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虚空の鑑  作者: 直江和葉
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【廻】


 「お待たせして申し訳ございません」

後ろから声がかかり、振り返ると蒼い法衣の糸目の青年がにっこりと笑って立っていた。

「こんにちは。あ、ええと、着物をありがとうございました」

軽く頭を下げたハナを、青慧は微笑んだまましばらくじっと見つめた。

「……あの……?」

「あ、不躾なことを……。申し訳ございません。その、着物を着てくださって嬉しかったものですから。思ったとおり、貴女には【蒼】がよく似合う」

困惑したような表情のハナに詫びつつ、青慧は嬉しげに糸目をさらに細くして微笑んだ。

「え」

よぎる既視感。

以前にも言われた――。

「ハナ様?」

青年の声にはっと顔をあげたハナは、困ったように微笑んだ。

「すみません。前にも同じようなことを言われたことがあって――。そのときは、緋色でしたけど。いつも黒しか着たことがないと言ったら、その人に”つまらん”と言われてしまいました」

「おやおや。でも、その方の気持ちはよくわかりますよ」

明るい笑い声をたてた青慧は、ハナを近くのテーブルに誘い、向かい合って腰掛けた。

爽やかな風が海に向かって駆けていく。

風を追うように彼方に目を向けたハナの注意は、青年の声によって引き戻された。

「昨日の白竜召喚、お見事でございました。まさか、あんな大技をこの目で見られるとは思ってもいませんでしたよ」

「え? いや、私はべつに……。本当は、私が行ければいいんですけど、海を渡ることはできないと言われましたので……。言葉も喋れませんし……」

「――左様、この国は少し特殊でございましてね」

「ええ。博士に聞きました。――竜樹のことはあの竜に頼むしか手はありませんから」

同意するように深く頷いた青慧は、

「――入口は、開きましたか?」

「いえ、わかりません。青海の間に行ってみないと……」

「――ハナ様。私が入口を開いて差し上げます。ですから、貴女は早々にお帰りなさい」

いくぶん強い口調できっぱりと言った。

驚きに目を見張る女に、神祇官長はさらに声を低めて真剣な面持ちで告げた。

「これから、この国は騒がしくなります。まだ王城のほとんどの人間は気付いていないでしょう。ですが、ほどなく大きな動きが出てきます。その前に、ここを立ち去るのです」

青慧の糸目から覗いたぬけるような青い瞳が、強い光を放って彼女を見据える。

その光が意味するものに、ハナは思い至った。

「青慧さん……それは、まさか……私が竜を呼び出したために……」

「―――――。そうです」

神祇官長は数秒の沈黙の後、ゆっくりと頷いた。

あまりのことにハナの顔面から血の気が失せる。ついで襲ってきた激しい羞恥にこうべをあげていられなかった。

「……私は、今度も、自分のことばかり……」

テーブルの上で握り締められたハナの手に、青慧の大きな手がそっと重ねられた。

「いいえ。それは違います。貴女が恥じることは何一つありません。これは水華蓮という国が持つ宿業しゅくごうなのです。――遠い、過去からの、ね――。ああ、どうかそんな顔をなさらないで下さい」

泣き出しそうな、訝しそうな、色んな感情の入り混じった表情のハナに、

「……明日の正午、青海の間においでなされませ。必ず、無事に戻して差し上げます。――ああ、ええと、でもどうかこのことはご内密に。私にこんな能力があることが他人に知れると輪をかけた騒ぎになりますので……」

青慧は声を低め、苦笑しながら指を唇の前でたてた。

ハナはさらに驚きに目を見張ったが、何も問わず深く頷いた。

「ごめんなさい、青慧さん……。どうか、宜しくお願いします」

「はい、おまかせあれ。……たぶんこれでお別れになるでしょう……。貴女に会えて嬉しゅうございました。どうか、つつがなく、お幸せになられませ」

ほっこりと笑った神祇官長につられ、ハナも笑顔を返したのだった。


 

