 青慧です。書状を送ってきたのはあなた方ですね?」
「そうです」
アイオリア・ガナは驚きを禁じえないように頷く。二人の長も驚いたように青慧を見つめた。
それも仕方なかったろう。
一見、三十そこそこ。青年と言っても差し支えないほど若く見える。糸目の温和そうな、すらりとした細身の男だ。
これが水華蓮全土の神殿を掌握し、独自の軍団を持つという噂のある男なのか?
「三門の守り、水華蓮を代表して感謝申し上げます。……ですが、これはいささか性急にすぎませんか。確かに、ここにおわす我が国の宰相は神聖ローブミンドラ王国の皇子殿下であらせられる。あなたがた守人の一族が、古より竜王の眷属として我が国の国境を守護してきたことはよく存じております。同時に、我が国の宰相が何故、ローブミンドラ王国の皇子であるのか、お考えになったことはおありか?」
「…………いえ……」
「これもまた、古の倣いなのですよ。この倣いが破られない限り、水華蓮は 『宰相』 をローブミンドラ王国から迎えるのです」
しんと静まり返った謁見の間には、大きくもないのによく透る青慧の声だけが響いていた。
人々は驚愕に瞬きも忘れ、神祇長官とその傍らの宰相を見つめている。
それは守人の長等も同様だった。
かろうじて、一族の代表としての責任を思い出したアイオリア・ガナが口をひらく。
「では、我々の伝えられた契約は無きに等しいと……?」
何代にもわたる一族の伝説。それは悲願にも似ていたかもしれない。
再びこの世に竜が現れた暁には、一族は竜王の元へ還るのだという――その悲願は、守人の一族であることの誇りと矜持をひとびとに与え、であればこそ一族の均衡を保ってこれたのである。
それが――
「そうではありませんよ、アイオリア・ガナ」
しかし、返ってきた声は淡々としていた。
「はじめの竜王とあなた方の契約というのは、確かにあったのでしょう。どのような形でなされたのか、私は知りませんけどね、生まれちゃいませんからね。――しかしねえ、考えてもごらんなさい。例えば、うちの宰相を竜王と定めて何処へ行こうというのです? 言っておきますが、この世界の何処を探しても、ローブミンドラ王国は見つかりませんよ」
「え?」
思わず顔をあげたアイオリア・ガナの目の前に、糸目の青年の顔が笑っていた。
思わず仰け反った男は、自分のまん前にしゃがみこんでいる高貴な人物をまじまじと見つめる。
いや、それよりも重大なことを聞いた。
皇子の国が見つからないとはどういうことなのだ?
「青慧様、それは、地図にない、ということですか……?」
「ありませんね。載っていないだけではありません。存在しないのです」
断言する神祇長官をぽかんとして見つめる。
「お戯れを……」
「戯れではありません。アイオリア・ガナ、あなたは何処で生まれましたか」
何を言い出すのか、怪訝に思いながらも彼は答えた。
「水華蓮国の早良港です」
「そちらのお二人も水華蓮ですね? ここにいる子供達も」
青慧の問いに長達は頷く。
「――ホウライヌ、ギルバド、ローシカ、または地図に無い小さな国々。だがこれらはこの世界の属性だ。竜王の眷属たるあなた方も含めてね。では、各国におわす博士と呼ばれる 「仙」 達は何処に住まう者か?」
「仙界だよ! ……いえ、です。神祇長官様」
長たちの後ろから少年が答える。アイオリア・ガナが叱責しようとするのを制し、青慧はにっこり笑って 「左様」 と頷いた。優しげな微笑に子供の表情が和らぐ。
青慧は名を尋ねた。
「僕はリュオン、こっちが妹でレイティアです」
「リュオンとレイティアだね。では、リュオン。君に聞こう。博士の住まう仙界は地図に載っているかね?」
「載ってないよ! ……あ、載ってません。だって、世界が違うから」
そうして少年は、美しい女王の傍らに立つ真っ白い老人をちらっと見た。
「その通りだよ」
青慧は会心の笑みを浮かべ、よっこらしょと立ち上がった。
「アイオリア・ガナ。先ほど私がローブミンドラ王国が無いと言ったのはね、まさしくそのことなんですよ」
神祇官長の言わんとするところを悟った場は、再び無言の驚愕の嵐に飲み込まれ、居並ぶ兵たちはひたすら呆気にとられるばかりだった。
女王と博士の傍らに警護に立っていた里応と斎兼は、目を見交わし……お互いに知らなかった事実だと認め合った。
当の宰相本人はただただ憮然として(鉄面皮には変わりなかったが)、青慧とアイオリア・ガナの問答を眺め、いっさい口を開かなかった。
「ま、というわけなのでね、うちの宰相を竜王に祭り上げる前に少し状況を考えたほうがいいのではないかと思うんですよ、私はね」
守人の長達はしばし口をつぐみ、目を見交わす。ただ、アイオリア・ガナは考え込むように床を見つめていた。
やがて。
「……青慧様。お話はよくわかりました。浅慮によりお騒がせしてしまい申し訳ありません。――ですが、ひとつだけお聞かせ願いたい」
「何です?」
「白竜を呼び出した御仁はいずこにいらっしゃるのでしょうか? お話を伺いたいのです」
アイオリア・ガナの言葉に、初めて宰相の表情が変化した。
官吏や兵たちがざわめく。
あの日、白竜出現の場に居合わせた人間は多い。しかし、その理由を知っているものは少ないのだ。
「お国へ帰られましたよ」
あっけらかんとした声がざわめきを突き破った。
「か、帰られた、とは……?」
「言葉どおりの意味です。あの方は、今日、お国に帰られたのです」
蒼い法衣の神祇官長は、幼い子供に噛んで含めるようにそう言って、にっこりと笑った。