 月が天空に輝いている。

王城のほとんどの堂室の明かりは消され、ひとびとは深い眠りについている頃だろう。

しんと静まり返った部屋に聞こえるのは、時おり吹き抜ける風の音だけ。

彼は寝台に上体を起こし、青い影を落す玻璃の窓に目を向けた。

胸を抑え、深い呼吸を繰り返す。

群青の髪がさらりと落ちてきた。

しばらくそうして俯いたままだったが、やがてそっと寝台を抜け出し、テーブルの上に置かれていた木箱を手にするとテラスへ出た。

音も無く降り立ったのは階下のテラス。

異邦人が眠る堂室の玻璃が彼の姿を反射し、彼――宰相ターガナーダはゆっくりと部屋へと近づいていった。


 不安――

 

彼の眠りを妨げたのは、言い知れぬ不安だった。

こんなことはかつてないことだ。

幽閉されていた子供時代にも、契約の年齢に達した途端、追い出されるように国を出たときも、こんな不安を感じたことは一度もなかったのだ。

(……私の感情は、もはや子供の頃に枯れ果てたと思っていたがな……)

落ちてきた女に驚き、その行動を驚嘆と同時に心底愉快に思った。

心配させられたり、妬まされたり……


 ハナの枕元に丸くなっていた緑のドラゴンが首をもたげる。宰相はそれへ 「し」 と指をたてた。

すやすやと眠る女は、寝台の傍らに立つ彼に気付いた様子もない。

彼は木箱から小さな香水瓶を取り出した。

調香師スオウの香水――。

キュウ……

小さく鳴いたドラゴンにちらりと目をやり、ハナの白い頬へ視線を落す。

長い指が瓶の蓋をつまみ、ほんの少しずらされた。

この瓶の蓋をあければ、あのふくよかな香りが部屋に満ち、彼女は動けなくなる。

そうすれば、ずっと―――

「……………ふう……」

深い溜息が洩らされた。

小瓶は再び木箱に戻され、寝台の脇のテーブルに置かれた。

彼は眠っているハナの頬にそっと触れると、来たときと同じように音もなく堂室を出て行く。

闇の中、しばらくシュリーマデビイの金の瞳だけが星のようにまたたいていた。



 

 青慧の言われたとおり、ハナは正午前に青海の間へ赴いた。昨晩、女王には元の世界へ戻ると告げていた。無論、青慧が次元の入口を開くなどとは言わない。今日の昼には帰れそうだと言っただけだ。

女王は黙って頷き、「元気で」と言っただけだった。

(ひょっとして、薄々は知ってるんじゃないのかな……)

不思議な神話が残り、なんだか謎の多い人がぼろぼろいて――そんな国の女王をつとめるってことは絶妙なバランスが必要になるのかもしれない。


 青海の間には、女王、近衛兵の斎兼と里応、そして宰相と博士がハナの見送りに立っていた。

「おお! 入口が……!」

斎兼が堂室の上を指差す。

きらきらと輝きながら、それは徐々に大きくなっていく。空洞の中に、流れ星のように光が過ぎるのが見えた。

「皆さん、どうもありがとう。お世話になりました。――シュリーも、ありがとう」

肩に乗ったドラゴンは哀しげな声をあげ、離れるのを嫌がった。だが、彼女だけはあの入口が人為的に開けられたものであることを知っている。

しぶしぶ宰相の肩に飛び移ると、一声細く鳴いた。

宰相の鉄面皮はますますその強度を増しているようだった。多少、気にはなったがこれ以上長引くのは具合が悪い。何せ、これは青慧が起こしているのだ。ぐずぐずしていれば彼に負担がかかるし、本当に帰れなくなってしまう。

内心の焦りをなんとか押し隠し、ハナは女王に一礼した。

「ほんとうに、どうもありがとうございました」

女王は頷き、無表情で立っている宰相に告げた。

【宰相、ハナをあの入口に押し上げてやってください】

彼は問うように女王に目を向けた。

ハナがよじ登ろうにも無理がある高さだ。宙の只中にあるそれに梯子をかけるわけにもいかない。

女王は、途方に暮れたような顔をした宰相に微笑み、頷いてみせた。

【宰相、まかせましたよ。ハナ、どうか、元気で】

にっこりと笑い、しずしずと退出していった。

「元気での、ハナ」

【達者でな】

博士、近衛の二人は口々に声をかけ、青海の間を出て行く。

次元の入口は彼女を急かすように光を増した。

早くしないと青慧が倒れてしまうかもしれない――焦ったハナは傍らに立つ長身の男に手を合わせて叫んだ。

「あのっ、すみません、参謀長官殿! 私をあそこに放り投げてくださいませんか!」

「…………」

宰相はじろりとハナを見下ろし、ひょいと彼女を持ち上げた。

ハナが穴の入口に手を突っ込む。ぐい、と引っ張られる感覚があった。

「やたっ! まだ間に合う! ありがとうございます、参謀長官殿! どうか、皆さんにお礼を……」

「嫌だと言ったら、どうする」

「え……」

思わず自分を持ち上げている男を見下ろす。

端正な、冷たい湖のような瞳がハナを真っ直ぐ見つめていた。

「……帰したくないと言ったら…?」

「――また、そんな冗談を……」

手は次元の流れにぐいぐい引っ張られている。だが、それを阻むように宰相の腕がハナを抱きしめた。

「さ、参謀長官殿……!?」

「…このまま、どこかに連れて逃げようか……。どこか…遠くへ…誰の手も届かない所へ……」

呟くような低い声。

次元の入口は少しずつ小さくなっていく。

「…………。貴方が国をあけてどうするの。誰が女王を支えていくのさ?」

静かな声が降ってきて、彼は顔をあげた。

「私でなくとも、宰相は務まる」

「そうかもしれないけど、万一ぼんくらがついたらどうするのさ。国はあっという間に傾くよ」

「―――」

「……私の仕事も、私が抜けたって代わりはいくらでもいるよ。でも、だからこそ私にしかできない仕事をしたいんだよ。私の、世界でね」

「………」

男の表情が揺らいだ。

冷たい鉄仮面の下から覗いたのは、拗ねた子供のような表情だった。

ハナはちょっと困ったように笑うと、すばやく男の額に唇を落とした。

「ハナ………」

「貴方の善政を祈る」

にこりと笑ったハナは一気に腕を引いた。

「ハナ…ッ!」

宰相は手を伸ばし、再度ハナを掴まえようとしたが彼女の身体は中空の「穴」に吸い込まれ、ほどなく、彼の目の前でそれも小さく消えていった。

キュウウ……

シュリーマデビイが寂しげに鳴いた。

「…………」

彼は手に残る彼女のぬくもりを握り締め、頭を深く垂れた。




 「女王陛下、大変でございます!」

女王の執務室の前、手に持った書状を振り回し、転がるように走って来た文官が息を切らして叫んだ。

「なんです、騒々しい」

女王は眉をひそめたしなめたが、相手のほうはそんな余裕は無かったらしい。手に持った書状を震えながら女王に差し出し、半泣きで叫んだのである。

「これが、神祇官長様の元に届けられ……さ、三門の……こ、国境警備の一族が、契約により国境を放棄すると……っ!」

 

 謁見の間に急行した一行が目にしたのは、槍や剣を引き抜いた兵たちに数人が包囲されているというものものしい状況だった。

「下がりなさい!」

女王の一声に、兵はさっと得物を引いた。

包囲が解かれ、現れたのは三人の男と少年少女の計五人。

着物はいずれも粗末で、武骨なものだった。ひと目で裕福さとは縁のない生活をしているのだとわかる。

普通、そんな人間が贅をこらした巨大な城に足を踏み入れ、なおかつ数十人の兵たちに取り囲まれれば多少なりとも不安を覚えずにはいられないはずだが、彼らの顔には怯えなど微塵も浮かんでいなかった。年のころ十ばかりの少年と少女だけはしっかりと手を繋ぎ寄り添って、現れた女王をまっすぐに見つめていた。

どの男の顔も精悍に引き締まり、鍛え上げられた体躯は俊敏さを伝えてくる。そして、いずれも深い知性の光を目に宿していた。

(……やはり来たか……)

仙人は白い髭をしごきながらじっくりと観察し、そう心中で呟く。

年長と思われる男がゆったりとした足取りで進み出で、女王の前に片膝ついた。

「お初にお目にかかります、女王陛下。わたくしは水門の長、アイオリア・ガナと申します。あちらにいるのが南門のマルテリオン、東門のウラノス。そして私の孫たちです」

「ようこそ、アイオリア・ガナ殿。わたくしは玉蓮です。――今日は何用あって参られましたか」

女王の静かな問いに、アイオリア・ガナはゆっくりと頭をあげた。

「女王陛下にはもとよりご存知のことと思われますが――いにしえの契約により、我ら守人の一族はただいまよりローブミンドラ王国皇子ターガナーダ殿下を竜王と定め奉る」



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